見出し画像

【頭で考えたことは役に立つ】私との対話

上田晃司さん撮影

[読書メモ]「私とは何か」(岩波新書)上田閑照(著)

[ 内容 ]
「我は我なり」という。
その「我」とは、一体どういう存在か。
自身の立つ場所しか眼に入らず、その情念に身を任せてはいないか。
あるいは反対に自分を失って周囲に阿(おもね)ることばかりしてはいないか。
そして自分を無にして「他者」に開かれるとき何が起こるのか。
西田、漱石、ルターなど東西の例を検証しつつ「私とはなにか」という問題に迫る。

[ 目次 ]
私とは何か?
間奏曲-「有る私」と「無い私」
自我と自己
立って「我」・座して「我なし」
実例-ルター、山川登美子、山頭火、方哉、片山広子、西田幾多郎.
コギト
私と汝
自覚と自意識
無我ということ
「私の個人主義」と「則天去私」-夏目漱石の場合

[ 問題提起 ]
新書というのは、以前、「難しい本」の代名詞で、哲学とか人間の心理に興味のあった私は、「実存主義」とか「精神分析入門」とか、岩波や中公の新書を片手に片っ端から読んでみたが、一冊読むのには、大変な時間がかかった。

それが、最近では、新書といえば、

「手軽で読みやすく、分かりやすい」

というのが一般的な受け止め方で、売れる新書には、必須のことのようだ。

一冊読んだら、その世界のことを、なんとなく、全て分かったような気分にさせてくれる、というのが、ヒット作には、重要な要素なのかもしれない。

多分、いまどきの新書は、高校生が読んでも、そう難しいとは感じないはずだ。

それが悪い、というのではなく、「活字離れ」といわれる現状からすれば、なるべく手軽で分かりやすくしようとする編集者の努力は、ものすごく評価されなければならないことなのだと思う。

手軽に読める新書が多くなった、といっても、最近の新書の中にも、手ごたえ読みごたえがある、かつての新書のような新書が皆無なわけではない。

例えば、本書などは、現代を代表する「知の書」だ。

上田氏は、宗教哲学者であるが、この書は、宗教哲学への入門書といった次元を超えた、一つの哲学書と断言できる。

こんな新書を世に送り出すことができるのが、老舗、岩波の底力なのかもしれない。

[ 結論 ]
この書で上田氏が問題としているのは、自分らしさとか、個性といった、それぞれに違う「私」ではなく、誰もに共通する、あるいは普遍的な「私」とは何か、つまり、私ということのあり方や構造は、、どのようなものなのか、ということだ。

自分らしさとは何か、個性とは何かといった、自分探しに夢中になって手にした人は、その期待を裏切られることになる。

上田氏は、「私」と言うときに、既に問題が始まっている、と指摘する。

「私は私です」と言う(まあ、普通は、そんなことは言いませんが)とき、「私」に固有なこととして、自己同一性、自覚、自由ということがあげられる。

が、それぞれには、自己喪失、無自覚、不自由ということが含まれてしまうため、私は、とても不安定な存在となる。

「私は私です」には、「私が私でなくなる」危険性が含まれているのである。

ところで、「私は私です」と言うときには、まず、私を指差し(他者と区別して)「私は」と言い、相手に向かって「私です」と言う。

その全運動が「私」ということであり、それは、平板で連続的な運動ではなく、いったん、切れ目の入った運動である、というのが、上田氏の言う「私」の構造だ。

その切れ目は、私の連続性の否定であり、「私は、私ならずして、私です」となる。

そこに、人間存在の根本構造がある。

しかし、多くの人の場合、それは、不完全な形態となってしまっているのが現実だ。

自己を、他者と区別して指差さない「私です」は、自閉・自己執着となり、私と他者の区別がつけられない。

一方、

「私は、私ならずして」

で運動が終わり、

「私です」

と外に向かっていかない「私」は、自己喪失という事体に消えてしまう。

私の不完全な形態に、自己喪失、無自覚、不自由という事体が現れてくる、というのである。

自己執着、自己喪失、無自覚、不自由・・・、そういう人は、自分を含め、まわりには事欠かない。

「私は、私です」ということは、簡単なことのようで、案外、難しいことなのだ。

昨今、自分探しがもてはやされているが、上田氏は、どこを探しても「私」などというものが見つかるはずもなく、自分探しで言うところの「私」というものは、例えば、長年田畑を耕してきた農民が、、田圃の中に立っている、その姿に、自然と現れてくるものだ、と言っている。

