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選択力

おはようございます。

河野企画代表、チューバ奏者、指揮者の河野一之です。

世界的に18世紀後半から始まったとされる資本主義。
日本では明治維新後に、それまでの「士農工商制度」が廃止され市民が好きな職につけるという資本主義の基礎が築かれたようだ。

というわけで資本主義が始まって約3世紀、現代の日本では物や情報が溢れまくっている。中には低俗なものから世界の秘密まで様々なモノがインターネットやメディアを通じて手に入れられるようになった。

戦後のモノが少ない時代というのは、とにかくモノや人自体も沢山持っていることがステータスだったけれども、今このモノが溢れた現代では果たしてどうであろうか、得ることだけが幸せにつながるのか、はたまた?

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取捨選択 〜モノに溢れる世界の生き方〜

この半年間、テレビをつければ毎日毎日コロナの情報、宣伝の嵐。
ネット・サーフィンを行なったりSNSを覗いても同じような情報と強制的に見させられる広告ばかり。

街を歩けば試供品を手渡され、粗悪なモノが格安で売られ、消費者のことなど考えず売れれば良いという理念のもと販売されているものが店頭に並ぶ、薄利多売の究極の時期はようやく過ぎたように見えるけれどもそれどもまだまだモノはたくさんある。

僕たちはそういう時代に生きている。

戦後というモノがとにかく足りない時代からすれば今は楽園かもしれないけれど、物や情報が多過ぎて逆に苦しむ人も多くいるわけだ。

例えばスマフォやPCの扱い方を学び損ねたご老人の方々はTVからの情報やご友人同士での情報共有しか世界のことを知る由はない。

しかしこの半年間、毎日毎日朝から晩まで流されるコロナ情報、誰かが第二次、第三次、第四次情報で流した噂のような話をマスコミも信じて、または報道する情報が足りないため面白おかしくTVで流したり、ワイドショーで答えのない、他人事の論議を繰り返す。

そんなものを毎日毎日見させられている老人たちは恐怖に心を支配され鬱っぽい症状をだしていく、うちの祖母もそうだ。

大変残念な話ではあるけど、現在のTVは一次情報を必ずしも出してくれる媒体では無い。例えば一週間前にネットで得た情報が翌週TVで放送されているようなスピード感である。

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こういう時代、今この瞬間求められているのが

自分で考える能力、つまり物事の取捨選択を自分で行える能力、選択力!

例えば今世界を揺るがしているコロナ、Covid-19、このことについて知りたいのであれば政府の一次発表をネットや行政に行って調べるべきだ。TVじゃない。

政府だって行政だって中途半端な情報を流せば大目玉を食らうことはわかっているだろうから専門家を集めて今出せるベストの情報を出している。そういう人たちを僕たち国民が選挙で選んだのだからここは信じていくしかない。ダメならデモを起こしたり、次の選挙で落とすだけ。

TVを見るのだって、番組やニュース、CMだってこちらが見る/見ないを選択できる。僕はライヴでのTVは見ない、ほぼ99%録画しておいて見る。

お気に入りは世界の果てまで行ってQ、鉄腕ダッシュ、モヤモヤさま〜ずだ。でもこのお気に入りの番組たちでもつまらない場面はガンガン早送りするし、気分次第ではほんの数分見て録画自体を消す。しかも録画だったら途中のCMをカットできるしね。

ネットに落ちている情報やSNSで流れてくる情報も自分に必要だったり興味があるものだけが届くよう自分のタイムラインがごちゃごちゃしないように不必要なものやどうでも良い情報を流すものは排除させてもらっている。毎日無駄なものを数分見ていたら一年で何時間になるだろうか

自分で情報の取捨選択は必要だし、その情報に関しても自分で考えどう取り扱うのかは自分次第だ。

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未来、現在、過去の選択

今の自分、未来の自分、過去の自分

色々な自分がいるけれどもそれらをどう選んでいくのかも自分次第だ。今何を選ぶのかによって今や未来の自分が変わっていくのは想像をしやすいと思うけれども果たして過去はどうするか

起こってしまった過去の事象を変えることは絶対にできないけれども、それをどのように感じ受け取るかは過去に対し今の自分で選択できる。

例えばとんでもない失敗をしてしまい、取り返しのつかなかいことをした過去があっても”今”この瞬間生きているのであれば

「迷惑をおかけした方々には頭はあがらないが、あの失敗は今を誠実に生きるために必要だった。」

という選択もできるわけだ。その当時の失敗を悔い続け恐怖を感じ続けていればおそらくきっとまた再発するし、果たしてそれは幸せに生きる条件になりうるだろうか

例え変えられない過去であっても、今その過去を見つめる自分自身の感じ方は変えることができ、そういう選択肢を僕たちはいつでも持っている。しかも、それは自分にしか選択できないことだ。

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まとめ

実際に教育されている時は違和感と言う形でしか感じなかったけれど、僕たちの国の教育は知識を詰め込むだけで、自分で考える力というのを育てる構成にはあまりなっていないようだ。

確かに河野自身も暗記は得意ではなかったけれど、創作系や日々の生活と密着したものは楽しくて仕方がなかった。

国語や音楽、図工である。これらの漢字や専門用語の暗記は疲れるだけだったけど、作者の気持ちを考えなさいとか、どう思う?どう感じる?どう表現する?という答えのない問題だったので好きだった。

答えがあるものを暗記していくだけという作業はここだけの話、人間というものが名付けた世界にある物事を後世の人に覚えさせ、その覚えられた数によって優劣を決める最大級の自慰行為に感じた。

僕じゃなくても良いじゃんみたいなね。

そういうわけで話が逸れたけれども、自分で考える力というものをあまり育てられていないのでどうしたって物事の取捨選択が苦手な人が多い。

でもそんなこと言っていても世界は、社会はもう自分で考える力、選択力なしでは洗脳され搾取される世界となってしまった。

搾取され続けられるお金や時間や余裕があれば一生自分で考えずに他人が決めたことに沿って生きていくという選択も良いけれど、なかなかそういう環境は作れないし、果たしてそれはHappyか

良いも悪いも自分で決めて、選んで、自分の人生を形作りたい

そうであればきっと自分で責任も取りたくなるだろうし、成功した時の喜びは大きいだろう。

選択力、鍛えていきたいね




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