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自分の「正義」を振りかざさないで

私たちの中には、自分なりの正義みたいなものがありますよね。

自分なりの基準というかスタンダードというようなもの。

たとえば、私は仕事はちゃんとする、とか。

私は遅刻はしない、とか。

人に対しての気遣いや言葉使いはこうする、など。

それはそれで素晴らしいし、自分の基準や正義は自分についてしっかり守りたいものです。

大変になるのは、自分のものを他人に当てはめてしまうとき。

私はこういう風にしているのに、なんであなたはそうじゃないの?というやつです。

これをやりだすときりがなくなってしまいます。

私はこんなにがんばっているのに、なんであなたはその程度で平気なの?

なんでそれしかやってくれないの?

私は気遣っているのに、なんで全然気遣ってくれないの?とか。

発展すると、傷ついて苦しんでいるのに、なんで向こうは傷つかずに済むの?とか。

こういうときは、返事をするのが普通でしょ、とか。

確かに私はこうなのに・・・・・・という不公平感はあるものの、気づかないうちに誰かを自分の物差し(正義や基準)に当てはめて、ジャッジしているのです。

こうなると、自分は正しいけれど、相手は間違っている、というような風になって、相手を責めたり、相手に怒りを感じたり、許せないと感じたり。

知っている人ならまだいいけれど、まったくの知らない人に対してまでそんな風に思い始めたら、本当に大変ですね。

歴史的に見ても、11世紀から12世紀にかけてのキリスト教徒は、イスラム教徒に対して正義の名のもとに侵略を繰り返してきた事実に対して、21世紀にようやく教皇ヨハネ・パウロ二世はこれを過ちと認めましたが、長らく侵略行為は「正義に基づく英雄的な行為」とみなされていましたよね。

悪の手からエルサレムを取り戻すのは聖戦であると、侵略は正当化されていましたが、そう言った人々に対し、フリードリヒ・ニーチェは、下記の「ツァラトゥストラ」の中で「正義を唱える人物を信用するな」と言っていましたね。

「自分は正義だと言いすぎる人間を、絶対に信用するな!じっさい、連中の魂に欠けているのは、蜂蜜だけではない。連中が自分から「善良で正しい人間」だと名乗るとき、忘れてはならない。連中がパリサイ人となるために欠けているものは、ただひとつ──権力だ!」

「正義」や「道徳」、「常識」は取り扱いに極めて注意を要する内容なんだと肝に銘じておく必要があります。

また、例えば、ニュースなどで聞く、芸能人や珍事件などで許せないとか普通じゃないとか、と思うときなど。

よくよく考えれば、大概のことは自分とは無関係で被害をこうむっているわけでもないのに、勝手に怒ったり許せない、などと思っているわけですよね。

確かに常識の範囲を超えていることもありますし、法的違反などもありますし、注意したりというのもありですが、他人に対してジャッジするのは誰かというと、ほとんどの場合は私たちでなくていいはず。

でも人間は往々にして、自分は正しいと思っていて、そう思いたいもの。

誰もが同じです。

作家の曽野綾子さんは、「人生において何が正しいかなんて誰にもわからないのだから、自分の思うとおりに進んで、その結果を他人の責任にしないことが大切ではないかと思う。」と言っていたし、数学者である藤原正彦さんも「一般の世の中の論理には、1と0は存在しません。絶対的に正しいことは存在しないし、絶対的な間違いも存在しない。真っ黒も真っ白も存在しない。」と話していたし、世の中には、全て答えが存在するとは限らない、ということを認識することが大切です。

数字の世界のように、型にはまった考え方に合わせようとしても、無理が出てくるのだから、人の気持ちや、人間らしさといった部分を感じ取れる感性を持てるようになりたいですね。

そして、作家であるJ・G・ホーランドが語っていたように「自分こそ正しい、という考えが、あらゆる進歩の過程で最も頑強な障害となる。これほどばかげていて根拠のない考えはない。」のだから、相手の意見を聞くことと、同意することは別のことで、まず相手の意見を聞いてみてください。

違う意見を聞くことを自ら遮断してしまうと、可能性と進歩を自ら閉ざすことになるから、先入観と思い込みに惑わされず、自分とは違う意見にも耳を傾けるようにしてみることで、自分こそ正しいという考えを少なからず持っていた自分に気づけるはずです。

それに気づかないと、自分がやっているから、守っているからと言って、他の人もそうかというと、そうでもないことをあらかじめ前提としておいておかないと、理解できないし、こちらが苦しくなります。

ここに、それぞれの価値観、見方・考え方の違い、選択の違い(自由)が反映されています。

無意識に選んでいる場合がほとんどですが、だからこそ、いつの間にか自分の中ではそれが常識に摩り替わってしまい、他の人は違う正義や基準を持っていることを忘れてしまうのかも。

同じような正義や基準を持っている人もたくさんいてそれはそれで簡単に理解し合えて楽です。

でも、世の中はそう同じ人ばかりではありません。

それに違うからといってパニックになる必要もないし自分がおかしい、というのでもありません。

違う基準やスタンダードを持っているなら思考パターンや行動パターンも当然ながら違ってくるだけなのです。

自分が疲れないためにも、自分の中の正義や基準だけを振りかざさずに周りの人たちを見てみましょう。

これだけで周りに対してかなり優しくなれるし余裕も出てきますよ。

それに、自分が他人から違う基準でジャッジされるのがいやなように、周りの人だってジャッジされるのは気分がいいものではないことを思い出して。

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