私は見つけるものではなく、生きるものなのである。

哲学や倫理を専門とした人々の新書には、まだまだ、良い意味での「難しい本」がたくさんある。

もちろん、数十年前の本のように、

「理解できなければ勉強してから読みなさい」

と言わぬばかりのお高い態度で書かれているという意味での難しい本ではなく、なんとか分かりやすく書こうと努力を重ねても、伝えようとすることの性格上、どうしようもなく、難解な部分が残らざるを得ない本のことだ。

それらの新書に共通するのは、現代の哲学や倫理学が考えてきていることを、なるべく分かりやすく専門外の人々にも伝えようとする熱意だ。

哲学者の竹田青嗣、永井均、小泉義之、倫理学者の加藤尚武、森岡正博、宗教学者の植島啓司らが、その代表的な人々である。

竹田や永井のニーチェ論、

「ニーチェ入門」(ちくま新書)竹田青嗣(著)

「これがニーチェだ」 (講談社現代新書)永井均(著)

小泉のデカルト論、

「デカルト=哲学のすすめ」(講談社現代新書)小泉義之(著)

などは、一読の価値ありの書だ。

[ コメント ]
入門書のふりをしているけれども、実は、それぞれの学者の哲学が反映されていて、自らの思想を語っている。

ま、当然のことではあるけれども。

そう、ニーチェは、わかろうとするものではない。

体験するものなのだから。

[テキスト1]「ニーチェ ツァラトゥストラの謎」(中公新書)村井則夫(著)

[ 内容 ]
ある日「永劫回帰」の思想がニーチェを襲う。
この着想をもとに一気呵成に書き上げられた『ツァラトゥストラはこう語った』は、二〇世紀の文学者・哲学者の多くを惹きつけ、現代思想に大きな影響を与えた。
文学の伝統的手法を駆使しつつも、ときにそれを逆手にとり、文体の実験までも行うニーチェ。
一見、用意周到な筋立てや人物造形とは無縁と思われるこの物語は何を目論んでいるのか。
稀代の奇書に迫る。

[ 目次 ]
第1部 ニーチェのスタイル(世界を読み解く技法 舞踏する精神)
第2部 『ツァラトゥストラはこう語った』を読む(思想とパロディ-序説 賢者からソフィストへ-第一部 分身たち-第二部 ツァラトゥストラの帰郷-第三部 高等な人間たち-第四部)

[ 問題提起 ]
「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」

これから読もうという本の扉に、こんな言葉を見つけたら、あなたはどうするか。

のっけから禅問答?

