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プレカリアートとディスコミュニケーションが生む逆わらしべ長者現象(ケン・ローチ『家族を想うとき』感想)

労働とは何か、生きることは何かというのは、大体の人間が常に考えざるを得ない事実だと思うのです。だって、資本主義社会においては、「お金がなくても幸せ」という言葉は嘘でしょう?

それは知っていながら、でも、社会的システムに組み込まれ時に翻弄される人間は、どのように生きてどのように死んでいくのか、人間としての尊厳はそこにあるのか・・などと、考えてしまうこともあります。

マルクスやジジェクがいうように必要なのは共産主義的な革命なのか、その答えはわかりませんが、「自由」という言葉には不自由が含まれる・・『家族を想うとき』を観た際に、そのリアリティを突き詰められるような気持ちになりました。

・・というわけで、本稿では『家族を想うとき』の感想を交えながら筆者の個人的な考察を書いています。ただ、当たり前のようにネタバレを含みますので、気になる方は迂回してください。

1.常に待機を強いられる「プレカリアート」

誰もお金が全てだとは信じていないながらも、お金がないと何もできないことを知っている」・・ポスト・イデオロギー社会においては、人々は通貨に魔術的な要素があることを信用していない、というのが「シニシズムのイデオロギー」だとしても、

資本主義社会においては、あらゆる生活にはお金が必要であり、通貨が資本主義社会における日常生活にアクセスする手段である以上は、それ自体から逃げることはできない。

本作で描かれるような労働者のモデルについてはギグワーカー、ゼロ時間契約、オンコールワーカーなどと呼ばれているが、イギリスの階級制度を7段階に分類した2013年の発表によると、登場する夫婦の階級はおそらく「プレカリアート」に分類される。

雇用主としての資本家階級を「ブルジョワジー」とするのに対し労働者階級は「プロレタリアート」と呼ばれていたが、プレカリアートはそれと区別するため、非正規労働者や失業者を含む不安定な雇用状況の人間のことを指す。

プレカリアートがどのような雇用形態で労働をしているかは本作を観れば明らかではあるが、妻のアビーはその中の「ゼロ時間契約」労働者の一例である。

ゼロ時間契約の労働者は、彼女が一家で食事を摂っている際に連絡を受けて出勤せざるを得なくなるように、常に雇用主(あるいは顧客)の呼びかけに応じられる(on-call状態)であることを強いられている。

なお、プレカリアートは2013年時点の調査によると、イギリスには15%ほど存在しているという。

このような労働形態はイギリスではマーガレット・サッチャーがネオ・リベラリズムのもと推し進められたとどこかの記事で読んだが、フォーディズム的労働モデルの「8時間拘束」という労働形態は一見不自由さを抱えているように見えて、会社の外では仕事に縛られない「自由」がある。

反面、ポスト・フォーディズムの社会は「労働形態の自由」や「好きな(あるいは空いた)時間に労働」という聞こえの良いフレキシビリティが謳われる一方で、労働者のプライベートや福利厚生といった権利が侵害されつつあることも問題となっている。

休憩時間やプライベートの時間を割いて労働せざるを得ない状況について、妻アビーの訪問先の利用者が「8時間労働制は?」と疑問を浮かべていたシーンが印象的だ。

2.ディスコミュニケーションの多層レイヤー

さて、本作で描かれるのはそうしたプレカリアートの目を背けたくなるような労働環境で生きる人間のリアリティでもあるのだが、もっとも注視すべきは恐らく「ディスコミュニケーション」なのだろう、と筆者は感じた。

本作の主人公は、借金とともに持ち家も職も失い、仕事を転々とする中で、フランチャイズ契約の自営業という運送の仕事を始める4人家族の父親・リッキーである。

(余談ではあるが、彼はマンチェスター・ユナイテッドのファンで、「頭は悪いが腕っ節は丈夫」というある種の労働者階級のロールモデルのような人間だ。)

リッキーは仕事に使うための車の前金を払うために、妻アビーの持っている車を売却する。アビーは訪問介護の仕事をしており、自家用車を失った彼女は通勤時間がかさみ、疲れ切ってしまう。また、リッキーも長時間労働のため、夫婦は帰宅して眠るだけの生活になっていく。

両親が帰宅する頃には娘は就寝時間になっているためか、娘のライザは不安から不眠症を発症する。また、息子のセブは成績優秀だが、不登校になり学校でも問題行動を起こしている。

それぞれが自分自身の想いを抱えながら、家族という共同体に関わろうとしているが、コミュニケーションの不足が少しずつ、共同体の崩壊を招いていく様子が痛切に描かれている。

例えば、一般的にイギリスの階級制度においては労働者階級出身の人間は義務教育終了後に労働する子供が多い。が、頭の良いセブは大学進学も可能であると言われている。しかし、セブは大学進学をしたために家庭が困窮した他の家庭を知っているために、進学に踏み切れない。

