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「私は学ぶことをやめ、学ぶことを再開した」


※当事者の方へ。フラッシュバックご注意下さい。

2019年12月、中国の武漢市で新型コロナウイルスの感染者が報告され、その後2020年1月15日に日本でも最初の感染者が確認された。

この新型コロナウイルス感染症によって、私たちも自粛生活が強いられた。

個人事業主で全国各地に足を運んでいた私の仕事もストップした。リモートで出来ることもあるが、対面での仕事スタイルの為、その分収入も少なくなる。中には赤字となってしまった月も何回かある…。逆に赤字の月の方が多く、その度に、これまでの貯蓄を取り崩すことになってしまった。

2年近くもそんな状況が続くと、「仕事探すかな…」という思いも出てくる。そもそも私は自分の生活スタイルにあった仕事を選び、今の仕事を選んだ。

私がしている仕事はやりがいはある。

かなり、ある。

どうしてもしんどい時は、「この日は休みにしよう…予定を入れずに寝たおす日にしよう…。」と自分のスタイルを作ることもできる。

虐待サバイバーである私にとって、週5日朝何時から夕方何時までと決められた仕事には就けない。


withコロナとなった今、収入のない作業も再開となった。私の手帳を見ると11月は2日しか休みがない。仕事の合間にカウンセリング(基本的にはカウンセリング後は仕事を入れていない。)、通院、友人とのカフェ…。たまに、ぐったりと疲れてシャワーを浴びることも出来ず、自分に鞭を打ちながら「明日の朝入るよりも、今入っていれば楽だ…。」と、目を閉じながらシャワーを浴びる日も多い。

目を閉じていると、脳が休んでいる気がする。

けど、もう一つの脳は休むことを知らない。

右脳、左脳、海馬・・・脳にもいろんな役割を持った部位がある。不思議な感覚なのだが、「たぶん…今、左脳は寝ている…。」そういう風に思うことも少なくない。


話は戻り、コロナになる前は仕事と遊びに夢中になることで、「自分の過去・自分に起きている事実に蓋をしていた」。

収入があった分、好きな物を買ったり(物質主義)、趣味にお金を費やしたりもした。

ここ数ヶ月で私の部屋には本が増えた。

昔から読書が大好きで、中でも「ハリーポッター」シリーズが好きだった。私も11歳になれば「ホグワーツ魔法学校から手紙が来て、イギリスに行って魔法学校に行ける」と思っていた。(結構、そう思っていた人は多いらしい。実際、ハリポタで繋がった友だちも多い。)



実際、手紙が来ることもなく、ふくろうが空を飛んでいる姿を見ることもなく、今を生きている。

本という存在は私の心のケアにもなっていた。

本の中には主人公が居て、例えばハリー・ポッターという少年は、両親が居ない。悪によって殺されたのだ。預けられた先では暴言や暴力行為が行われ、ネグレストもあった。

けど、ハリーは自分が魔法使いであることを知り、魔法学校に入学し、新しい仲間を作っていく。どんなにつらい過去があっても、どんなにつらい境遇が目の前に立ちはだかっても、彼は「生きた」。

ハリーの存在は幼い私に勇気を与えてくれた。

そもそも、ハリーポッターという本を知ったのは、友人のお母さんからだった。

ハリーポッターの著者である「J.K.ローリング」とそのお母さんは、イギリスのとあるカフェで偶然にも出会っていた。お互いにシングルマザーで、話が意気投合?したらしい。そこで、物語を書いているという話しを本人から聴いたとのこと。

その後、イギリスで発売されたハリーポッターの本をお土産として、私にくれた。

「英語じゃん!」私は笑って突っ込んだ。英会話は習っていたもののまだ綴りとかは読めなかった。だからこそ、英語を勉強した。中学生になる前、通っていた塾で行われた全国模試では満点で全国1位を暫くキープしていた。(今はまったく出来ません。日常会話…かろうじて出来る?くらいです。やっぱり継続させることが大事だと…はい、思っています…。)

