澤田瞳子さん『龍華記』読了
いやあ、すごいものを読んだな…
昨日の夜から読み始めて一息に半分、そして今朝はその残りを、あっという間に駆け抜けてしまった。
書かれているのは、平家による南都焼き討ちと、そこからの興福寺の復興、関わった人々の懺悔と苦悩、そして救いを求めて生きる姿だ。
その中に、メインの主人公である悪僧範長と、その従弟で別当として高い身分にいる信円とが配置され、対比される。
範長は、摂関家という貴種の生まれでありながら、父である悪左府頼長が保元の乱で、崇徳上皇側に組し、死んだことによって、ドロップアウトする。今では、低い身分の出身の荒くれ僧たちと共に、薙刀を手に、強訴も行う日々である。
彼が他の悪僧たちと共に、平家が差し向けた役人を殺害したことが、南都焼き討ちの引き金になってしまう。
そんな彼を、共に寺を支える人材として、なんとか「まっとうな道」に引き戻そうとする従弟の信円。彼も、上に立つ者としての苦悩はあるが、それでも、「復興のため」、焼き討ちを行った重衡への憎悪と怨みを利用し、また彼の養女で、焼け出された孤児たちを世話していた少女・公子に悪僧たちをけしかける。
怖い。
集団ヒステリー、と言うのだろうか。特に怨みなどの負の感情は際限なく伝播し、人の正気を容易く失わせる。
このような「怨嗟」に突き動かされ、それによって結びつき、巨大な「怪物」とも言うべき力が生まれ、どこかに振り下ろされる。その相手が、無害な存在だろうと、関係ない。生まれた「力」は、振り下ろされないことには済まない。
歴史を見渡すと、世界のそこかしこで、同じような例が見出せる。
怨みや憎悪を捨てることは容易いことではない。
やむを得ぬ事情で、エリートコースから外れた範長は、ずっと「はぐれもの」として、生きてきた。しかし、自らの行いが引き起こした惨劇を目の当たりにし、そして公子と出会い、彼女の死も見る。信円の命で、重衡を斬る役も引き受ける。
それらの中で、彼は確実に変化し、そして「怨嗟の輪廻」から抜け出していく。
そして最後に、悪僧たちと共に山田寺を襲撃した信円に対し、彼はある行動に出る。
ここに私は、「ほう」、と手を打った。
そう来るのか、と。あの有名な「仏頭」をこうからめてくるとは。
昔、奈良の興福寺で、この「仏頭」を見た時のことだ。宝物館の係員らしき男性がこんなことを語っていた。
「この仏様は、貴方が悲しいと思えば、悲しんでいるように見える。喜んでいる、と思えば喜んでいるように見える」
今でこそ、現代的なオブジェのようにも見えるが、本来はそうして、1000年以上前に生きた人々の、数多の祈りを引き受け、鏡のように映し出してきたのだろう。
喜びも、悲しみも、怨みも。情や身分などのしがらみにとらわれ、苦しむ姿も。
興福寺に、会いに行きたい。
また一つ、そんな願望が生まれた。
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