普通に考えたら、本は、読めるか、読めないかではないか。

知らない外国語で書かれた本や、なじみのない領域の専門書は、読めない。

でも、それらを除けば、小説でも、随筆でも、論文でも、私たちは、自在に読むことができるのではなかろうか。

などと気にしつつ、さらにページを繰ってみる。

「ツァラトゥストラは、三十歳になったとき、そのふるさとを去り、ふるさとの湖を捨てて、山奥にはいった。

そこでみずからの知恵を愛し、孤独を楽しんで、十年ののちも倦むことを知らなかった」

小説のような書きだしで、ツァラトゥストラなる登場人物の行状が書かれている。

なにもわからないことなどない。

「だれにも読めない」は、コケオドシか。

10年間、山奥で孤独な思索を楽しんだツァラトゥストラは、そろそろ山を降りてみようと決意する。

思索に思索を重ねた自分の知恵を人びとに享受してもらおうという意向だ。

[ 結論 ]
もう少し先を読んでみよう。

山を降りて人里へ向かう彼は、一人の聖者に出会う。

聖者は、人間に、なにかを与えようったって、無駄だよと忠告する。

ツァラトゥストラは、意志をまげず、聖者に別れを告げ、つぶやく。

「あの聖者は知らないのだろうか。神が死んだということを」と。

突然口にされる思わせぶりな言葉。

意味を受け止めかねている読者を後目に、ツァラトゥストラは、どんどん先へと進む。

最初に訪れた町の広場に、たくさんの人がいる。

綱渡り師が芸を見せるところだという。

これ幸いとツァラトゥストラは、さっそく人びとに向かって、

「あなたがたに超人について教えよう」

と説教を始める。

人間とは、動物と超人の間に張り渡された綱のようなものだ。

諸君、従来の偏狭なありようを克服して超人たれ。

人びとは耳を貸さず、

「おい、前口上はいいから綱渡りを始めろよ」

と余興をせっつく。

出番が来たかと、芸を始める綱渡り師。

そこへ道化師があらわれ、綱渡り師の後を追い、ついには、その頭上を飛び越える。

バランスを失った綱渡り師は、落下して息を引きとる。

こうした話の流れ自体に、とりたてて不明な点はない。

むしろ、現実世界から、余計なものを取り除いた演劇のようにシンプルだ。

しかし、何が起きているかはわかるのだが、いざその意味となるととたんに覚束なくなる。

上記したのは、19世紀ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェの著作『ツァラトゥストラはこう言った』(以下『ツァラトゥストラ』)の冒頭数ページだ。

世上、哲学書に分類される書物だが、他に、こんな書かれ方をした哲学書は、見たことがない。

演劇風といえば、プラトンの対話篇があるけれど、あれは、人物同士の理性的な会話の様子を描いたもの。

対する『ツァラトゥストラ』はどうか。

物語には、一貫した筋らしきものがなく、なにが目指されているのかも見えない。

ツァラトゥストラが、時折口にする言葉は、気になる響きをもっているものの、にわかにのみこめるものではない。

第一なぜ、冒頭から綱渡りの話なんぞが出てくるのか。

読めば読むほど謎は深まるばかりだ。

だが、謎があるところ解読あり。

これまでにも、何人もの哲学者たちが、この書物に取り組んで、豊かな意味を取り出してみせた。

しかし、『ツァラトゥストラ』は、そのつど異なる顔を見せる。

それだけに、この奇書を読んでしまった読者は、おそらく、いくつもの謎を抱えこむことになるにちがいない。

さて、ここまで書くと、本書の任務もおわかりになると思う。

といっても早とちりをしてはならない。

本書は、ゲームの攻略本のようなものではない。

つまり、これを読めば『ツァラトゥストラ』の不明点がスッキリ解消という解説書とは、一線を画している。

なにしろ相手は、「こういう意味だ!」と取り押さえれば、その瞬間、スルリと抜け出して「残念でした!」と高笑いをするニーチェである。

さりとて、どんな読み方もあり、というわけにもゆかない。

そこで、著者は、周到に事に当たっている。

つまり、作品の意味内容を、一義的に特定して謎を解くことよりも、ニーチェが『ツァラトゥストラ』という作品において、どんな企みを張り巡らせているかの解明に、注力しているのだ。

謎の謎たる所以をはっきりさせることで、読者が、謎に近づきやすくする作戦と言ったらよいだろうか。

まず、本書は、全二部のうち第一部の紙幅を費やして、ニーチェの作品と生涯を俯瞰している。

そこでは、彼が活用したさまざまな概念や文体がどのようなものであったか、つまり、メニッペア(風刺文学)、遠近法、系譜学、アフォリズム(断章)、パロディ、アレゴリー(寓話)といった道具立てが確認される。

