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ランボオの詩を読む✧♡

 以前、上の記事に書いたように、ランボオの顔は気に入ったが、詩を、すべて読んだことが無いので、一度、ちゃんと読んでみようと思っていた。

 先日、全集の本を図書館で借りた。
 かなりなページ数の本で、一応、詩はすべて目を通し、後半の書簡集は、商売の事だったので、嫌になり、ナナメ飛ばし読みをした。
 先日、ついに読み切ったのであった。

 読んだ結果、あまり、共感しない詩集であった。

 理由はいくつかある。

 国が違う。フランスの詩人。
 時代が違う。1880年ごろの人の言葉で、他の国だからなんのことやら?と思わないでもない。
 詩人の年齢と私の年齢が違う。
 詩人は20歳には詩をやめている。それ以前に書いた詩。
 私は20歳を3回は生きているw。

 まあ、でも、異国の150年前の18、19歳の書いた詩だと考えると凄いのかもしれない。
 この本を読む前に寺山修司の「われに五月を」という詩集を読んでいたけれども、有名な短歌が、やはりこの20代前みたいな時期に詠まれているのは、凄いと思って読んでいた。
 でも、今の自分が興味があるかって言うと、寺山も、ランボオにも、興味は無いかもと思う。

 やはり彼らのこの詩集には17歳とかで出会って、なんかわかんないけどすげえとか思っておくべきな気がした。

 自分が昔、ちら、と読んだ記憶があるランボオ詩集の訳ともちょっと違っていて、前の詩集の訳が好きだった。
 前に読んだのは誰の訳だったんだろう?

 おぼろげな記憶で書いてみると。

前の詩集「 17歳、うっとりするね 」

今の詩集「 17歳ともなればまじめくさっちゃいられません。」

前の詩集「 君って嫌味な奴だとさ 」

今の詩集「 悪趣味なやつなのだ、きみは 」

前の詩集「 ぼくは夏の黎明を抱きしめた 」

今の詩集「 ぼくは夏のあけぼのを抱きしめた 」

 なんだろうな~、圧倒的に、記憶による前の詩集の訳の方が好きなのだ。
 前の詩集が洒落て、リズムがいいとすれば、今の詩集はマジメで、私がテンポにつまづく。ってことは、訳されたこの本全体が、もしかしたら好きじゃなかった可能性があるな。

 ランボオの顔は好きだけど。
 詩は別に好きって言うほどではなかったのが残念だ。

 地獄の季節以降が、私にはオモシロかった。読んでいる時におおっと思ったフレーズがあって、それを捜しているけれど、なかなか見つからない。
 でも、その、自分が、ぎょっとしたフレーズが17、8の少年に言われた話なのであれば、やはり、彼はかなり、別格だ。

 昔、ある高校で、同僚が、尾崎豊の歌を生徒に聞かせていた授業があった。自分がそのクラスの生徒だったら、何も感じないだろうと思っていた。尾崎豊では、何も感じない。

 自分が、時々、おお!と思ったのは、
 やはりランボオだったからかもしれない。
 20歳を3回生きていても、
 君、そんなフレーズを書くかい?と思ったのは、
 やはりランボオだったからかもしれない。

 心にひっかかったところを抜き出してみよう。

「地獄の季節」
   錯乱Ⅰ
   狂乱の乙女
   地獄の夫
 地獄の道連れの告白を聞こう、(中略)
 あの方は申します、ー「僕は女なんか愛さないね。知ってのとおり、愛とは新たに創造すべきものなんだ。女は今では安定した暮らしを手に入れたがるのが関の山さ。そういう暮らしをものにすると、心だの美だのってのは、そっちのけ、残るのは冷やかな侮蔑というやつで、これがきょう日の結婚の糧になっている。もっとも僕だったら、女を幸福の徴(しるし)として、よき仲間にすることができるんだけどな。ところがそんなのに限って、まっさきに焼けぼっくいみたいに燃えつきやすいけだものどもに、ぽりぽりかじられちまうのさ……」
 汚辱を栄光に、残酷を魅惑に変える、あの方の話にわたしは聞き入ります、(後略)

 読んでいて、この狂乱の乙女が語る地獄の夫の話が面白かった。それはランボオが他人の目を借りて、自分の事を語ったみたいなところが、面白かった。地獄の夫に従い、翻弄される乙女の告白が終わった後に、突然、

笑止なカップルだね!

 という一言で、この詩は終わる。
 ランボオかっこよすぎない?
 そしてついに見つけた。
 何が?永遠が・・・

  戦争

 子どもの頃、ある種の空が僕の視力をみがいてくれた。あらゆる性格が僕の容貌にニュアンスをつけた。《現象》は揺れ動いた。ー今や、瞬間の永遠の屈折、数学の無限が、この世界のいたるところへ僕を狩りたてる。僕があらゆる市民的成功を享受し、奇妙な少年時代と大いなる愛のゆえに尊敬を勝ち得たこの世界へと、ー僕は一つの《戦争》、権利と力、予見しえない論理の戦争を夢見ている。
 これは音楽の一節と同じように単純だ。

 あらゆる性格が僕の容貌にニュアンスをつけた。

こんな表情の17、8の少年は見たことが無い

 この言葉をゲットできて、私は嬉しい。

 最後に、印象的だったのは、人生の前半で、「ぼくは金利生活者になるんだ!」と言ったランボオが、詩を捨てた後の書簡集では、今の給料はいくらいくらだと、金の話ばかりしていることだ。

 家族への手紙ということもあるかもしれない。

 あの本を買ってくれ、ああしてくれ、こうしてくれと頼みごとが多い。自分がお金を出すこともあれば、建て替えてくれということもある。

 そして、自分が退屈で忌み嫌っていた故郷、そこを脱出したランボオが、皆の近況を楽しみにしているという文面を手紙に書いていた。1~2回なら嘘かな?と思うけれど、幾度となく書いていて、反対に自分の生活はいつも同じで言うべきことは無いと書いていた。
 自分がそこに戻りたくはないけれど、退屈な故郷の皆の動向は知りたいという心境に、あのランボオがなったのだなということが面白かった。

 皆さんのささやかな仕事がうまくいくことを願ってます。疲れないようにしてください。そんなのバカげてますからね!健康と生命がこの世のあらゆる下らないことどもより大事じゃないですか!安心してお暮しください。

1881年7月22日、ハラル、家族宛

 この文面の前後は頼み事だから、心にもないことを言っていたのかもしれない。手紙というのは私信であり、詩作とは違うから穏便なことを言っているのかもしれない。

 しかし、詩を書くのをやめたランボオの言葉を知れるのはこの手紙だけなのである。

 詩を読んで、スコシはランボオを知ることは出来たのかもしれない。
 
 ただ、もう一つ、宿題が残った。
 この人は相当な距離を歩く人だということ。

 なぜこんなに移動したの?









 


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