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18:戦争を知らない世代の残酷な失敗

 一度だけ、広島の原爆ドームと平和記念資料館へ行った。
 おばあちゃんと私達家族で、だ。

 いま振り返ると、何故あの場に足を運んだのか分からない。
 父も母も行ったことが無く、私も学校行事で『東京→京都・奈良』の経験はあっても『東京→広島』は未経験。原爆ドームなどはテレビや教科書で見るしかなかったから、一度は行ってみようとなったのかもしれない。丁度夏休みの時期なので、宿題の一環だった可能性もある。自由課題のレポートだとか、休み明けに書かされる「夏休みの思い出」作文のネタに、戦争の悲しく凄惨な歴史というのはお誂え向きのような気がするから。

 この記事を読んでいる人の中で、広島平和記念資料館に行ったことのある人は、果たしてどれほど居るだろうか。改修後の資料館ではなくて、改修前──被曝再現人形が展示されてた時の資料館の方だ。
 あの人形、撤去されたんですよね……(「恐いから撤去する」みたいな噂があったけれど、真相は如何に)。

 行って見たことのある人はお分かりだろう。
 行ってない、知らない人の為に簡潔且つ簡素に説明する。
 中は悲惨極まりなかった。

 特に実際の遺留品だの、被爆者の写真だのが展示された本館がキツかった。
 母と私は当時『霊感』とは違うが、妙なものを受信しやすい頃というか、『何とも形容し難いチカラ』が敏感だったので、進めば進む程しんどかった。私なんて本館に繋がる通路──原爆投下後の広島の街を模した煉瓦と瓦礫だらけの通路──の時点で
「あー、この先やばい。絶対やばい。何か入っちゃいけない気がする。凄い拒否られてる感じする。もうここの、空気も拒否ってくるもん。来るな〜来るな〜って圧が凄い。重い。何か分かんないけど本能? 本能かな? それも『行ったらアカン』って訴えてくる。うわー、行きたくない!」
 と情けなく喚いたぐらいだ。より敏感だった母は、もっとしんどかった。多分、最初の東館から辛かったに違いない。
 まあ、結局「現実から目を背けたらアカン」と思い直して頑張って入ったんですけど……。

 先述の再現人形は、通路を抜けて直ぐの場所に展示されていた。
 この人形に関しては「恐い」「気持ち悪い」という感想は抱かなかった。寧ろ、私達の後ろから来た女子高生らしき三人娘の悲鳴の方がビビった。まじで飛び上がった。腰を抜かしながら発した「ギャーーーーーー!!!!!」は相当な大音量だったので、きっと館内に響き渡ったと思う。少なくとも、その階全体には響いていたし、私は心の中で「うっせー!!!」と叫び返していた。お陰で妙な重苦しさは一時的に霧散したが、はちゃめちゃに五月蠅かった。
 私の記憶にハッキリと残っているのは此処までで、何処をどう歩いて何を見て何処を抜けたか定かではない。
 次に記憶しているのは資料館の出口付近にて、おばあちゃんと父と合流した瞬間だ。先に見終わっていた二人はベンチに座ってくつろいでいた。めちゃくちゃデジャビュだった。

 あの時──合流した直後、「おばあちゃんとお父さん、よく平然としてるな」と思った。あんなに凄惨な資料の数々を目にしてケロリとしているなんて。ある意味で凄い。お母さんと私、心身ともにグロッキーよ。と、感心したものだ。
 けれど、いま振り返ると、本当に平然としていたのか。少々疑問である。
 特におばあちゃんは戦争を経験している人間だ。当時おばあちゃんが住んでいた街に原爆は落ちなかったけれど、爆弾や焼夷弾は降ってきたかもしれない。

 おばあちゃんは、自分の過去を語りたがらない人だった。
 だから失念していた。彼女が産まれた頃の世界が、若い娘時代を過ごした環境が、如何に過酷で辛いものだったかを。

 いま振り返ると、申し訳ないことをしてしまったと思う。
 あの場でおばあちゃんが何を思い、感じたのか。もう一生知ることは出来ない。訊くことも叶わない。

 戦争を知らないが故に犯した残酷な失敗に気付くには、余りにも時間が掛かり過ぎた。そして、余りにも遅かった。

(続く)

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