本を読むことの楽しさ、勉強をすることの楽しさ、授業でも率先的に手を挙げていた。ハーマイオニーのように…。

とある日から私は学ぶことをやめた。

「頼むから医学部、薬学部、そして芸大に行くことはやめてくれ。」

父は私にそう言った。「なんで?」

「お金がすごくかかるから…。」

その言葉を聞いた私は、自分の夢が壊れてしまって、「勉強をする必要がない」と思ってしまった。授業中はノートもとらずに、ただ授業を聴いているだけ。テストを受ける意味も分からなくなって、テスト開始の合図と共にテスト用紙を裏向けて絵を描いていた。その行為を見ていた先生は、「またか 笑」と笑った。「うん 笑」私も笑って返した。

テストの結果も悪い…。小テストだけは満点を取る。さすがに先生たちも不思議に思い、母親に話をしたらしい。そのことに関しては、親から叱られることもなく、「そう先生に言われた」とぶっきらぼうに言われた。


中学3年生になり、高校受験を考える時がきた。

中学時代にも色々とあって、私は自分の「苗字」が大嫌いだった。ほとんどの友だちは公立高校を希望する中、私は私学を希望した。

私のことを苗字で呼ぶ人がいない学校に…行きたかった。

インターネットで検索して、「ここを受験したい」そう母親に伝えた。母親はそれを父親に伝えた。「授業料が高いから私学はだめだ」と父親からの返答がきた。それでも、私は私学に行きたかった。中学時代に色々とあってどうしても皆から離れたかった。苗字で呼ばれたくなかった。

母親が父親に何度も頼んでくれたらしい。(後日、聴かされた。それは母親は健康面の都合もあり高校には行けなかった。娘には行って欲しいという思いがあった。)

「普通科ではなく特進に行くこと、それが条件」

学ぶことを自ら辞めた私は、その日から勉学に励んだ。

職員室で私の話しが出たらしい。

「おまえ、国語の授業中に英語勉強しているらしいな?職員室ではおまえの話が出ている。他の授業でもそうなのか?」

「え?はい。社会の時間に数学して、他の授業でも違う科目をやっていますね。」

「なんでなん?」先生は笑って聴いてきた。違う学年の先生だ。

「だって、授業の内容、絶対にテストに出ないから!だから聴いていても無駄だなぁって思ったし、自分が受ける高校が出してくる問題を推定してそういう応用編の問題を解く方が、受かる確率高くなるって思って。あ、でも授業の邪魔はしてませんよ?端っこで、ただただ勉強していますし…。すみません…。」

当時の担任からは「普通科なら受かると思いますが、特進は無理ですね…」と言われていた。「え?無理?ふーん、だったら受かってやろうじゃん?」その私の感情は「反抗期」だったのだと思う。否定されることによって、燃えるタイプでもあるかもしれない。(いや、傷つくことはあるよ?)

昔から、「乗り越えられない壁はない」。そう自分の中で言い聞かすことによって私は生きてきた。


そして私は学ぶことを再開した。


入学試験の際、面接で「どうして留学は考えていないの?」と聴かれた。

お金がかかるから…なんて言えない。

「私は、特進でも英語を学べると思っています。留学に行きたいと思えるようになった時は、留学コースに変更します。」そう答えた。

後に、教師から聴かされたことだが、英語は受験生の中で1位で満点だったらしい。だから、面接の時にそう尋ねられたことに納得した。

特進コースに居ながらも、英語はとくに楽しくて、全日本高校模擬国連大会にも出席した。

2年生になる前には、保護者や生徒に対して「特進コースに入ってよかったこと」をスピーチで話すようにも頼まれた。

人前で話すことは、何の苦痛でもない。これは昔から。(性被害や虐待のことを口に出して話すのは…別の話です。)


そもそもインターネットで高校を探していた時、部活動に入ることも考えていた。自分がやりたい部活動(運動部)の活動報告を見て、ここに行こう!と決めたのだ。(意味があって部活の名称は記載しません…ごめんね!)

実際、入学してみると…その部活動の存在はなかった。今でも、ホームページは更新されずに「活動しています」と記載されている。しかも、画像付きで。

「え?ないんですか!?」

「ないね~」

(嘘ぉ~まじで?じゃあホームページのあれは何だったのよぉ~!詐欺じゃん!ま、無いなら作ればいいのか!)

