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【読切短編:文字の風景⑩】喫煙所

煙草を吸うと、ため息の言い訳が出来る。

私が煙草を初めて自分で買った時、心の中でこねた屁理屈だ。

深夜3時を回った高田馬場、半地下にあるこじんまりした中華居酒屋。終電を無くしてだらだらと飲み続け、皿の上のエビチリも話す事も無くなったころ、先輩から貰っていそいそとふかし出すアメリカンスピリッツ。そんな貰い煙草をしていた頃、私にとって煙草は沈黙の装飾であり、無口の免罪符だった。眠そうな顔で煙を吐いてると、それだけで存在して良い理由が生まれる気がした。

社会人になって、責任が生まれて、自分一人じゃどうしようもなくなる事が一気に増えた。自主休講は出来ても、自主欠勤は出来ない。認められたいだけの頑張りはいつか無理が来る。そうやって、抱え込んだ黒い靄のような思いが胸いっぱいに広がっていた。それはまるで、タールを飲み込んだようだった。

恵比寿スカイウォークを抜けてすぐ現れるガーデンプレイス。ここが私の勤務地だった。冬はバカラのシャンデリアと大きなクリスマスツリーが飾られ、カップルで賑わうデートスポット。でも、私が退社する頃にはあらかた光は消え、辺りは人も少なく真っ暗になる。そんな時に、決まっていそいそと向かうのが裏手にある小さな喫煙所だ。

屋根や仕切りも無い通路の一角を、植物で後ろめたそうに隠されている。目の前は恵比寿駅から伸びる大きな線路が何線も伸びていて、向かい側には大きな総合病院が見える皮肉の効いた設営センスだ。等間隔に置かれた吸殻捨てと、植物を照らすように置いてある間接ライト。このライトは表のきらびやかな光が消えても、寄り添うように遅くまで灯っていた。

ジーパンのポケットから少し曲がったボックスのアメスピを取り出す。丁寧に折られた銀紙をゆっくりと広げ、かじかんだ手でそっと1本抜く。ライターの火花が線香花火のように瞬いて、ジュッ、という音と共に煙草の先を焦がしていく。一瞬だけ冷たい夜気が、火に燻されて熱くなる。煙を深く吸い込むと、胸にたまったタールが煙に巻きとられて、一緒に吐き出されるような気がした。本当はてんであまのじゃくだと分かっていても、なんとなく胸が軽くなるのだった。

足りない何かを満たす為に吸う煙草も、詰まってしまった何かを吐きだす煙草も、どちらも夜の匂いと、ほんの少しの罪悪感と、5分間のアイデンティティが入り混じった味がする。

また、あの喫煙所でのんびりと煙草が吸いたい。

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