父親は、息子が抱える絶望を知らないし、息子も、父親の想う理想的な人生を拒絶する。

人間同士の会話は齟齬を孕んでいる。通常、その齟齬は経験や話し合い、あるいは絆などで補完され、違和感が緩和される、というのがラカン以降の精神分析理論である。

一般的な家庭であればほんの少しの齟齬として話し合いで終わるようなことが、本作の一家では家族としての時間が持てないばかりに、リカバーする時間を与えられない。夫婦はお互いに仕事を休んで話し合うことができないからだ。

家庭はどんどん荒んでゆき、妻は離婚の可能性まで口にする。娘のライザはそんな彼らを見かね、リッキーが仕事で使う車の鍵を隠してしまう。リッキーは前後の文脈から息子のセブの仕業だと勘違いをし、彼に手を出してしまう。

ほんの少しのきっかけが引き起こすフィードバック現象をバタフライ効果というが、こんな風に事態がどんどん悪化する様子は映画のラストまで続く。

「こんな仕事がなければ幸せになれると思ったの」と涙するライザを誰も責めることができない。

3.カタルシスの不在

ところで、一般的にイギリスの労働者階級というと、音楽が好きな人間にとっては馴染みのある言葉かもしれない。筆者にとってのリアリティはハッピー・マンデーズやストーン・ローゼズなど「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」以降のミュージシャンたちだろうか。

本作でも両親の出会いはレイヴだった、と薄暗いクラブで撮影されたと思しき夫婦の写真が出てくる。

その写真が撮影されたのもおそらくこの時期(1980〜90年前半)だろうと推測されるが、イアン・ブラウンのように典型的な労働者階級が「憧れられたい(I Wanna Be Adore)」と歌い、スパイク・アイランドでの野外ライブが後のオアシスを生んだように、

MDMA(いわゆるエクスタシー)など多幸感溢れるドラッグを使用して週末にアシッドハウスやテクノで踊るレイヴもまた同じように、当時の労働者階級の人間にとってはカタルシスであったのではないか、と私は思う。

つまり、その当時のイギリスでは日常でどれだけクソな労働をしていても、週末のクラブにはMDMAのユーフォリアがあって、その時は全てを忘れられる、というカタルシスが用意されていた。

(また、彼らのようなバンドが実際にオアシスのような典型的な労働者階級出身者にとって一種の希望となっていたのも事実だろう。)

このような「ロック・アイコン」的なものが衰退した背景には様々な理由があるため、一概に「時代」の所為ではないものの、対照的に、本作で描かれる若者像は、例えば『トレインスポッティング』で見られたように週末クラブに通う様子は見受けられない。

一般的にプレカリアートは失業者も含まれるが、失業手当を何とかして手に入れつつドラックに耽溺していたマーク・レントンらと比較するまでもなく、本作における若者は公園で屯ろしたり、街をぶらつく程度だ。彼らにとって自己表現を行う手段はグラフィティと携帯電話(もしくはSNS?)だろうか。

夫婦のレイヴのエピソードと対比して、この時代の若者像の「どうしようもなさ」も際立って見えた。イギリスにおける階級制度は、覆ることはない。労働者階級出身者の子供は労働者階級として過ごす。

現代イギリスにおいて労働者でいるということは、カタルシスも存在しない過酷な環境に身を置くということを息子は見ている以上、若者の抱える失望にもリアリティがある。

終:「バトン」はどこに渡っているのか?

きっと、レイヴで出会った頃の夫婦は幸せだったはずだし、ノエル・ギャラガーがトニー・ブレアの演説で「Power To the People」と力強く言い放った頃のかつてのイギリスには、家族として過ごす満ち足りた時間が存在していたはずだ。

だが現代イギリスを舞台にする本作においては家族が趣味に勤しんだり、何かしらの娯楽を行うシーンが存在しない。

そこにあるのは、(主に喧嘩の後の)食事シーン、寝ている両親の出しっぱなしにした食事を片付ける娘・・最低限の生の営み(食事、睡眠、多少の会話)と、過酷な労働のみである。

・・救いようがない状況で、カタルシスも存在しない。

原題の『Sorry We Missed You』は、英語圏では不在届に書かれている言葉のようだが、家族という集合体がお互いのディスコミュニケーションを抱えつつも、それを解消するための時間を奪われている状況を鑑みると、もっと包括的にコンテクストを内包しているようにも見える。

強盗に襲われてボロボロになった身体で、車を走らせる父親のカットで本作は終わる。現代イギリスの労働者が抱える問題に対して、本作では一つの解答を描かない。

フルスロットルで進むバンは、坂道で一度大きく揺れる。片眼を負傷し全く見えない状態の父親がフラフラと運転する車を、呆然と見つめる家族をリッキーは振り切る・・ジョーイが「カムバック!」と叫んだ時のシェーンが生きているか死んでいるかわからないように、不安要素を残したまま、この映画は終わる。

この物語におけるプレカリアートの問題は、あるいはこの家族の抱える症候は現在進行形で続いているからだ。回答は社会に委ねられている。

生きるために必要なはずの労働が日常生活を侵害していく。なんのために生きているのかわからない・・その切実さをリアルに突きつけられた。「元の生活に戻りたい」という子供達の声が虚しく響く。

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