そう思って、体育の先生に声をかけた。そしたらその人は過去にその部活動で高校時代に全国1位を獲ったことがある先生だった。

「お願いします!復活させてください!顧問になってください!」

「でも、まだ(自分が)この学校にきてから2年くらいしか経ってないから、でも?人集めたら部活申請はできる」

その言葉を聞いて、友だちに声をかけた。

「いいよ!」最終的には遊び感覚での返事だとわかり、途中からは部活に来なくはなったが、「部活動」として正式に認められた。普通科の子たちも入ってきて人数も増えた。その中で、キャプテンを誰にするか皆で話し合った。「せ~の!」で指差して多数決で決定した。…キャプテンは私。


でも…、2年に上がる前に「俺、この学校辞めることになった」。

顧問にそう言われた。

「どうして?先生が居なくなったら誰が顧問になるの?」

「一応探してはいる。きっと大丈夫。」

「先生が居なくなったら、この部活はなくなるよ?」

「無くならないって!」

「なくなる!先生のことが好きでこの部活を続けている女子もいる!だから、先生がいなくなったら部活動として機能しないって…」

「大丈夫。おまえにみんな付いてくるって…。」

「…そんなのないよ……。絶対、やばいことになる…。」

この時、私は腰を痛めており暫くは見学していた。もしかすると手術が必要となるかもしれない、そういう状況だった。

そうして、2年に上がる前に顧問の姿はなくなった。噂によると、どうやらコネで入ったらしく教員免許を持っていなかったとか…。他府県に行って年上の彼女と結婚したとか。真相は分からない。

2年になって、部活は続いた。副キャプテンがある日私にこう言った。

「いくら頑張ってもあやに勝てないのなんでなん?なんで?教えて~やぁ~」

コートの中で座りながら涙を流し出す姿。

言ってしまおうか…どうしようか…。それまでにも色々と言われてはいた。「あやには勝てない。勝てたことがない。」

中学からその部活を続けていた男子もやがては私に勝てなくなった。それでキレてラケットを投げられたこともある。目の前で泣く姿も見たことがある。※ラケット…大体どの部活か分かりますよね…。


私はその日、その子に言った。泣いている彼女の側にいって、腰をおろした。

「ねぇ…家に帰ってから練習してる?私さ…ずっと皆が羨ましかった。私は顧問に教えられることなかった。最初は教えてもらってた。けど、皆が入ってきてから先生は私には教えることがなかった。だから、どうしたのかって言うとね…私は先生が練習している姿を見たりして、あんな技もあるんだ!へぇ~!と思って、家に帰ってから何時間も練習した。音がするから周りに許される範囲で遅くまで練習した。一見、一人では練習出来なさそうに見えるけど、いくらでも練習出来るんだよ…。あなたは、それをしたことがある?」

そう私ははじめて伝えた。

でも、その子はただただ悔しくて泣くだけ。そして、泣くだけで収まらない感情を私にぶつけてきた。「むかつく…むかつく…めっちゃむかつく…」軽く叩かれながらも、私は彼女の背中をさすった。

「努力ってね…裏切らないんだよ…。もし、どれだけ頑張っても叶わないなら、もしかしたらその努力の仕方は間違っているかもしれない。けど、そういう事実に気付くだけでも努力してきた意味はあるし、もしかするとまだまだ不足しているだけかもしれない。きつい言葉をかけていることは分かってる。でも、キャプテンとしても伝えたかった…。」


高校の卒業アルバムを開くと、私はその部活動の写真の中には写っていない。

けど、この子たちは写っていた。

2年生になって、指導できる顧問がいなくなり、全くルールも知らない先生が顧問となった。試合など練習を含んだスケジュール調整をしていく中で「こんなに練習すんの?めんどくさ!」そう言われた。

