『霧の中』
海が近い街でございました。
その日は、空が紫色に暮れて、
濃い霧がおりていたのを覚えております。
街路に連なった灯が
どれもぼんやりと青く揺らめいて、
まるで見知らぬ街にでも迷い込んでしまったような
不思議な心持ちでございました。
人気のない停留所の道を歩いておりますと、
音もなくゆっくりと、
バスがやってまいりました。
どこへ行くのか知れないそのバスに
わたくしはなぜだか 無性に
乗らなくてはいけないような気持ちになって、
そのバスに乗りかけたのでございます。
ふいに、「駄目!」という女の子の声が上からして、
仰ぎみてみますと、
バスにひとりの女の子が乗っておりました。
窓にぴったりと額を押し付けるようにして、
悲しい瞳でわたくしを見ている女の子は、
去年、海で亡くした娘にとてもよく似ておりました。
――ふと目覚めると、
わたくしは白いベッドの上で寝ておりました。
どうにも記憶が定かではないのですが、
周囲のものによくよく訊ねてみますと、
わたくしの乗っていたバスが峠の道から転落し、
大事故にあったとのことでした。
それをきいた瞬間、背筋に
ひやりと冷たいものが走りまして、
思わず、ひゃっ! と
あげたことのないような悲鳴が漏れてしまったのも
無理もないことでございましょう。
わたくしは、亡くしたはずの娘に守られて、
九死に一生をえたのかもしれません。
その娘の墓は海が見えるところにございます。
娘のいのちを奪ったのも海ではございますが、
娘はこの海がたいそう好きでございましたので、
夫の家のお墓がこの高台に建てられていて
本当によかったと思っております。
こうして花をお供えにくるたび、
わたくしは、あの日の不思議な光景を
思い出してしまうのです。
あの娘の悲しそうな瞳を……
そうして、この守られた「いのち」というものに
思いを馳せずにはいられなくなるのでございます。
あれはいったい
本当に
夢というものなのでしょうか?
それとも――
水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。