第一部を読めば、これまで、ニーチェの作品に触れたことのない読者も、ニーチェの手法が、思想史において、いかに斬新であったかを、実感できるだろう。

その多岐にわたる哲学のスタイルを強いてまとめるなら、一つの思想を絶対視してしまう罠をいかに避けるかという、現代にも、そのまま通じる問題意識が根底にある。

以上を踏まえた第二部では、『ツァラトゥストラ』の全体について、多様な観点から読解の手がかりが示される。

先に見た綱渡り師の挿話を例に、本書の手際を見ておこう。

著者は、この場面に、

「どたばた喜劇」

の雰囲気があることを指摘する。

ツァラトゥストラが来るべき人間(超人)について真剣に語る言葉は、綱渡り芸の前口上として軽く受け流され、そうかと思えば綱渡りが始まり、道化があらわれて・・・と、一連の出来事が矢継ぎ早に起きる。

ここで、誤解と失敗が連続して、折り重なる在りし日のコメディ映画(バスター・キートンものとか)を思い出してもよいだろう。

これが、思想を語ろうという書物の流儀として、いかに風変わりなやり方であるかは、例えば、カントやヘーゲルといった大哲学者たちが書いたものをちょっと覗いてみればわかる。

言葉の鑿で巨大な体系をコツコツと彫りあげるような彼らの重厚長大な文章は、読んでいるほうも、つい、眉間にシワが寄ってしまう(だから駄目という話ではない)。

他方で、ニーチェの文章は、遊びと哄笑に満ちている。

一見、物語風で読みやすい文体で書かれているものの、それは、裏腹に〈思想の純粋で客観的な伝達ではなく、むしろ伝達による歪曲や誤解の可能性をあらかじめ織り込んだ技法〉(P117)を存分に揮った結果なのだから一筋縄ではいかない。

これは、ニーチェ作品の勘所を押さえた指摘だ。

例えば、ツァラトゥストラは、人間を動物から超人へと至る綱に喩えていた。

このとき綱を渡ろうとして墜落する綱渡り師の姿と、彼を軽々と飛び越える道化師の姿は、どちらも超人へ向かおうとする二つの事例として読むことができる。

一見、「超人たれ」と言うツァラトゥストラは、道化師に重なるようにも思える。

実際、著者が指摘するように、ニーチェの遺稿には、それを示唆する原稿もある。

しかし、同時に、綱渡り師を愚弄した道化師とちがって、ツァラトゥストラは、墜落した綱渡り師の健闘を褒め称えてさえいる。

彼の立場は、どことなく曖昧だ。

ツァラトゥストラは、綱渡り師と道化師のいずれでもあり、そしていずれでもない。

『ツァラトゥストラ』を読むためには、このような両義的な感覚が不可欠だと、著者は言う。

まさに、これは、冒頭で紹介した言葉にも通じるものだ。

しかし、なぜ、ニーチェは、そんな書き方をするのか。

それは、

「こう読めば正解」

といった白黒をはっきりさせる読解が、わかりやすさと引き換えに、それ以上の思考を停止させる罠を孕むことを熟知・痛感していたからだろう。

むしろニーチェは、彼の作品を読もうとする人に、書き手の思考の痕跡を、ただ惰性的にたどる代わりに、読みながら、そこここで躓き、自分の頭で考えること、生きることを迫っている。

そのため読者は〈安易な解決に甘んじない忍耐と、宙吊りにされ、結論がなかなか見えない不安定な状態を受け入れるだけの読解の闊達さが、ここに要求される〉(P119~120)のである。

[ コメント ]
本書は、そのような意味で言えば、重ね地図のような役割を果たす書物だ。

『ツァラトゥストラ』という地形に対して、ニーチェの諸作品のみならず、歴史的・文化史的な側面から多様な補助線を引き、地形の特徴を浮かび上がらせてくれる(本書の随所に絵画が引用されるのもその一環である)。

おかげで、素人目には、ただの山にしか見えなかったものが、地質的な来歴や植生分布などを含めてその姿がよく見えるという寸法だ。

もちろん、地図を読んで、山に登ったことにはできない。

でも、この点は心配ない。

これだけ優れた地図を手にしたら、どうしたって、自ら山に登ってみたくなるというものだから。

[テキスト2]「これがニーチェだ」 (講談社現代新書)永井均(著)