先生が言う意味も分かる。急遽、顧問を任されたんだもの。そういう気持ちになるのも当然の反応だと思った。


・・・ある日、誰も部活に来なくなった。

部室にも姿がない。「…おかしいな」

そう思うと同時に「もしかして…」と思い当たることがあった。

居なくなった顧問をこの学校に入れた先生がいた。1年の時から、その先生も部活に遊びにきたり、部活の仲間でテスト勉強をしたりもした。

その先生もまた、違う部活の顧問を担当していた。

あぁ・・・持っていかれたんだ・・・。

噂で、他の部活に移動したことを耳にした。実際、その部活動の様子を見に行ったこともある。やっぱりか・・・。その顧問は勝ち誇った顔で私のことを見た。

でも、彼女たちを攻めることは一度もしなかった。選ぶのは自由だから。でも、引き抜いていった先生に「恨み」という感情を持った。

誰も部活に来なくなり、その前に急遽顧問となった先生は「妊娠」を理由に学校を暫く休むことになった。そして、新たに顧問がやってきた。

でもルールを知るわけでもなく、何か手伝ってくれるわけでもなかった。

でも、「大丈夫?」と真剣に問われたことはある。

「大丈夫です。」私はそう答えて、二度とラケットを握ることはなかった。部屋にある部活用の鞄を見る度にため息が出た。

私は卒業する時に衝撃的な事実を知るわけだ。

「部活は存在し、私以外の子が写真に写っていて、また持っていかれた部活動の方にも同じ顔が写っていた。つまり、2枚の写真に彼女たちが存在した。」

私は卒アルに、ボールペンで×を何回も書いた。


でも、卒業する前に副キャプテンだった子と偶然鉢合わせることがあった。

「あや…ごめん…ほんまにごめん…今ならあやの気持ちが分かるかもしれん…ほんまにごめんな…。」

それだけの気持ちじゃないことは何となく感じた。

「それだけ?他に悩んでることあるんじゃない?」

そう…彼女はいじめを受けていた。特進と普通科では校舎も違うし余程のことがないと顔を合わせることはない。

「…○○からいじめられてる…。」そう彼女の口から聴いて(いじめってそうなんだよね…何故かぐるぐるといじめは回ってくるんだよね…。)そう思った。

それ以上のことは話すこともなく、彼女は今はもう結婚して子どももいる。


本当は私の場合…自分の心に気付いてあげないと危ない状態だった。

部活動は存在しない…、突然顧問が消える…、誰も部活に来なくなる…、来なくなったのは原因がちゃんとある(後から知った話だが、私の悪口を散々言いふらし、私を悪人に仕立て上げ、自分の部活動に勧誘したとか)。

・・・それと同時に家庭環境もよくない。よくないどころか事態は悪化していく一方だった。

私はまた「学ぶことをやめた」。ううん、「学ぶ力を失った。」

もう脳も身体もバラバラでついてこないのだ。右手を動かしたくても動かない。起き上がりたいのに、起き上がれない。「助けて」と言いたいのに声が出ない。


2年時に「告白」され「ごめんなさい」とフッた結果、集団レイプに遭い、写真や動画を拡散され、脅されて付き合うことにもなり、

私は、3日経っても眠ることが出来なくなった。

それまでにも不眠症という症状はあった。とくに寝付きが凄く悪い。

でも、3日経っても眠れないのはさすがに精神が崩壊した。

3日、外泊しに行っている母が帰宅して、私は母に怒鳴った。

「どこに行ってたのよ!私は3日も寝てない!寝られない!もう、しんどい…病院に行かせて…。」

母は近所の内科を受診させてくれた。すぐに神経科にまわされ、母からは「絶対に安定剤とかもらったらあかんよ?あれはキチガイが飲む薬やから、先生が処方するって言ったら絶対に断ること。漢方薬にしてくださいって必ず言うこと!」それを条件に受診した。

そう母から言われたことを先生に伝えた。そして、漢方が処方された。

でも・・・、眠れない。寝たいのに…眠れない。どんどん症状は悪化し、頭痛、吐き気、肩こり、めまい…様々な身体症状も現れた。


そして私はとある大学病院の精神科に通院することになった。

告白を断った男子からは嫌がらせを受けた。最初はロッカーを開けるとゴミが大量に入っていたり、上履きの中に画鋲が入っていたり…それくらいだった。「うぁお!笑 なんだこれ!笑」そうまだ笑っていられた。(男子ってこういうところ本当にお子ちゃまだなぁ…って思っていた。)

