持たざる者としては持っている者が羨ましい
週末、県大会の運営ボランティアに行ってきた。
息子たちは予選敗退してまったが、それの県大会が地元で開催されるので、敗退した地元のチームから各チーム数名運営のお手伝いをー、ということで行ってきた。
ボールボーイをしながら試合を見ていて、目の前で試合をしている県大会出場選手たちと予選敗退の息子たちは、いったい何が違うんだろうと考えていた。
おそらく敵がいないところ・プレッシャーがないところでの技術は、実はそこまで差はないと思うが、ただこの日試合をしていた子たちは、県大会の上位試合の心理的・肉体的なプレッシャーの中でも、全速力のスピードのままボールが扱えていて、それは見ていて緊張感があってスリリングで面白かったなあ。
そして球際の強さとボールへの執着心。
バスケの世界でももう死ぬほど聞かされてきたこれらを制したチームが勝っていた。
どうやって決めるのかアイデアが共有され、防ぐべき攻撃へのアンテナも共有され、決めるべきシュートを決め、止めるべきシュートに体を投げ出す。
ひとつのチャンスが何を意味するか知っている感じだ。
このシュートを決めないともうこんなチャンスは来ないとわかっている。
このシュートを止めないと一気に苦しくなるとわかっている。
だからボールに執着するし球際に強い。
この子たちの試合に対する勘の良さは一体どうやったら身につくんだろうか。
いくら技術が身についても試合勘がないとその技術は試合に生かされない。
試合勘というよりプレッシャーに向かっていく勇気?プレッシャーをプレッシャーと思わない雰囲気?
何にせよ、結局はそういうカルチャーがチームに根付いているんだろうな。
上手い子がいるから強いというわけではない気がした。
だからこの日試合を見た16チームの全員が息子より上手いとは思わない。
「慣れれば」ふつうに息子だってやれるだろう。
才能の差みたいものも感じなかった。
息子もこの日試合をしていたチームに入っていたら、こういう高い意識でプレイできるようになっていたのかな、なんて浅はかなことも考えてしまった。
それくらい個というより、チームが持つカルチャーの偉大さを感じたな。
この年代は勝ち負けは意識しなくて良いとも言うが、やはり持たざる者としては持っている者が羨ましい。
サッカーをする意味とは、単純な目先の(小学生年代の)勝ち負けじゃなく、最終的にどういうサッカー選手になるかであって、すべての努力はその過程にすぎないわけだ。
もっと言えばサッカーを通して、どういう人間に成長するかが問題なんだな。
ただそれもやっぱり勝ちにいってこそ、だと思う。
それが競技の本質でもあるしな。
だからサッカー頑張ろうな。
勝つとか負けるとかじゃなくても、人生を色濃くしていく為に(笑)
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