[ 内容 ]
哲学は主張ではない。
問いの空間の設定である。
ニーチェが提起した三つの空間を読み解く、画期的考察―。

[ 目次 ]
第1章 道徳批判―諸空間への序章
第2章 ニーチェの誕生と、『悲劇の誕生』のソクラテス像
第3章 第一空間―ニヒリズムとその系譜学
第4章 第二空間―力への意志とパースぺクティブ主義
第5章 『反キリスト』のイエス像と、ニーチェの終焉
第6章 第三空間―永遠回帰=遊ぶ子供の聖なる肯定

[ 問題提起 ]
哲学的な意味で、

「自己を肯定すること」

について、前々から、読む必要があると思っていたニーチェだが、この本は、そんな初心者にも、ニーチェ入門として非常に分かりやすい内容であった。

著者は、ウィトゲンシュタインの入門書も執筆しており、分かりやすい解説で定評がある。

先入観を持ちたくない方は、はじめから「ちくま学芸文庫」のニーチェ全集などに取り掛かるのがいいかと思うが、彼の思想的ダイジェストと、それを支える根本的な思想原理を知っておくことは、そう無駄ではないだろう。

ニーチェ哲学の有名な概念に、ニヒリズムがある。

ニヒリズムとは、その虚無主義を乗り越えたところの「生の肯定」を示したものであった。

[ 結論 ]
ここが、非常に重要なポイントとなるので、ニヒリズムの意味について、以下に論じる。

まず、ニーチェの「ニヒリズム」とは、人間が客観的に理想とすることのできる価値(神)の欠如のことであり、したがって、ニヒリズムに陥った人間の人生とは、無意味・無目的的であることになる。

それは、ヨーロッパにおいてはキリスト教であり、そして、そうした意味において、キリスト教的である科学に対して、無根拠性を暴露することであった。

これらは、我々人間に生きるための判断基準を与えてくれる存在ではあるが、生への受動的態度でもある。

ニーチェにとって、キリスト教に基づく精神は、絶対他者の存在によって、人間の弱さを隠すための逃げ道なのである。

なぜなら、善悪の価値基準(道徳)とは、究極的に個人から創造されるものであって、それこそが、無意味な生に、本質的な価値を付与すると、考えたからである。

よって、ここで、

「神の死」

が求められる。

「敵が称揚する価値を否定してその逆を主張している限り、敵の空間の内部にいる。

空間の内部で対立する価値を称揚するのではなく、その対立空間それ自体を否定し、自分の空間の内部に引き入れて位置づけてしまわなければ、完全な勝利をおさめることはできない。」

キリスト教の与える価値というのは、これまで感じてきた否定感を、価値観をひっくり返す(プロテスタント倫理的に)ことで、肯定感に変えてしまおうという試みだが、それは、

「キリスト教と対立する概念としての善悪」

があったからこそ成り立つ議論であって、その意味で、嘘である。

ニーチェは、それを否定したのだから、キリスト教の嘘から生まれた「キリスト教によって育てられた敬虔な無神論」なのである。

無神論だからといって、虚無的に生きるのかというとそうではなく、力への意志を持って、自己の肯定を目指して生きるという、生に対する衝動こそが、本質的に理想となる人間像に近づく唯一の道だと、ニーチェは考えたのである。

「ニーチェには、弱者を勇気づけようなどという要素は微塵もない。

弱者を勇気づけないこと、そのあるがままを肯定することを教え、けっして向上心を持つように仕向けないこと、それがニーチェに可能な弱者への唯一の愛であろう。」

したがって、ニーチェは、単に、虚無主義的に、人間の生を否定したのではないのである。

しかし、それは、決して簡単な受け止め方ではない。

それを、ニーチェは、永遠回帰として表している。

「ニーチェは同じ内容のことが数的にだけ複数回―いや無限回―起こるという言い方で、一回性のこの生の―外側からの評価ではなく―内側から生きられた内容それ自体に重しを与えている」のである。

