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【読切短編:文字の風景④】田園

青々とした稲穂が、今だけ一面真っ赤に染まる。

あぜ道に立つ私は、スニーカー越しでも土の柔らかさを感じる。都会のアスファルトは、いかに上に立つ人間を拒む構造なのかが分かる。

夕焼けに、思わず目を細める。この場所には一面の田園が広がるばかりで、赤く染まった光を遮るものは何も無い。ぼんやりした残像越しに見えるのは、自分より背が低く、まだまだ育ち盛りの稲穂と、はるか彼方に悠然と構える阿蘇山脈。私の背後にも山肌が広がっていて、その中腹には、私の祖先が代々眠る墓がある。

夜の気配と、起きだした鈴虫の音色が聞こえる。雨が降っていた訳でも無いのに雨上がりのような匂いがするのは、土と緑に包まれた場所の特権だろう。すべてのものが柔らかく、私を包む。

同じ日本でも、少し足を伸ばすと見える風景は180度変わってしまう。東京は、直線と強い光線で構成されている。空を見上げても、ビルで切り取られたその形は一直線の道路に似ている。

一心同体とはよく言ったもので、東京に居るとそんな風景ばかりだから、何かを目指さないといけない気がしてくる。働くならより良い業績を、伴侶にはより良い人を、生きていくならより良いくらしを。より良い、という言葉には、いつも比較する何かが潜んでいる。何と競っているのだろう。何に向かう道を走っているのだろう。

この場所は、見上げなくても空が見える。山と、ぽつぽつと点在する民家のシルエットで足元を飾り付けている。気づけば裾野から藍染めのように色を変えだして、金星が月にぶら下がっていた。今日の月は、半月とも満月ともつかない、しまりのない形をしている。

きっとこの時間を、この先の人生、ことあるごとに思い出すのだろう。


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