それを見ていた女友だちが、家に帰宅して自分のお母さんに「あやちゃんがいじめに遭っている。」と伝え、そのことを知ったそのお母さんが学校に電話をした。

2年時の担任の先生は、もの凄く正義感のあるまじめな男性だった。見た目もダンディな感じ。

翌朝、「あとで話をしよう」ということで呼び出された。

ゴミのことも伝えた。

そして何回か担任と話す機会を設けてくれて、すれ違う度に「死ね」と言われていることも伝えた。


・・・大学病院の精神科をはじめて受診した時。こう尋ねられた。

「死ねって声は聞えますか?」

私は「はい…」

そう答えて私の診断名は「統合失調症」になった。

でも私からすると毎日のようにすれ違う度に、その男子から「死ね」と言われる。幻聴とかではなくてリアルに言われている。

高校を卒業した後、3つの医療機関の医師同士で私の診断名について話すミーティングが開かれたらしい。

「統合失調症ではない。自律神経失調症。」

そう回答が来た。


詳しくは書けていない。全然、書けていない。何があったかはまだ書けていない。今は書く時ではない。私はまだその問題を解決しなくてはならない立場に今、置かれている。

だから、まだ書くことは出来ない。


家庭の中で虐待行為がありながら、学校という教育の場でも「いじめ」「暴行」に遭っていた。

何度も死ぬことも考えた。そんな人が何故、卒業できたのか…不思議に思う方もいると思う。


私はよく第三者から言われる。

「よく今まで生きてきたね…」

「生きてるだけですごい、えらいのよ?」

そして…「休ませてあげたい」そうも言われる。
つい最近も「休ませてあげたい」「こんなに頑張ってきたのに」「もうゆっくり休ませてあげたい」「地元の県を離れて、ゆっくり休んでほしい」そう言われた。…でも、その「理由(意味)」が分からない。



私の部屋には本が増えた。


自分の今の立場を考えたとき。自分の症状を考えたとき。

「社会に対して疑問が生じる。」

私たち(児童虐待を乗り越えてきた、虐待サバイバー)は、

「社会から見放された存在が、今でも続いているという事実」と向き合っている。苦しんでいる。泣いている。


性被害・性暴力に関しては、とある裁判で「無罪」といった判決が続き、性被害を受けた当事者の方が声をあげている。戦っている。
今も戦っている。

私自身、性被害者でもある為、その活動を知ることで当事者の力強い叫びが人を動かすことも知っている。そして、法律までも変ろうとしている…。本当に凄いよ…。私は第三者的立場から言ってるだけ。性被害を受けた身ではあるけど、無力だと感じる。「そんなことないよ!」って言ってくれる人もいると思う。…だったら、全力で受け入れることは出来なくても、その言葉を私は受け止めます。

人間、三大欲求といって「食欲」「睡眠欲」「性欲」がある。

そして、人は成長する過程に恋という感情を持ち、自然に「性」と向き合う。女性なら月経を迎える頃だろうか、男性も「性」ということを生きていく過程の中で自然と「性」に向き合う。性を何らかの形で意識するようになる。

「性」という言葉に、もしかすると人間は敏感な生き物なのかもしれない。敏感というよりも、生まれもって意識・無意識両方ともに持っている存在なのだとも思う。

性被害の当事者でありながらこんなことを発言するのは、少しおかしいかもしれない。「性」に関心がある人間は多い。私自身、性被害であることをTwitterでカミングアウトした時、リプやDMが沢山きた。リプよりもDMの方が多かった。

しかし、自分が「虐待を受けていた」といカミングアウトをした時の周りの反応…どちらかというと「無関心」というか「無反応」というか…。
性被害をカミングアウトした時とは違う反応だった。それを長いこと福祉関係の仕事をされている方に、送った。

この2つの違いって何なのか…自分なりに分析していった。


上記のことと、「性被害というのは、年齢も性別も関係なく、いつ誰がどこで遭うかもしれない被害」なのだ。明日は我が身と言っても過言ではない。今という時間から未来形で誰もが被害に遭う可能性がある。


けれど、「虐待」というのは、大人にとっては「過去」の話しと捉えてしまう。それらの認識が社会に大きな問題を生み出している。

「虐待」=「子ども」=「児童であり18歳未満」


この違いは大きいと私は感じている。

(これが全てでもないし、これは私の主観です!)


