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【連載小説】「雨の牢獄」解決篇(八)

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【注意】
本投稿は、犯人当て小説「雨の牢獄」の解決篇です。
問題篇を未読のかたは、そちらからお読みください。

※「雨の牢獄」についての説明はこちらです

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 分厚い鉛色の雨雲を溶かすように、太陽の気配が遠くの山際に滲みはじめた。
 いつの間にか周囲の地形はかなり開けていて、早朝の空気に青く染まった郊外の市街地には住宅や店舗が並んで眠っている。
 月島邸に向かったときの時間感覚からすると、駅前まではあと三〇分といったところだろうか。

「犯人が太郎さんの居場所を知ったって、それは……裏口から離れに向かって伸びている太郎さんの足跡を見たんじゃ……」
 と言いかけた瀬奈を、あり得ない、一蹴する黎司。
「太郎さんが離れに行ったのは降雨前なんだ……太郎さん自身の足跡は存在しないんだ」
 数学の確率問題をイメージするとわかりやすいんだけど、と黎司。
「情報というものは、時間軸において刻一刻と変化していく。このことが設問を難しくしている。だから、僕らは事件発生前後の状況をしっかりと見定める必要がある」
 説明のための言葉を、黎司は探した。

「シュレディンガーの猫、って知ってる」
 鋼鉄製の箱の中に、猫と放射線物質を閉じこめる。放射能が発生する確率が五分五分のとき、猫の生死もまた五分五分である。つまり、箱を開けて確認するまで、箱の中の猫は、死んでいる状態と生きている状態が重ね合わせになっている。
 コンピューターの父、ジョン・フォン・ノイマンが提唱した、そんなパラドックスめいた思考実験が〈シュレディンガーの猫〉だ。
「知ってるけど……それがどういう関係が……」
 ええと、と言い淀んだ黎司はきつく目を瞑り、頭を後方に反らせ、深く大きな溜息を吐いた。
 早朝からの数時間以上の旅程。殺人事件。睡眠薬。深夜の尋問。
 体力には自信のある黎司だったが、この一日にも満たない間に連発した出来事による疲労は流石に色濃い。
 うまく言葉が出てこない自分に苛立ちを感じ、そんな状況を他人のように客観視している自分を自覚し、そのことにまた苛立ってしまう。
「太郎さんが離れにいることを知るためには、直接的な方法と間接的な方法のふたつがある」
「直接と間接……」
 考えすぎて表現が遠回しになってしまったと反省するが、そのまま続けることにした。
「太郎さんが離れに向かうところを目撃する……これが調節的な方法だ」
「じゃあ間接的なほうは」
「太郎さんが離れ以外にいないことを知る……それによって離れにいるだろうと推測し、離れに行くことで太郎さんの存在を確認する……ということになる」
 なるほど、と瀬奈。

「まず直接的な方法だけど……太郎さんが離れに向かうところを見ることができた人物は一人しかいない」
「どうして……」
「容疑者は全員、本館の中にいたわけだけど……月島邸の中にいながら離れを見ることができる場所は、極めて限られているんだ」
 本当は平面図をイメージするとわかりやすいんだけど、と黎司。
「まず一階から検証すると……キッチン、ダイニング、リビング……本館内のどの場所からも離れを直接見ることはできないんだ」
「たとえば……これは単なる偶然だけど……犯人がトイレに向かったタイミングで、太郎さんが離れに向かうために書斎から出てきて、それを目撃したっていうのは」
「廊下があんな状態だったからね」
 半身にならないと通れないほどにまで大量の段ボールが積まれた光景を、黎司は思いだす。
「もちろんゼロだとは言えないけれど……偶然のその一瞬のタイミングでないといけないことも含めて、廊下で太郎さんを目撃した可能性は極めて薄いと思うんだけど、どうだろう」
「うん……わたしは完全には納得できないな……」
 じゃあ、と黎司。
「これは一旦保留するとして……他の可能性を先に説明させてほしいんだけど」
「わかった」
「よし、じゃあ二階から離れが見えるどうかだけど……ああ、やっぱり平面図がほしいな……まあ結論から言うとね、月島邸の本館から離れの入口を見ることができるのは一箇所しかない……月島夫妻の寝室からだけなんだ」
 つまり、と黎司。
「その時間帯に寝室にいたと証言した……」

 ――月島蘭夫人が犯人ということになる――

 沈黙したままの瀬奈に向かって、黎司が、
「消極的な方法のほうだけど」
 と言いかけると、
「扉を開けて書斎の中に太郎さんがいないのと直接見ることができたのも、書斎の鍵の持主である蘭さんだけだった……ということね」
「そういうこと」
 と黎司は、瀬奈の代弁を肯定した。

「犯人は離れにサンダルを持ち込むことができた人物である、という条件に戻るけれど……夫人は事件発見時にそれをおこなったんだ。月島邸に到着してすぐ、太郎さんに紹介するという体裁で僕は書斎に連れていかれたわけだけど……それは証言の客観性が高い外部の人間を事件発見時の証人として利用するためだったんだろう……そのあたりの一連の行動を主導したことそれ自体が、夫人が犯人である傍証のひとつと言えるだろう」
 それでね、と黎司。
「二階で亜良多さんに出会ったのは誤算だったかもしれないけれど、仕切りたがりの彼の行動をそれとなく誘導して、離れに向かう列の最後尾に回り……おそらくは玄関に隠しておいた離れのサンダルを、夫人は秘かに手に取った……歩くために両手でロングスカートの裾を持つのは自然なことだから、そうやってサンダルを隠すことは充分にできただろうし……もしかすると中にショートパンツを履くとか、そういったなんらかの方法であらかじめスカートの中にサンダルを隠しておいたのかもしれない……そうやって僕たちに被害者を発見させると、自分は驚いて崩れ落ちた演技をし、その混乱に乗じて、離れの入口の靴脱ぎにサンダルをそっと置いた……夫人は元々舞台女優だったわけで」
 そういった一発勝負の舞台度胸に長けていた、とまでいうのは言い過ぎだろうなと、黎司は言葉を止めた。

「実際にはどうだったのかな」
 と瀬奈がつぶやいた。
「二階の寝室の窓から見たのか……それとも書斎を開けて確認したのか……」
 面白いことに、と言おうとし、不謹慎だと考え直した黎司は慎重に言葉を選んだ。
「実際にどちらの方法を採ったのかは確定できないけれど……重要なのはそのどちらなのかではなく、どちらの方法においてもそれを実行できたのは夫人しかいない、ということなんだ」
「つまり……箱を開けるまでもなく、生死に関わらず、箱の中の猫が〈猫〉であることには違いない……ということかな」

 そう言いたかったのかもしれないな。
 そうやって奇妙に客観視している自分自身と自分の疲労を、黎司は疲れた頭で自覚した。
「でも……蘭さんも殺されているわけだから……」
「そう……この事件が混み入っているのはそこなんだ」
 足跡がすり替えられた。
 さっき、僕は言ったけれど、と黎司。
「足跡だけでなく……犯人もまたすり替えられたんだ……」
 設問を立て直そう。

「〈足跡の密室〉を作成したのは蘭夫人である……これを確定情報だとしたうえで、蘭夫人を殺害した人物は誰か、それをあらためて考えないといけないんだ」

【解答篇(九)】に続く ※公開準備中です

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