「たとえどれほど惨めな人生であっても、それがたまたま自分の生であり、それがなぜか存在したということ、そのことに外部から評価を与えることはできない。

それがそのように存在したこと、そうであったこと、それがそのまま価値なのである。」

それを、無理やりにでも引き受けて生きてゆくことが、

「力への意志」

である。

このような「生の肯定」思想は、資本主義的な現代にも、非常に大きな意味を持っている。

[ コメント ]
人間の価値とは、様々なものに乗り移っていくことが、特徴的である。

つまり、もともと、

「生の肯定」

のために始められたことが、その始めたこと自体に意味を見出すようになり(例えば仕事)、さらには、それ自体も忘れ、それによって得られるもの(例えば金銭)を、集めることに終始するようになる。

しかし、そうした手段の目的化は、当然ながら、生きることの意味を与えてはくれない。

そこで、ニーチェの指摘にあるように、生を肯定するための自分の価値を定立することが、根本的な目的であることを、思い出すことに、重要な意味がある。

即物的なフェティシズムに堕することなく、生を肯定するための聖なる詭弁を必死に守り抜いて、どんなにくだらなく、情けない存在だとしても、それを受け入れていく力こそ、我々の価値なのである。

もちろん、それによって、生の価値が向上するということは、ニーチェに従えば、

「ない」

わけだが、この価値基準は、個々人に、道徳的・積極的な規律(ディシプリン)を与える。

「存在するすべてが肯定されるのは、究極的な価値基準によってそれらが肯定されるからではない。

そんな価値基準が究極的にはないことによってこそ、それは端的に肯定されるのである。

「よし」とする裁きがなされるからではなく、およそ裁きなどなされえないからこそ、裁きなどによって傷つけられないからこそ、存在するすべては端的に肯定され、それ自体で輝くのだ。」

[哲学のすすめ]「哲学は何の役に立つのか」(新書y)西研/佐藤幹夫(著)

[ 内容 ]
思春期はなぜ苦しいのだろうか。
親も社会もなぜ「うざい」のだろうか。
学校へ行け?
高学歴?
働いて早く一人前になれ?
やってられねえ!
…しかしそのとき、じつは「哲学すること」の入り口に立っている。
世界とはなにか。
自分はなぜ生まれてきたのか。
なぜ生きるのか。
なぜ人に好かれないのか。
誰もが問うこの問いこそ、人がひとりでは生きられないことによっている。
人は何を足場としどこへ進もうとするのか。
それを考える技術こそが哲学である。
西洋近代哲学は、その問いをギリギリまで押し進めた。
「問い‐答え」という対話を通じて「哲学すること」の意味を問う入門書の決定版。

[ 目次 ]
序章 哲学の難しさに負けないために
第1章 ニーチェ 「自分」をどこから考え始めるか
第2章 ソクラテス‐プラトン 「考える」ことについて考えてみる
第3章 カント 「人間」とは何だろうか―近代という枠組みを考えてみる
第4章 ヘーゲル 教育と働くことをめぐって
第5章 フッサール・橋爪大三郎 「私」から社会へどうつなげるか―「われわれ」の語り方
第6章 カント・ヘーゲル 9・11以降、「正義」についてどう考えるか
終章 東浩紀・フーコー 哲学はなぜ必要か―再び「考える」ことの足元を見つめて

[ 問題提起 ]
頭で考えたことは、実は、現実世界では、役に立たないのではないか。

そんな問題意識から手に取ってみたのが、この対談集である。

結論は、当たり前だが「頭で考えたことは役に立つ」。

理論は、もちろん万能ではない。

現実にかみ合わない部分は、出てくるだろう。

だが、そもそも現実社会の問題意識から、理論的モデルは構築されるのであって、プラクティカルに現実問題に理論を適用し、解決していく努力をすることは、できるはずである。

現代的問題意識と、哲学的命題を絡めながら理解していく。

そうすることで、やっぱり、

「頭で考えたことはこうして役に立つ」

と考えられないか。

ある学者は、理論と現実は、弁証法的連関によって止揚されるというようなことを言っていた気がするが、まさしく、その通りなのであって、この止揚に失敗すれば、机上の空論となって、

「学者のお遊び」

と揶揄されるのである。

生命倫理が、結構そうなっている?