性被害も虐待も、心に深い傷を負う。

両者ともトラウマになって、様々な症状が現れてもおかしくない。(個人差はあるが。)

中には命を絶つ人も少なくない。私自身、何度も自殺を考え、何度も自殺未遂を繰り返した。病院にも運ばれた。


「性被害・性暴力」と「虐待」は、私の中では「=」として考える必要性があると感じている。もうひとつ付け加えたい。

「いじめ」も「=」だと。


性被害者がいるということは、加害者が存在するということ。

いじめをする加害者がいるということ。

虐待をする加害者がいるということ。

すべてに「加害者がいる」。

加害者を生み出す社会の仕組みを知らずに問題解決は出来ない。

生まれた瞬間から「自分は加害者になろう!」と考えている赤ん坊はいないだろう…。

成長する過程において「加害者になるプロセスを歩んでいる。歩まなくてはならない人格形成の道もある」。

こういうと「甘い」と言われると思う。加害者になる前に「被害者」だったのかもしれない。何も理由もなく「殺害」する人はいるのだろうか?警察の取り調べによって「死刑になりたかったから」「復讐をしたかった」…何故、そういう考え方になったのか。どういう経緯を歩んできたのか…。

「甘い」「優しすぎる」そう言われたこともある。けど…、私は根本的に犯罪を無くしていきたい。犯罪のない社会を作ることは、どうして出来ないのだろうか。


そういうことも視野に入れると、家庭内虐待と性被害・性暴力、いじめ問題は無関係では、ない。

被害者をこれ以上生み出さないためにも、法律の改正も必要。それと同時に、「加害者の背景」とも見つめ合うことにもなる。被害者にとって、もの凄くエネルギーのいることだ。これにも周囲のサポートも必要になってくる。
今、私はカウンセリングを受けているけれど、カウンセラーとクライエントの関係が成立しているから、私はカウンセリング終了時のモヤモヤとした…疲れた…もう嫌だ…という感覚はあまりない。って、クライエントである私は勝手に思っている。
勿論、カウンセラーの腕もあると思うし、相性もあると思う。カウンセラーのセンスも必要だし、今の私が受けているカウンセラーは「本来、人が持ってるはずの人間という魂を持った人」なんだと思う。

そう自分で色々と考えている中で、「知りたい」という願望が出てくる。

そして、たどり着く先には「法律」という壁。

日本の法律だけではなく、アメリカの法律を学ぶことも重要となってくる。

アメリカでは、性被害も虐待も「加害者に対しての処罰は日本と比較すると、かなり重罪」だ。「いじめ」に対してもシビアだ。

アメリカだけの法律を学ぶのではなく、犯罪をなくすために行われている「支援や援助」を知り、我が国に対して「解決策」も考えていく必要がある。アメリカの場合は州毎に異なり、「良いケース」が出た場合は拍手を送るという賞賛があり、「良いことは自分たちも取り入れて、そこから自分たちでも更に良いアイディアを出していこう。よりよいシステムを作っていこう。根本的な要因を無くしていこう。」という考え方がある。まず、「受け止める」のではなく「受け入れる」この違いがある。



しかし、私は「私の声」ではなく、

「加害者を作り出さない」…そうすることで必然と「被害者が生まれない。」



そして、被害に受けて今でも苦しんでいる人のために

「犯罪被害者支援法」の見直し、改正。

そして、社会から取り残された「虐待サバイバー」を、

「行政の領域」「民間の領域」「立法の領域」

様々な領域からの支援が必要だと声をあげたい。これは虐待だけではなく、性被害・性暴力にも同じことは言えるのだが、

「過去に虐待を受けた人」の支援や援助、サポートしていく横の繋がりすらない。
性被害・性暴力に関してもまだまだ年齢別の問題や課題点はある。


しかし、「虐待を受けた育った大人」に寄り添う機関もない。

一時保護された児童は児童期を超えても受けられる支援はある。

支援を受けることなく、自立して社会に出ていく人もいる。


でも、一度も保護されなかった人の方が多いのが事実。

そして、「虐待」を受けていたということにも気付かずに、大人になってから何処かで躓いてしまう。


加害者が時々テレビに出ていることがある。
「罪を犯したけど、心を入れ替えて、働こうと思って。働く先も見つかって…」という話しだ。


これらは私たちにとって深刻な「二次被害」だ。

罪を犯した人も、更生するのは当然必要だ。
しかし、被害者側からはどう見えているのだろうか。働きたくても働けない。心身共に影響が出る。心の傷となり、PTSD。また、長期的に受けた傷は複雑となる。
複雑性PTSDという言葉は、最近テレビでも報道されたからご存知の方も多いかと思う。

