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ピカソと武者小路実篤 実篤先生との備忘録

父は若い頃から美術に興味があり、独学で勉強する傍ら沢山の芸術家と親交があり、若い芸術家(の卵)を支援しておりました。
武者小路実篤先生とは、私が生まれる前から父がお付き合いさせて頂いており、亡き父の後も今なお三代に渡る家族ぐるみのお付き合いが続いております。

実篤先生は、私が小さい時の思い出だけですので、覚えている事も限られておりますが、その風格やお人柄ははっきり覚えています。
いつも黒っぽい着物を着て、穏やかで優しい方でした。お孫さんが学校の宿題で困っていると、教科書の初めから丹念に観られて何時間掛かっても解いていく、そんな方でした。

侘助の絵
娘がピアノを始めた、と父が先生にお話した所一枚の絵をくださりました。一輪の侘助の花に「天與の花を咲かせる喜び」と書かれた小さな絵でした。暫くは意味も分からず自分の部屋に飾っておりましたが、年と共にその意味がわかってくると、実篤先生のお気持ちが分かり大変励みとなり今日に至ります。

侘助の絵

小さい頃の思い出として、実篤先生の息子さんやお孫さんも我が家に来ては、母の田舎料理(田舎出身)とお酒で、酔っ払って父と色々な話を楽しそうにして居た光景を毎週の様にみておりました。

私は小学校低学年の頃から桐朋音楽大学付属にお世話になっており、実篤先生は調布市 仙川の桐朋の学校のすぐ裏にお住まいでしたから、しょっちゅう遊びに行っておりました。今は記念館としてお孫さんが管理してらっしゃいます。

生前のお住まい
生前のお住まい 書斎

さて、タイトルにあるピカソとの接点ですが、実篤先生は1936 年ベルリンオリンピック特派員として、そして美術鑑賞のため渡欧・渡米(当時は船で)いたしました。
パリで何人かの画家に会いましたが、そのうちの一人がピカソでした。実篤先生は、ピカソのある一枚の絵に大変興味を持たれ大変感激した所、それを知ったピカソはその絵を直接プレゼントして下さったそうです。

ミノトーロマシー (エッチング)
争闘と平和、暴力と聖性がテーマ
ピカソからの献呈サイン入りで、実篤先生は直接日本へ持ち帰りました。
ピカソはそんなに簡単に自分の作品を他人に手放すことは無いはずですが余程気に入られたのでしょう。
ロダンから贈られたブロンズ数点は日本へ別送したそうです。
この話はご家族から聞いた話ですが、記念館にも資料は色々ある様です。

調布にある武者小路実篤記念館

生前、武者小路実篤先生の仙川のご自宅に飾ってあり、遊びにいった際には私も良く目にしておりました。
死後、オリジナルは東京都現代美術館に寄贈されました。

余談ですが・・・
昔ゴッホがまだ日本で知られて居ない頃、ゴッホを是非日本の人達に見て欲しいと、ゴッホの(ひまわりの)絵を日本に持ってこられた第一人者でもあります。残念ながら戦災で焼失してまいました。

人間の本心に触れ得る者は又自分の本心である…(「一人の男」より)

武者小路実篤記念館

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