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我慢で生じた歪みを他人に転嫁するくらいなら、直接相手に伝えたい

お祝儀の額、挨拶してもらった主賓へのお礼、赤ちゃんの参列について、自分の感覚が正解か分からないからググってみる。そうすると、多種多様な意見があるが、記事の殆どは不満ばかり。
親族なのにお祝儀が少なかった義家族への不快感。
挨拶のお礼をしたのに、お礼のお礼がない。
祝う能力がない赤ちゃんが来た。
等々。
きっとこの方たちは、人生に1度しかない結婚式においても、譲って我慢して、破裂したのだろうと感じた。そして我慢を相手に言えないから、ネットに逃げたのだろう。もしかすると知人にもぶつけているかもしれない。
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「人類皆友達」と豪語する私の旧友は、確かに多くの人の前ではいい人になる。しかし、そのいい人は、我慢で出来た架空の人格で、本来はいい人ではない。人生が上手くいっている医者の父親や獣医の兄を始め、周囲の成功者を僻み、攻撃的になるのが本来の彼。だから、成功している友人宅で突然消火器を撒き散らし始めたり、オーディションに励む友人には不合格祈願をする。
本心を隠していい人になろうとしてもなれない歪みが、飲酒などのふとしたきっかけで爆発するのだろう。
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人と人は悪気がなくとも言葉や態度の端々に悪意を感じることがあるし、意識せずとも他人に不快感を与えることもあるだろう。
例えば「◯◯ちゃんと仲良いの?」と聞かれ、仲の良さに甲乙を付けたくないし、何より生きている以上、仲の良さは時々に応じて変わるのだから、「分からない。」と本音で回答する。
この時、質問者が、本当は仲良いのに隠し事をされたと話者に悪意を感じれば、話者は意識せず他人に不快な思いをさせたことになる。

このようなことから、あらゆる人間に好感を与える人間でいることは不可能で、みんなにいい人とは、存在してないと私は思う。

さらに例えば、noteの記事で、スキの連鎖があった時に日によって「読んでもらえなかった」と感じたり、「まとめて読んでもらった」と感じるように、人は時々の機嫌によって感じ方が違う。その点を踏まえれば、いつも安定のいい人がいないことは、一層いえるだろう。

にもかかわらず、いい人が存在するのなら、それは心に溜めたストレスを何処かに転嫁しているのだろうと私は考えてしまう。
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私も昔は思いを伝えられなかった。だから、職場の攻撃的な人に反論すらできず飲み込んで、いい人になっていた。その反動は、心配してくれた家族や友人に向かい、冷たい態度を取っていた時期もあった。そして気付いた時には、心の内を知ろうとしてくれた大事にすべき人は、ストレスでパンパンになっていた私から距離を置いていた。
人は、自分1人で心をコントロールできないとしても、受けた苦痛を他人に転嫁すれば転嫁された相手は冷めて去る。それは、意味不明な他人のせいで、大切な人を失いかねない。
本来去って欲しいのは、理不尽に攻撃してくる他人だろう。ならばその方たちに、その方たちの不当さを伝えることが本来、あるべき姿のはずである。
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私が見た結婚式についての書き込みや、人類皆友達と豪語してる旧友を見ていると、エネルギーを発するべき場所が違うように見える。エネルギーを発する相手は、彼らを見下したり、無理を強いた相手であるはずである。
エネルギーを発するべき相手を間違えてしまうと、失ってはいけない人を失いかねない。なれないいい人になっても、なる能力がないのだから、結果、心に溜まった苦しみで別の誰かを傷つける。傷つけた相手こそ、本来、傷つけてはいけない相手なのに。
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お祝儀の額、挨拶してもらった主賓へのお礼、赤ちゃんの参列の妥当を判断する材料は、私が見た限りネットにはなく、代わりに怒りと悲しみが溢れていた。
その思いはパートナーや参列者に向けたら良いのにね。人を失いたくないためにした我慢が、かけがえのない人を失うことにならないように、私は出来ない我慢は理不尽な他人にお返ししたいと思う。

とても嬉しいので、嬉しいことに使わせて下さい(^^)