しかし、複雑性PTSDは…
知りたい方は専門家の意見を聞いたりしてほしい。私が語る程、浅いものではない。

「児童虐待被害者支援法」

これは私たち虐待サバイバーだけでは作れない。

専門的な知識をもった専門職の力も必要。弁護士や精神科医の力、カウンセラーの力、そしてそれ以外の方の力も必要となってくる。


しかし、一番大切なのは「当事者の声」

当事者なしにこの法をおしたところで、更に当事者の心に傷を付けてしまう恐れがある。改正を何度も繰り返すケースもあるのも知っている。

「当事者なし」は私は反対であることをここで述べます。なんでか分からない方は、是非とも性被害・性暴力で声をあげておられる団体を調べてみてほしい。


2000年に児童虐待防止法はできたものの、大人の虐待サバイバーを支援する法律はこの国「日本」には存在しない。そういう状況の中、「頑張れ!」そう言われても何をどう頑張ればいいのだ…。生きてるだけで、呼吸するだけでも虐待サバイバーにとって…精一杯だ。

隣の国では「風邪をひいただけだからカウンセリングにいく!」と言うじゃないか…。日本だと「病院へ行く」。日本は平和だという人もいるけれど、蓋を開けてみると…問題を無視してきたのではないだろうか…。また、無視するどころか「そういった問題があるということを知らない」。

政治家はどうなのだろうか…。美味しいものを食べて、良い大学を出て、裏ではお金のやりとりをし、どうなのだろうか…。今回のコロナからも色々と日本の政治問題は若年層にも広まったのではないだろうか…。


必要な支援は何なのか…。当事者の声を聴きながら、専門職の方と一緒に、虐待サバイバーを支援していく「児童虐待被害者支援法」を作っていきたい。

保険適用外のカウンセリングが保険適用されるとか…。

お金と時間に余裕がある人だけが受けられる支援は何か…いや、全然違うと思う。

これらは何か専門書を読む前の私の知識と見解である。これから学んでいくことで、何が必要か、もっと見えてくることがあると思う。


目の前に積まれた本は、「犯罪被害者支援」「児童虐待を生き延びた人々の治療」「子育て支援と心理臨床」「法と裁判」「子どもの性虐待」「子どもの虐待防止」「法的実務マニュアル」「家庭福祉論」「児童の非行問題」「少年法」「犯罪被害者白書」「貧困問題」「児童・家庭福祉制度」「虐待防止マニュアル」「低所得者に対する支援と生活保護制度」「児童相談所の課題」「トラウマ」「複雑性PTSD」「心理的トラウマの理解とケア」「性暴力の実態」「サバイバーズハンドブック」「ジェンダー問題」「スクールカウンセラー」「スクールソーシャルワーク」…これらはその積まれ本の一部だ。

積み重なった本を私はこれから読んでいく。そして、当事者が書いた本。

私は過去に大切にしていた本を母親に目の前で破られた経験もある。捨てられた経験もある。静かに本を読んでいただけなのに足を踏まれたりしたこともある。これらの経験で…。「はやく…読まないと…」って、必死でスピードを幼い頃からあげてきた。私はそんなに速くはないが、速く読むことができる。…これらの本を理解しながら読んでいく…。


それと同時に大事なのは、やはり現場にいる方の声。本だけで現場の声が分かるとは私は思っていない。時間がある限り、私は足を運びたい。リアルな声を聴きたい。現場に足を運ぶ私に対しては冷たい言葉を言ってもかまわない。しかし、他の虐待サバイバーの方には絶対に言ってはほしくない言葉や振る舞いは沢山ある。現場に足を運ぶ私には構わない。だけど、誰が見るか分からないSNS上で言うのは…やめて下さい。これは、心からのお願いです。