臓器移植に反対する知識人が多くいるなかでも「現実に人は死んでいく」。

だからといって、生命倫理は無力なのか。

多分そうではないだろう。

「行き過ぎた」部分は、止揚に失敗したと見るべきであって、本来、弁証法的連関に取り込まれれば、実用的なのではないか。

むしろ、その連関に取り込む努力をしていくべきでは。

いずれにせよ、本対談は、大御所哲学家の理論を現代に当てはめていく、そういう試みである。

[ 結論 ]
個人的に印象に残っている部分を、少しだけ説明しておく。

まず、最初にニーチェの話が来ている。

超人やルサンチマン、永遠愛。

高校では、倫理で学習するタームである。

ただし、高校倫理では、やはり試験のための学習という感は否めなく、内容には、あまり立ち入らないことが多い。

ニーチェの思想は、何もキリスト教にだけ通用するというものではなく、現代社会と関連させれば、こうなる。

全ての運命を引き受けるのが「超人」。

これまで色々と大変だったけど(神は死んだけど)、過去はもう変えられないのだから、それらを全て運命として背負って(運命愛)、頑張って生きていこうじゃないか。

ニヒリズム(虚無主義)を超えていこうじゃないか、と。

その形而上学は、すさんだ現代社会の人々の心をとらえるのかもしれない。

次に、ソクラテスやプラトン。

大昔の人。

けれど、哲学するということは、長い歴史のうち、古代ギリシアから始まった。

これは、人間のライフサイクルの中での思春期ということと、パラレルに考えることができる。

哲学は、理想が壊れた時から始まる。

理想が壊れるとは、安定した世界が、揺らぐことと同値である。

古代の世界では、異文化接触から自己の相対化が必要になる。

そのための手段として、考えること、ロゴス、つまり、論理が出てくるわけである。

そして、たまたまギリシアは、民主的で共和制で、対話ができる環境だった、と。

これらの条件が重なって、哲学は、公共圏における思考のゲームになったということだ。

さらに、ソクラテス・プラトンは、関心の転換期でもある。

それまでは、自然に関心が行ってた(タレスなど)けど、彼らからは、人間の方に行く。

これらを、人が思春期に自分の「哲学」を得るプロセスに、そのまま当てはめられるというわけである。

まず、理想の崩壊とは、挫折そのもの。

それまで、

「やればできる」

と思ってた、ある種の全能感が、崩れるわけである。

どうしようもないという感触を味わう。

「理想というブロンズ像がガラガラと音を立てて崩れていく」感覚である。

そして、世界観が揺らぐと、考えなければならないわけである。

ひたすら頭で。

アイデンティティが確立できずに危機が訪れる。

本対談では、教育(中等教育かな)のことが、色々と関連して出てきているのが面白い。

青春時代に袋小路になること、エネルギーだけあって、観念が肥大化してシンドイということ、自己の承認や社会や他者の必要性があること、それが無理だと自分の世界に引きこもること、などが書かれてある。

こうして思春期に自己を再び得ていく。

古い本ではあるが、文藝春秋の「教育の論点」等が参考になるのではないだろうか。

「教育の論点」文藝春秋 (編)

