夢のドア
いやぁ、しんどかった。
今年の5月、父とのやり取りをきっかけに、父と母に愛されたくて受け入れられたくて許されたい、そんな自分に気づいてしまった。
(↓3部作である…)
以来、絵を描こうとするとじんましんが出るようになって。
『これも人に愛されたくて、描いているのかな』とか思っちゃうとね。
レゾンデートル(存在意義)まで疑い出すと、心は闇(病む)。
あ、でも心を病む=葛藤している状態というのは、本人にとってはしんどいものではあるけど、生命体としてみると、とても健全なことらしいよ。
本当に不健全なのは、葛藤を「無かったことにしてしまう」ことだ。
というわけで、思う存分、葛藤したとも言える夏だった。
(モノは言いよう…)
愛されたい受け入れられたい許されたい、の解像度を上げろ
子どもは親に愛されたいと思うものだ。
そこに、私は女性として生きてきたので、『愛される』とか『選ばれる』とか、社会的な価値観も上乗せされてきただろう。
愛するとか愛されるとか、いまだによく分からないけど。
受け入れられたい、とか許されたい、というのは何だか0・100思考で受け身だなー、と感じるし、相手や自分自身と折衝しないの?とも思うようになっている。
まぁ、私と両親との間では、折衝ができなかったわけなんだけど…
だから相手の言い分を全て飲むしかない、ということでもなくてね。
人が成熟していくには、黙ってやり過ごす「楽」より、口に出して伝える「勇気」を実行することとか、自分の非を認めて己を修正するとか、自分を律する「行動」の繰り返ししかないんだと思う。
今日はそんなことにようやく気づけたよ、という話。
やさしい論争の終着点
私はずっと、自分の「外」との関わりに齟齬を感じてきたように思う。
断トツで感じるのは、『やさしい』と言われること。
やさしいやさしい、と言われ続けることにもう疲れるなんてもんじゃない、アレルギー反応を起こすようになっている私。
そういうモヤモヤを、このnoteの場を借りて言語化しようとしてきた。
傘ひとつ選ぶのに、やさしい印象の柄は避けるという徹底ぶり。
自分の絵を人に『やさしい』のひと言でくくられるのも嫌だし、自分から『私はやさしい絵を描きます!』というのも違和感がある。
(でも自己PRと自己プロデュースのためには、自分の絵を言語化する必要がある…)
それに、自分自身を『やさしい人』の中に閉じ込められるのも嫌。
(今は全くないけど、かつては相手の抱くやさしさ期待値を下回ると「あなたがそんなこと言うなんて」などと言われることが度々ありましてね)
それが、ある日ふと、思ったのだ。
あれ?「あやちゃんの絵ってやさしいね」って、言った本人からしたら
「あなたの絵を見ているとやさしい気持ちになる」
ってことか!と。
つまり、私が日々接している世界の言語〈日本語〉というのは、Iを前面に出さない文化だから、自分の感想を述べているつもりで、相手のことに言及することが多々あるってこと。
相手はほめているつもりかもしれない。
でもYouを主語にして伝えるのは、程度の強弱はあれど、つまるところは決めつけ(judgmental)でしかないよ、というのが私の持論だ。
そして、(Iで言ってくれたらいいのに)と願ってしまう。
だが願えども叶いはしないので、自分の内でちまちまと「変換」をしている。
「あなたってやさしい人だよね」は
「あなたといると、私はやさしい気持ちになる」
あるいは
「私はあなたにやさしい以外の側面があるなんて思いもしない(認めない)」
どっちかなんだと思う。
他にも…
「あなたって変わってるね」は
「私はそんなところに目を向けたことも無かった」
だし、
「あなたはすごく分かって欲しい人なんだね」は
「私には1ミリも理解できないけど、熱量は何となく伝わるよ!」
ってことかな、とか。
そうしないと、相手の発した言葉に閉じ込められてしまいそうで苦しいから。
分かっているんだよ。
人が何を、どう思うかまでコントロールできないって。
私がやるべきは、そういう受け入れたくない言葉がやってきたときの、自分の態度を決めることなんだ。
回避というサバイバル術から、次の一手へ
けなされるならともかく、ほめても嫌がるってどういう事よ?という人もいるかもしれない。
厳密にいうと、私は相手の決めつけたがりを渡されるのが、心底嫌だということ。
だけど嫌って言うと、「神経質だ」「そんなに繊細だと、何も言えなくなって気を使う」「上手に返したり、スルーするのも処世術だ」とか言い返されて。
だから、そういう事態が最初から起こらないように、とにかく『回避』する傾向があったんだなぁ、と気づいた。
言う人はいいよなぁ、気持ちよく吐き出すだけ吐き出して。
ほんでこちらの言いたいことは、聞いてやしないのだ。
私はそんな人たちの、受け皿じゃないんだってば。
今思えば、そういう風通しのよくない関係性に陥りやすい時点で、そもそも相性が良くないのだから、お互い心地よく感じる地点まで距離をおけば良かった。
モラハラ対策カウンセラー、Joeさんの言葉を借りると、
「好かれなきゃいけない!」と思ってた相手が、実は単に「嫌われなければいいだけだった」ってことに気づけなかったから、事態はここまでこじれてしまったのだと思う。
私は他人の言葉が、怖いんだ
だから、私は本当は、人に対して自分を開示するのが怖い。
と思っていることに、気づいてしまったのだ…!
絵を志す者にとっては、コレ、致命的でねぇか。
じんましんは出るしよう…
と白目をむきかけたところで、あの方の言葉を引用しよう。
ブライアン・J…!(号泣)
私は今、『他人のジャッジが気になる』というドアを開けようとしているところなのかもしれない。
このドアを開けて、
あなたは私の描いたものを見て、どんな気持ちになるだろうか?
私の描いたものを見て、あなたの中にはどんな変化が起こった?
教えて。
ということを、問いかける姿勢に、勇気をもって変わろうとしているところだ。
ここを、一歩踏み出そうかな、と思ったのは、そもそもをそう考えるようになっていた、下敷きがあったからで…
私は義足のプロダンサー、大前光市さんのブログ(言語化)が表現についてとても考えさせられるし、大好きなんだけど、
特に刺さったこの記事。
絵も、自分の心が動いたとき、その感情を表すものだとしたら、絵を見せるというのは『感情の交流』を呼びかけるものでありたいな、と思う。
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おまけ。
最近描いた絵!
結構落ち着いて、とても静かなところに心がいるなぁ。
ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!