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夢のドア

いやぁ、しんどかった。
今年の5月、父とのやり取りをきっかけに、父と母に愛されたくて受け入れられたくて許されたい、そんな自分に気づいてしまった。

(↓3部作である…)

以来、絵を描こうとするとじんましんが出るようになって。
『これも人に愛されたくて、描いているのかな』とか思っちゃうとね。
レゾンデートル(存在意義)まで疑い出すと、心は闇(病む)。

あ、でも心を病む=葛藤している状態というのは、本人にとってはしんどいものではあるけど、生命体としてみると、とても健全なことらしいよ。
本当に不健全なのは、葛藤を「無かったことにしてしまう」ことだ。

というわけで、思う存分、葛藤したとも言える夏だった。
(モノは言いよう…)

愛されたい受け入れられたい許されたい、の解像度を上げろ

子どもは親に愛されたいと思うものだ。
そこに、私は女性として生きてきたので、『愛される』とか『選ばれる』とか、社会的な価値観も上乗せされてきただろう。

愛するとか愛されるとか、いまだによく分からないけど。
受け入れられたい、とか許されたい、というのは何だか0・100思考で受け身だなー、と感じるし、相手や自分自身と折衝しないの?とも思うようになっている。

折衝(せっしょう)とは、利害の一致しない相手と、問題の解決に向けて、話し合いなどの手段によって駆け引きすること。
双方が納得できるように互いの要求をすり合わせ、落とし所を探り、折り合いを付ける、そうした営みと解釈される。
Weblio辞書-実用日本語表現辞典より

まぁ、私と両親との間では、折衝ができなかったわけなんだけど…
だから相手の言い分を全て飲むしかない、ということでもなくてね。

人が成熟していくには、黙ってやり過ごす「楽」より、口に出して伝える「勇気」を実行することとか、自分の非を認めて己を修正するとか、自分を律する「行動」の繰り返ししかないんだと思う。

痛みと傷の記憶、
すさまじく後悔した記憶、
他人に傷つけられたり
見捨てられたりした記憶、
それらのすべてを胸に抱いて生きている人は、
より強く熱く柔軟になれて幸せを勝ち取れるのだ。

だから、忘れるな。
乗り越えろ。

無理なら魂が成長しないから、いつまでも子供だ。
悪夢を食べて育った少年ーNetflix『サイコだけど大丈夫』より

今日はそんなことにようやく気づけたよ、という話。


やさしい論争の終着点

私はずっと、自分の「外」との関わりに齟齬を感じてきたように思う。

断トツで感じるのは、『やさしい』と言われること。
やさしいやさしい、と言われ続けることにもう疲れるなんてもんじゃない、アレルギー反応を起こすようになっている私。

そういうモヤモヤを、このnoteの場を借りて言語化しようとしてきた。

傘ひとつ選ぶのに、やさしい印象の柄は避けるという徹底ぶり。

自分の絵を人に『やさしい』のひと言でくくられるのも嫌だし、自分から『私はやさしい絵を描きます!』というのも違和感がある。
(でも自己PRと自己プロデュースのためには、自分の絵を言語化する必要がある…)

それに、自分自身を『やさしい人』の中に閉じ込められるのも嫌。
(今は全くないけど、かつては相手の抱くやさしさ期待値を下回ると「あなたがそんなこと言うなんて」などと言われることが度々ありましてね)

それが、ある日ふと、思ったのだ。
あれ?「あやちゃんの絵ってやさしいね」って、言った本人からしたら

「あなたの絵を見ているとやさしい気持ちになる」

ってことか!と。

つまり、私が日々接している世界の言語〈日本語〉というのは、Iを前面に出さない文化だから、自分の感想を述べているつもりで、相手のことに言及することが多々あるってこと。

相手はほめているつもりかもしれない。

でもYouを主語にして伝えるのは、程度の強弱はあれど、つまるところは決めつけ(judgmental)でしかないよ、というのが私の持論だ。
そして、(Iで言ってくれたらいいのに)と願ってしまう。
だが願えども叶いはしないので、自分の内でちまちまと「変換」をしている。