何かの対談集で、

「とにかく思春期は分けの分からない時期だと思う」

みたいな記述を見つけて、やっぱりそうなのかと納得した事があった。

「教育の論点」は、オムニバス式の冊子だが、大の大人が、ゆとり教育の是非に関して真っ向から意見対立しているのが面白かった。

プラトン・ソクラテスと思春期に話を戻すと、本当の意味での対話ができるのは、「(例えば男の子の場合の)バカを言い合える」友人関係なのだということ。

それから、関心が自然→人間に行くというのも、共通している気がする。

純粋な哲学から敷衍して、人の心の中に入っていく現象学や批評の話。

それと「対話」ということが、やはり、キーワードとなってくる。

本対談での、在日(この表現の是非は置いておいて)の人との「対話」という例が、印象に残っている。

もちろん、在日の人と普通の(?)日本人の人との経験は、異なるわけである。

その異なる経験を、お互いに伝え合い、コミュニケートしていくのが対話。

で、そのためには、自分の経験を探っていって、相手に分かる形で一般化する批評の方法が、必要になってくる。

つまり、相手に分かる言葉で、何とか伝えていく。

それは、相手も同じ。

それで、お互いの「感触」を探っていく。

その積み重ねが対話であり、そうやっていって、一つずつ偏見を取り除いていく作業が、感動的である、と。

で、そういうことは、多分、今、一番世界でかなり必要とされている。

それが可能なのか、不可能なのか。

それを、東浩紀・フーコーとの関連で、主に、西氏が語っていく。

フーコーの見解では、自分の経験を掘り下げていって、他人に分かる形で一般化すること(「本質抽出」という)は、それ自体が、権力によって歪められているので、禁じ手とされているらしい。

そうなると、本源的に、対話は、無理だということになってしまう。

それが正しいのかどうなのか。

西氏は、この考え方を、

「フーコーの悪しき遺産」

と言っているのだが。

フーコーを受け継ぐ東氏に関しての「動物化」も言及しているのだが、個人的には、対話の不可能性につなげる方が面白かったので、そちらで話をした。

[ コメント ]
ここまで見てきて、結局、哲学は、

「役にたつのか」

「現実を分析しきれるのか」

という問題はどうだろう。

「哲学は日常と乖離していなければならない」という主張は、本書に依っている。

「哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!」 (ちくま新書) 入不二基義(著)

野矢茂樹の論文を引けあいに出しながら、こう書いている。

哲学的な疑いは、日常のものとは違う。

日常の表現としての「他者の痛みは本当のところは分からない」と、哲学的な疑いの表現としての「他人の痛みは本当のところは分からない」は、似て非なるものである。

対して、哲学者の池田晶子は、本書で、

「哲学は、研究室や図書館に在るのではなく、日常の中に在る」

と述べていた。

「事象そのものへ![新装復刊]」池田晶子(著)わたくし、つまりNobody(編)

まず、哲学と日常との距離を定義することから議論を始めなければならないということである。

語弊のある言い方で申し訳ない。

で、もちろん、私としては、後者のスタンスを取る。

「哲学と日常との距離」とは、モデルと現実の乖離ということ。

いやしくも、学問(=紙の上の情報)なら、モデルに限界はあるわけである。

けれども、モデルというのは、やはり、日常に適用するために作るものなのだ。

ニーチェ・モデルにしても、ソクラテス/プラトン・モデルにしても、東浩紀/フーコー・モデルにしても。

他にも、カントやヘーゲル、フッサールなどの話が出てくる。

あくまで現状の見解ということにはなるのだが、

「他者の痛みは本当のところは分からない」

と、日常で思って壁を感じたときにこそ、哲学的な思考を要請するわけである。

そういう意味では、やはり、哲学と日常は、連続しているのだと考えられる。

だから、結論はこうなる。

「頭で考えたことは役に立つ。」

<参考図書>

「問いを問う ――哲学入門講義」(ちくま新書)入不二基義(著)

「現実性の問題」入不二基義(著)

「時間と絶対と相対と ―運命論から何を読み取るべきか」(双書エニグマ)入不二基義(著)

「自分疲れ ココロとカラダのあいだ」(シリーズ「あいだで考える」)頭木弘樹(著)

「風をとおすレッスン 人と人のあいだ」(シリーズ「あいだで考える」)田中真知(著)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?