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快適な「繭の中」を出て、他者と出会う旅をしよう

仙台大学図書館の「書燈」でおすすめ本を紹介するリレーコラム(http://shotoh.blogspot.com/)に寄稿した記事です。

私が初めてインターネットに触れたのは、小学校高学年のころだ。自宅のパソコンを電話線に繋ぐだけで、未知の情報の海へと旅することができる高揚感。遠く離れた、顔も名前も知らない人々と交流ができる新鮮さ。私にとってインターネットは、多様な情報と人との出会いによって視野を広げてくれる、まさに世界に開かれた「窓」だった。

ところが近年、インターネットが人々の「視野を狭める」危険性が指摘されるようになっている。SNSのフォローやブロック機能、webサービスのAIによるリコメンド機能の進化により、人々がインターネットを通じて得る情報は急速に「個人化」されるようになった。学生に聞くと、TikTokが個人の嗜好に合わせて「おすすめ」する動画を見ていると一時間ほど過ぎていることがよくあるという。Amazonがその人の閲覧・購入履歴から「おすすめ」してくる本をつい買い過ぎてしまい、大変だという人もいる。....これは私のことですが。

どこまでも自由で多様なはずのインターネットで、実は人々が自分の興味関心のある情報だけを与えられる「繭の中」に閉じこもっているとしたら? キャス・サンスティーンの『#リパブリック インターネットは民主主義になにをもたらすのか』(勁草書房、2018)は、こうしたインターネットによる情報の「個人化」が民主主義社会にどんな影響を与えるのかを真正面から考察した本だ。著者によれば、同じ意見を持つ者同士が繋がり、異なる意見を排除できるSNSの環境は、社会の分極化や過激化を助長しかねない。しかし優良な民主主義体制にとって必要なのは「情報と熟考にもとづく決定」であり、そのためには自分と異なる立場の意見を知り、対話する機会こそが重要となる。

著者は「民主主義そのものの核心」として、情報の「セレンディピティ(偶然の出会い)」を挙げる。人は予期しなかった、自分で選ぶつもりのなかった情報に出会うことで、「似た考えを持つ者同士でのみ言葉を交わすような状況から予測される断片化、分極化、および過激思想から身を守る」ことができるからだ。とすれば、こうした「偶然の出会い」を生み出せるようなSNSやAI、webサービスのあり方をいかに設計できるかが、インターネットの存在を前提とした健全な民主主義社会のための一つの鍵と言えそうだ。

17〜18世紀のイギリスでは、コーヒーを片手に身分や立場を超えて情報交換や政治談義ができる「コーヒー・ハウス」が栄えた。ハーバーマスはこうした市民のオープンで自由な議論の場を「公共圏」と呼び、熟議型の民主主義を支える重要な空間として位置付けた。多様な人が議論に参加できるインターネットも当初「公共圏」の役割を期待されていたはずだが、今日Twitterを覗けば、先鋭化・過激化した意見が対決している構図が目につき、異なる意見を持つ者同士が「熟議」している環境とは言い難い。

今後ますます個人化していくインターネット環境の中で、私たちは快適な繭の中を飛び出し、いかに自分と違う他者と出会うことができるか。そして、意見や立場の異なる人同士が議論する「公共圏」を、いかにインターネット上に設計することができるのか。本書は現代に生きる私たち一人ひとりがこの難題に向き合うための、いくつもの示唆を与えてくれる。


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