「あなたってやさしい人だよね」は
「あなたといると、私はやさしい気持ちになる」
あるいは
「私はあなたにやさしい以外の側面があるなんて思いもしない(認めない)」
どっちかなんだと思う。

他にも…

「あなたって変わってるね」は
「私はそんなところに目を向けたことも無かった」
だし、

「あなたはすごく分かって欲しい人なんだね」は
「私には1ミリも理解できないけど、熱量は何となく伝わるよ!」
ってことかな、とか。

そうしないと、相手の発した言葉に閉じ込められてしまいそうで苦しいから。

分かっているんだよ。
人が何を、どう思うかまでコントロールできないって。

他人の口に戸は立てられません。それと同じように、他人の勘ちがいをいちいち咎め立てもできません。
井上ひさしー『四千万歩の男』より

私がやるべきは、そういう受け入れたくない言葉がやってきたときの、自分の態度を決めることなんだ。


回避というサバイバル術から、次の一手へ

けなされるならともかく、ほめても嫌がるってどういう事よ?という人もいるかもしれない。

厳密にいうと、私は相手の決めつけたがりを渡されるのが、心底嫌だということ。
だけど嫌って言うと、「神経質だ」「そんなに繊細だと、何も言えなくなって気を使う」「上手に返したり、スルーするのも処世術だ」とか言い返されて。

だから、そういう事態が最初から起こらないように、とにかく『回避』する傾向があったんだなぁ、と気づいた。

言う人はいいよなぁ、気持ちよく吐き出すだけ吐き出して。
ほんでこちらの言いたいことは、聞いてやしないのだ。
私はそんな人たちの、受け皿じゃないんだってば。

今思えば、そういう風通しのよくない関係性に陥りやすい時点で、そもそも相性が良くないのだから、お互い心地よく感じる地点まで距離をおけば良かった。

モラハラ対策カウンセラー、Joeさんの言葉を借りると、
「好かれなきゃいけない!」と思ってた相手が、実は単に「嫌われなければいいだけだった」ってことに気づけなかったから、事態はここまでこじれてしまったのだと思う。

私は他人の言葉が、怖いんだ

だから、私は本当は、人に対して自分を開示するのが怖い。
と思っていることに、気づいてしまったのだ…!

絵を志す者にとっては、コレ、致命的でねぇか。
じんましんは出るしよう…

と白目をむきかけたところで、あの方の言葉を引用しよう。

人の人生には、いくつもの“夢のドア”がある。

人は例えば、「宇宙へ行く」みたいな大きな夢を持った時、目の前に現れたバカでかいドアに萎縮して、向こう側へ行くことを諦めちまう。
「開けられるわけがない」ってな。

だが、ビビることはないんだよ。

本当ははじめから、そんな“バカでかいドア”なんてものはない。
小さなドアがいっぱいあるだけだ。

“成長のドア”、“発見のドア”、“勝利のドア”、“賞賛のドア”、
他にもいろいろ見つかるだろう。
そしてその小さなドアを開けるたび、君らの夢が1つずつ叶っていくのがわかるはずだ。

(中略)

手探りでも何でもいい。
意地でも次のドアに、手をのばし続けることだ。
小山宙哉―『宇宙兄弟 23巻』より

ブライアン・J…!(号泣)

私は今、『他人のジャッジが気になる』というドアを開けようとしているところなのかもしれない。

このドアを開けて、

あなたは私の描いたものを見て、どんな気持ちになるだろうか?
私の描いたものを見て、あなたの中にはどんな変化が起こった?
教えて。

ということを、問いかける姿勢に、勇気をもって変わろうとしているところだ。

ここを、一歩踏み出そうかな、と思ったのは、そもそもをそう考えるようになっていた、下敷きがあったからで…
私は義足のプロダンサー、大前光市さんのブログ(言語化)が表現についてとても考えさせられるし、大好きなんだけど、

特に刺さったこの記事。

絵も、自分の心が動いたとき、その感情を表すものだとしたら、絵を見せるというのは『感情の交流』を呼びかけるものでありたいな、と思う。

おまけ。
最近描いた絵!

結構落ち着いて、とても静かなところに心がいるなぁ。

ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!