どうか、児童虐待防止に力を入れている方はもう一度考えて頂きたい。

性被害・性暴力被害者の支援を行っている方にも、もう一度考える時間を作って頂きたい。

いじめ問題について考えている方、行動されいる方も、一緒に考えて頂きたい。

たまたまこのブログにたどり着いたあなたにも、一緒に考えて頂きたい。

「私たち、虐待サバイバーの存在を。私たちは何のために声をあげているのか。」

その「本質」を見抜いてほしい。

そして、手と手を取り合って、愛のある社会へ。

すべては地球上に住む人みんなの笑顔のために。


日本という国が変わることで、助かる国もあるということ。歴史的にも日本人は他国へ援助し、「日本はいい国だ。憧れる!」という国も存在する。

アメリカの法律を学ぶことで、これでは駄目だ…という実態を知ること、そしてよりよい社会をつくる為に、行動するということ。


負の連鎖を止めるために、私は動く。


性被害当事者・虐待当事者でもある私も、身体はひとつ。私がもし、倒れてしまった時のために「児童虐待当事者Voice」のスタッフをつけている。育成もしている。

また、副代表となる方とは毎日のように意見を交わしている。

児童虐待当事者Voiceというのは、「窓口として」スタッフをおいているが、

虐待サバイバー、子ども、大人、社会、すべてにスポットライトをおいている。

代表である私が主役ではない。(代表、誰かやって!かわって!と笑って言ってる人)

主役は、この地球に住む全員なのだ。


なんだか…書き方的に…上から目線になっているとは思います。申し訳ない…そう思っています。ごめんなさい!!!

これを機に、一緒に考えていき、

社会から見放された被害者たちを、どうか受け入れてほしい。

個人の力では限界があります。各都道府県毎に立ち上がる必要もあります。

繰り返しにはなりますが、当事者だけでは出来ない壁が沢山あります。乗り越えられない壁があります。

専門職の方の力が、必要となります。

私の命はいつまでなのか…私にも分かりません。寿命なんて分かりません。だけど、生きているうちにこの問題を解決したい。

・・・子どもの笑顔。すっごく可愛い。

虐待サバイバーの皆さん、たくさんつらいこと…ありますよね。頑張ろうと思ってもフラッシュバックすること…ありますよね…。

涙も流れないこともありますよね…。生きている意味すら分からない、自分ってなんなのか…。すっごく今まで頑張ってこられた!って、私は思っています。

もしかすると、私のことを羨む方もおられると思います。

言い訳になるかなぁ…、どうなんだろう…。私もありとあらゆる自分の状態…、まだまだ頭を抱えて、でも抱えるだけじゃ意味がないことも私にはあって…あぁ…このまま死ねたらどれだけ楽なんだろ…って思う時もあります。眠れない夜もあります。食事をとることを忘れる時もあります。

仕事できるだけいいじゃん…すっごく気持ち分かります。私もずっと他人に対して、そう思ってきたから…。働けるならちゃんとした職にも就けたと思う。けど…実際、自分にできることは…ほんの僅か。ただ私は、今の仕事と出会い、賛同して、自分に出来ることをしていこう!そんな感じです。

外に出たくない日もあります。逆に家から飛び出したくなる日もあります。


虐待サバイバーだけではなく、様々な困難にぶつかってきた方。ぶつかっている方。私は…まだ、あなたの心を知らない。聴いたこともないかもしれない。

けど、こんな考え方はだめですか…?

例え繋がっていなくても、同じ地球上に、同じ時刻に生きている。

ありがとう!



この文章を打っている最中、とあるところから電話が掛かってきた。

「予定が出来たので、日程変更してもいいですか?」

その電話は、私の現状に歩み寄ってくれているとある大きな民間の電話だ。

私はこう思った。「どうですか?元気ですか?」まずは、そこなんじゃないかなぁ?その言葉は全く無かった。

私は感じる。上辺だけの支援や援助はやめてくれ…。


私を虐待家族から18歳の時に手を差し伸べてくれたジャーナリストは、もう居ない。
けれど、彼女の家には沢山の本があった。
天井から足元までズラーッと。これ…本当に読んだの?と尋ねたこともある。

彼女は亡くなる前、虐待についても調べていた。
そして、自分の為にもアメリカへと渡った。

そして、日本で…癌を患って亡くなった。

私はきっと、あなたが学んでいたことをこれから学ぶのだろう…

こうして

私は、また学ぶことを再開した。


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