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曹仁(そうじん)・東奔西走の人気者

みなさんこんにちは。ただのオタクです。
もう10月で衣替えですけどまだ暑いですね。
実は毎年僕は衣替えは11月になってからですけど、今年はどれくらいまで周りも半袖で過ごすことになるんでしょうね。
また10月後半になると僕くらいしか半袖で過ごして無いんじゃないかって思っちゃいますけどね(笑)

さてさて今回も紹介させていただきます。
今回は「曹仁(そうじん)」を紹介させていただきます。
曹仁といえば「真・三国無双」シリーズに鉄壁の盾を誇りにしている人物像として登場することが有名だと思います。
このキャラクターは主に後半の方で目立って活躍することになります。

ドラマ「三国志ーThree Kingdomー」では最初の方から軍の統括者のような役回りで登場回数も多いです。
徐州(じょしゅう)で陶謙(とうけん)を攻撃したとき、袁紹(えんしょう)との決戦の前の軍議での発言。
本当に要所要所に登場されています。

ーー曹仁の参戦ーー

曹仁も前回紹介した曹洪(そうこう)と一緒で曹操の従弟になります。
ただ曹洪と違って曹操の臣下として働く前に密かに千人ほどを集めて暴れまわっていたとされています。
その実績もあってか曹操の陣営に参加したら校尉(こうい)いわゆる部隊長に任命されたと言われています。

曹操が陶謙に父親を殺害されてしまった際の復讐戦。呂布が曹操の留守を狙い奪取された取り返す戦。
それに加えて献帝(けんてい)を擁護する際に起きた戦にもいくつもの功績があり、広陽(こうよう)の太守に任命されます。
しかし、曹操は曹仁の戦の才を必要としていたので現地に赴任させずに曹操の下で騎馬隊を率い続けることになります。

曹操は袁紹との決戦に備えていろんな方向の敵に転戦して痛手を負わせようと各地奮戦することになります。
その過程で張繍(ちょうしゅう)と宛(えん)で戦った際、曹仁は周の城を陥落させる功績を上げますが、曹操は張繍と直接ぶつかり敗退。
厳しい追撃を受けて味方の士気も限りなく下がることになりますが、曹仁が将兵に激励をして回り兵の士気を上げます。
これを受けて曹操の中で曹仁の評価が上がることになります。

河内(かだい)で太守として赴任していた張楊(ちょうよう)が暗殺されてしまうという事件があるとき起きます。
この河内という場所は曹操と袁紹の領土に挟まれている形になります。地理的な関係もあり曹操派と袁紹派の2つに分かれることになります。
袁紹派の眭固(すいこ)という人物が曹操の領土に食い込み袁紹軍を引き入れようとします。
いち早くこの事態に先手を打とうと曹操が曹仁や于禁(うきん)など主だった武将に命じて眭固討伐軍をだし勝利、討ち取ることに成功します。

袁紹の残党を攻略する際、并州(へいしゅう)を治めていた袁紹の甥である高幹(こうかん)が壷関(こかん)に籠城します。
袁紹の縁戚でもある高幹を許せなかったのか曹操は籠城している将兵を全滅させるように命じます。その後連戦しても曹操軍は勝つことが出来ませんでした。
この事態に曹仁は曹操に「籠城している兵には生きる道を残すべきです。必ず殺すことを喧伝をして固い城に攻めるのは良策とは言えません」と直言します。
これを採用した曹操はこの案を採用。すると敵は降伏。曹仁は都亭侯に封じられることになります。

中原から河北を攻略しようとしている曹操はもはや時の人で、例え重臣であろうと直接進言するには難しい相手になりつつあると思います。
そんな曹操に直接進言できる人材は貴重でもしかしたら曹操自身これを良しとしなかったのかもしれません。
北方謙三先生の「三国志」では恐らくこれくらいの時機だったと思いますが、荀彧(じゅんいく)から「偶には夏侯惇らと話をしてください。丞相(じょうしょう)にだれも直接進言できないと言うのはよろしくないと思いますので」
と進言されています。
この場面を見て曹操と言う一代の英傑の苦悩を感じたので、個人的にかなり印象的な場面になりました。

少し話が逸れてしまいました。
ここから曹仁は攻城ではなく守備に回ることになります。その為この後の長坂の戦い(ちょうはんのたたかい)や赤壁の戦い(せきへきのたたかい)等に曹仁の名前は載っていません。

ーー鉄壁曹仁の奮戦ーー

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