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5本のバナナのうち、何本をあげますか?

図書館にリクエストしていた本が準備出来ましたとのメールが着たので、取りに行ったが、全然覚えのない本だった。

「普通がいいという病」泉谷閑示

なんだっけ、これ。
読みたい本があるととりあえず図書館にリクエストするのだが、リクエストした事を忘れる程順番待ちが長かったという事なので、人気の本に違い無いと信じて、難しそうだったけど、読んでみた。
その結果、私には難しめではあったけど、非常に良い本でした。自分で買い直してもイイぐらい。
いちいち感心しながら読んだが、人に説明出来る程には消化出来ていない。でも、心に残ったのが、バナナの話。

バナナが5本あった。普段は大体3本食べるとそれ以上は要らないという人が、とても腹ペコで困窮している人がいたので2本で我慢して、残りの3本を困っている人にあげた。その困っている人はバナナが大嫌いだったので、こんなもの要らん!と捨ててしまった。バナナをあげた人は、自分が食べたいのを我慢してあげたのに捨てられたので腹をたてた。

こういう事よくありませんか?という問いかけだ。

3本食べたいのなら3本ちゃんと食べて、残りの2本を、要らないなら捨ててもイイよとあげれば、その人がバナナをどうしようと腹は立たなかった筈という訳だ。

私にとって、これはすごく腑に落ちる話しだった。以下、私が自分の体験に当て嵌めた勝手な解釈が続きます。

認知症の介護をしていると、こんなに私達我慢してやってるのに、全く報いられ無いという無力感に陥る。
時間と気力を持っていかれる。場合によっては体力もだ。
自分の持ちバナナが5本として、3本欲しいのに2本だけ食べて我慢して、あなたに3本あげたのに、感謝されるどころか嫌がられる事が多い。認知症の人にはバナナの価値が分からなくなっている事が多く、それは病気だから仕方ないんだと思って頭で納得しようとしても気持ちはおさまらない。この本ではまた、頭で理解する事と感情は別で、感情の方が優先されるものだとも書いてあった。少なくとも私はそう理解した。変な痩せ我慢は、しない方がマシらしい。

なので、介護する人は、自分が欲しいバナナはちゃんと確保して、残りのバナナを介護される人が受け取ろうとどうしようと自由だと思った方がよい。

これだ!これで行こう。
そのうちに、自分はバナナ一本で本当に満足だから4本あげるね!という境地になる事もあるかもしれない。多分、私はならないと思う。
自分の子供が赤ちゃんの時は、そうだったかもしれない。多分それは母親が自分の子供を守ろうとする本能的な物で、オキシトシンか何かが脳内で分泌されていたのだろう。しかもそれは一時的なもので、次第にお母さんのバナナはお母さんのモノ、自分のバナナは自分でなんとかゲットするんだぞ!という方向性に変わった。自分産んだ子供に対しても、あっという間にそうなるのだから、高齢の親、しかも義理の親に対して4本も5本もバナナをあげるのは到底無理なのだ。2本、あるいは1本でもしょうがない。
だって、自分がバナナを貰う方だとしたら、その方がありがたいから。

自分がもっと精神的に大人になって、私のバナナは2本でイイですと本気で思える様になるまでは、痩せ我慢して人にバナナを配らないでいいんだ。本当に欲しければ、一本も人にあげなくてもいいんだ。という事が分かり、とても有意義なな読書体験でした。

ただ難しいのは、本当に自分が必要とするバナナは何本なのか。という見極めだ。バナナ何本あげるべきというのは、結果自分を苦しめるのでやらない方がいいらしいけど、人にあげるくらいならお腹いっぱいだけど全部自分で食べるというのも欲張りすぎだと思うので、無理せず丁度いい所を目指したいと思います。

もしかしたら、作者の意図とズレている可能性も多分にあると思われるので、興味ある方はご自分で読んでみてください。