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③哲学としての死生観としての「死にたい」

死生観としての「死にたい」というのは、
生きたいと願うなら、死にたいと願うのも当たり前のはずだ。
生きる権利があるなら、死ぬ権利もあって然るべき。
そういう価値観を前提としての「死にたい」なのだ。

でもこの世界では、否応なしに「死にたい」はタブーなのだ。

それがうつ病になる以前から
私が感じている根本的な生きづらさなのかも知れない。

どう生きるかどう死ぬかは自分が決めることだ。
生きたくもない、自分には価値がない、むしろマイナスの価値しか生まないなら
死ぬことを選ぶことは必ずしも間違いじゃない。という価値観を私は持っている。

私はもともと生きたいと思ったことがない。
だから自分には価値がないと思ったり、人を傷つけたり、迷惑をかけたりした時に
私は「死にたい」気持ちになる。

私がうつ病になる前ブログに書こうかなって思って
作成途中だったメモがあった。
死生観を説明するに相応しいと感じたのでここに記したい。
あくまで私の空想であり、こういう考えも受け入れられる世界だったらな。
という提案である。

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安楽死と臓器移植

死にたいけど死ねない
そんな人はいませんか?
私もそんな人の1人です。
いわゆる鬱なのだが、鬱は本当に病気だろうかとも疑っている。
なぜ死んだらダメなのか、なぜ死ねないのか、
そんなことを私が考え始めたのは9才のとき。
そうたった9才。
そこから今日に至るまで私は死ねなかった。
人生の半分以上死にたいのだから、死にたいのは病気ではなく、
1つの個性である。
そう考えても良いのではないだろうか?

でもね、なぜ死ぬのがいけないかっていう理由を考えたとき
その一つに
死ぬことが価値をうまないから
っていうのが思いつく。

だから死ぬにはなんらかの価値を生み出す仕掛けを
与えなければならないと思った。

その価値というのが
臓器提供だ。

また、死ねない理由はいくらでも出てくるが、
・死ぬのが怖い
・失敗したら最悪
・死んだら迷惑がかかる

これを解消するのが、安楽死制度だ。
死の専門家が怖くなく、確実に死にたいという願いを叶えてくれる。
つまり臓器を提供することを条件に安楽死ができるという制度である。

自分の命ひとつで何人もの生きたい人々を助けられるかもしれない。

そういう最後の砦があれば、どんな状況でも
生まれてきたことに意味があると思えるかも知れないし、
こんな自分にも価値があると思えるかも知れない。

メリット
・生きたい人を生かすことができる。
・死ぬことに対して負い目を持たず死ねる
・人身事故のような人の迷惑になる死に方を減らせる

デメリット
・死にたい人の魂が移って、移植先の人も死にたくなるのでは
・うつ病の場合正常の判断かわからない
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最後にまた読んでみて下さい。

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