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おばあちゃんと私の二十四・五日

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「おばあちゃんと過ごした日々を振り返ると、その長さは大凡二十四・五日程度だと気付く」亡くなった祖母との真夏の備忘録(完結済)
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2020年6月の記事一覧

23:最後の対顔(中)

 久方振りのT県T市は、相も変わらず暑かった。  おばあちゃんを気遣い、宿泊先は大手ホテルの一室を押さえていた。  駅前に聳え建つそれは決して新しくないけれど、快適に過ごせる空間が十分保証されていた。家族旅行で利用する宿泊施設といえば保養所や民宿ばかりだったので、お洒落なホテルに泊まるという事実だけで、私の心は浮き足立っていた。    ただ一つ誤算だったのは、駅前にあるにも関わらず、周辺がかなり閑散としていた事である。賑わっているのは駅を挟んだ向こう側で、ホテル側は寂れてる

22:最後の対顔(上)

 おばあちゃんの家に毎年足を運んだのは、高校二年の夏までだった。  その時だって、ほぼ〇泊一日だった。私が通っていた学校では「部活は二年生まで。三年生は受験に集中」と決まっていたので、高校生活最後の部活を悔いなく終えたい身としては、あまり長く祖母宅に滞在するわけにはいかなかった。「部活の為に盂蘭盆には家族だけ帰省、自分は留守番する」と決めた部員に対する申し訳ない気持ちもあった。  だから「本当は自分も帰省するべきじゃないのでは」と思ったけれど、部長の「気にせず行ってきて」の厚

21:シュウエン ヘノ プロローグ

 さて。認知症になったおばあちゃんと対面した最後の二日間の話へ移る前に、父の兄妹+αの話をしたい。  残り四.五話で纏めなきゃいけないし、この件は要らないかなあ……と思ったのだけれど、彼ら(彼女ら)の紹介をしないと話が上手く消化出来ず、全く意味不明な産物になってしまう事実に気が付いてしまったのです。  なるべくサクッと終わらせるので、お付き合い頂きたい。  ちなみに、これまでの話(1〜20話)は以下のマガジンで読めます。  父の兄妹構成が長女・次女・長男・次男・三女である

20:日曜の凶報

『おばあさんが認知症になった』  その報せは、余りにも突然だった。  疾うに成人を迎え、専門学校も卒業して一年が経つか経たないかの時分。何の変哲もない日曜の朝のことである。  けたたましく宅電のベルが鳴り響いた。連絡してきたのは前記事の最後にも登場した、おばあちゃんの家の近くに住んでいて世話役でもあった次女──中村純子さんだった。  純子さんから我が家に電話が掛かってくる。正に珍事だった。というのも、こちらから父の親族に連絡することはあっても、逆は殆どない。それこそ余っ程

19:おばあちゃんと針仕事/哀しい現実

 おじいちゃんが亡くなり、誰も継ぐ人の居なかった豆腐屋を、おばあちゃんは潔く閉めた。  けれど、副業の一環で行っていた針仕事だけは続けていた。  例の自転車で斡旋所まで行き、締め切り日までに出来そうな仕事を選んで、家に持ち帰って作業をする。完成したら斡旋所に持って行って納品。次の仕事を選んで再び家に持ち帰り……というシステム、だったらしい。  実のところ、詳しいことは全く知らない。  自分の事を語りたがらない性格に加え、おばあちゃんは非常に『恥ずかしがり屋さん』だった。

18:戦争を知らない世代の残酷な失敗

 一度だけ、広島の原爆ドームと平和記念資料館へ行った。  おばあちゃんと私達家族で、だ。  いま振り返ると、何故あの場に足を運んだのか分からない。  父も母も行ったことが無く、私も学校行事で『東京→京都・奈良』の経験はあっても『東京→広島』は未経験。原爆ドームなどはテレビや教科書で見るしかなかったから、一度は行ってみようとなったのかもしれない。丁度夏休みの時期なので、宿題の一環だった可能性もある。自由課題のレポートだとか、休み明けに書かされる「夏休みの思い出」作文のネタに、

17:ほんとは恐いおばあちゃんの昔話

 これまで散々「おばあちゃんは動じない」だの「心配しない」「淡々としている」だのと書いてきた。これらは全て、孫である“私”が感じた印象であり、“私”からすれば事実である。  でも、“息子”である父からすると、おばあちゃん──母は歳を取るにつれて次第に丸くなり、私が知るおばあちゃんになったのだという。  では、おばあちゃんが現役で“お母さん”をやっていた頃は、どんな人だったのか。  父は言った。 「一度キレると恐かった」と。  父は五人兄妹の四番目で、次男坊だった。今回の

幕間:続・空き地に込めた夢と欲

 今日、横浜の悪魔(田中陽子)から封書が来た。  中身は  ①財産目録  ②兄妹が幾ら、おばあちゃんへ送金(介護の援助金含め)したかのエクセルファイルのコピー  ③納骨会へ参加するか否かの返信葉書  だった。  介護の援助金を振り込んでも、その金の内訳は父が生きている時に一度来たきりだったので、今更こんなものを送られたって……という気でいっぱいになった。 「おばあさんが最期に私達の絆を繋げようとしてくれています」と言われてもねえ……。嫌々、形式だけ繕ってますよ感が見え見えで

16:ほんとに恐いおばあちゃんの自転車

 おばあちゃんの交通手段は、自転車だった。  白をベースにピンクや紅色で大振りの花が描かれた、ちんまりとしたママチャリ。  小柄な体躯に合わせ、サドルは最も低い位置に固定されていた。それが妙にハンドルと前後のタイヤを大きく見せていて、大人用なのに子供用のように感じる。不思議な自転車だった。  その自転車は、玄関先に停められていた。  正直に言おう。当時既に八十を越えていたおばあちゃんが、自転車を乗っている事実に驚愕した。  いま思えば……というより『人生百年時代』を掲げる現

15:旅先で患う病気は平素の倍怖い

 好き嫌い関係なく、食べたくても食べられないものがある。 ①うなぎ:昔は大好きだったし、脂っこい料理が苦手になった今でも「ちょっと食べたいなあ」と思う。が、一度喉に骨が引っ掛かってからはトラウマに。 ②メロン・キウイフルーツ:食べると喉が痒くなる。痒くて痒くて堪らなくて、酷い時は皮膚の上から両手で掻き毟るほど痒くなる。 『嚥下後に喉が痒くなる=微弱なアレルギー反応』の話を耳にしたことがあるので、アレルギーに関する詳細な血液検査をしたら、「あなたメロンとキウイ食べん方がええで」

14:空き地に込めた夢と欲

 前記事で、おじいちゃんが「地元県に高速道路が通ると信じていた」と書いた。  その予想には相当の自信があったらしい。おじいちゃんは山奥に土地を買っていた。  おばあちゃんに無断で購入した土地だった。  一度だけ、父の運転で見に行ったことがある。  そこは地図上では山奥だったが、実際に目にすると、山の麓の林の中という印象を受ける場所だった。  市街地から遠く離れ、県道から一本外れた先。目的地までに広がる風景は田圃と畑ばかり。民家は二、三軒ぽつぽつと在るだけ。取り敢えず必要最

13:老人と色

 おじいちゃんがこの世を去ったのは、私が産まれる数日前だった。  なので、おじいちゃんの顔は写真でしか見たことがない。声は知らない。身長体重その他病歴も存じ上げない。ただ、父から 「豆腐屋を営んでいた」 「梨でワインを造ろうとしていた」 「ワイン造りの為に息子を農大へ進学させたのに、卒業して実家に戻ったら『ワイン造り? 知らん』と言った」 「地元に高速道路が通ると信じていた」  等の話は聞いていた。  おじいちゃんの逸話を色々聞いていると、彼は割と先見の明がある人だったんだ

12:生の残滓が濃い廃墟

 父の生家を訪れた時、あまりの古さに驚愕した。いや、もっと正確に言えば、「トタン屋根の家」ならぬ「トタン造りの家」って存在するんだと驚いた。  父の生家──おばあちゃんが二階建ての長屋に引っ越す前の家──は、中国地方北東部の県、T市を流れる一級河川沿いにあった。  幅が広く、直線的なその川は、昔は酷く曲がりくねっていたらしい。大雨の度に幾度も決壊して人命を奪うので、強制的に真っ直ぐにさせたのだと河川敷に建てられた看板が歴史を教えていた。夏の日差しに煌めく川面が、何だかとても

11:おばあちゃんと朝ドラ

 おばあちゃんの朝の日課は「朝ドラを観る」だった。  NHKで放送される連続テレビ小説。  おばあちゃんは、それを観るのが大好きだった。特に何かを言うでもなく、出された朝食を食べ、その時偶々流れていたニュース番組をぼんやり眺めていると思ったら、ドラマが始まる十秒前ぐらいに素早くリモコンに手を伸ばしてパッとチャンネルを変えてしまうのだ。  その早業を初めて目にした瞬間、私も母も、息子である父も驚愕した。  無言のまま、問答無用でチャンネル権を物にする行動に驚いた。  そして