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あらためて、発達障害について考えている


昨年、里山に江戸時代から建つ古民家を購入したのをきっかけに、ドリル音が苦手で釘も打ったことのなかった私でしたが、いまやツナギを着てせっせとDIYに励んでいる日々です。
が、実は私、長らく特別支援教育に携わってきて、発達障害についてとても詳しい一面もあります。
そもそも古民家を買ったのも、個性豊かな子どもたちと面白い大人たちとを出会わせて、多様な価値観に触れられる、そんな場所を作りたい、と考えたからなのでした。そうでした。

私自身も興味があることに一点集中&突破するタイプでありまして、発達障害についてオタク的に調べ尽くしました。さまざまな資料を読み込み、はるばる東京へWISC-Ⅳの検査資格も取りに行きました。
結果、発達障害を持つひとに必要なのは周囲の理解と、プラス面に注目して育てる視点!と結論を出し、講座でお伝えしています。

年内の目標であった古民家DIY作業のあらかたを終え、まだやりたい箇所もあるもののほっと一息ついていた最近、気持ちの余裕が出てきたからでしょうか、またしても発達障害をもつ子どもたちへの配慮について考えさせられる事例を見聞きしています。

①ASDの子ども@通常学級が辛い


ASDをもつと思われる子どもさんが通常学級におり、関わっている先生は薄々そうとは気づいているものの、おうちの方は全く気づいてらっしゃらないというケースを教師の友達から聞きました。
ASDはその特性から相互のコミュニケーションが苦手なわけですが、年頃になり、他の子どもたちが普通にするように相手に上手に話しかけたり、なんてことない会話のやりとりについていけない自分にすごく困っている。関わりたいあまりに友達に気づいてもらうまで見つめ続けたり、後ろに立ち続けたりとつい一方的に関わってしまうのですが、嫌がられるのが理解できずますます孤立する。

そんなケースをお聞きして、そうだった、これがASDグレーゾーンの子どもの生きづらさだなぁとさまざま思い起こし、古民家のDIYオンリーだったアタマから発達障害をもつ子どもたちの力になりたい!アタマへとスイッチが入りました。
特別支援学級を勧められるほど特性が強いわけでもなく、むしろおとなしいのですが、本人の中では困り感だらけ。なのに通常学級にいる以上手を差し伸べてくれる人はいないわけです。こういうお子さんの場合、いろんなことがうまくいかないのはすべて自分のせいだと思い込み、自信喪失したまま大きくなります。
学校の先生は気づいているんだから、親に伝えれば、と思うかもしれませんが、その子に問題行動やまたは心身面の健康不安があるのでない限り、学校から「専門機関へ相談」を勧めることはありえません。保護者が子どもの様子を心配して学校へ相談するのであれば別ですが、保護者が我が子に発達障害があると考えてもいないのに「お子さんはもしかして発達障害ではないですか」と言ったところで返ってくるのは強い拒絶反応です。担任との仲にも亀裂が入ります。そんなリスクをおかしてまで火中の栗を拾うような教師はいません。でも、こうしておとなしいASDの子どもさんは見過ごされていくんですね。

②社会人になったASDへの無理解が辛い

そんなこんな考えながら、大好きなモスバーガーへ行ったところ、近くに座っていたのは中年女性3人組。私と娘とをみて、一瞬声を潜めたものの、すぐにまた話は盛り上がります。内容はあきらかに悪口。それも、職場の同僚への悪口。
席を立とうかな、とも思ったのですが、娘は全く気にしていなかったので、この際耳をダンボにして聞き続け、職種を特定してみようと思いました。なぜかというと、同僚への文句の中にも、なぜかたくさんお野菜の話が出続けていて、なんのお仕事なのか特定できなかったからなんですね。スーパーの店員さんなのか、それともカフェの店員さんなのか、知りたい。どっち?でも見た感じどっちでもなさそう。

そんな彼女たちが口々にまくしたてていた同僚さんへの困り事は
①説明しても理解していない
②理解したと感じるまでが長くかかる
③言ったはずなのにまた聞いてくる
④ミスが多い
⑤ミスしたという報告もない。
要約すると以上の5点でした。
(みなさん、その同僚の方、どうも発達障害特性があるみたいですよー)と私は心の中で話しかけました。

いかにこの同僚さんに手がかかって大変かを口々に話している中に、「黙ってられないよ、保護者の目もあるんだからさ」の一言が出てきたのです。保護者❓私の耳はますますダンボに。保護者というワードを使うのは教育関係と相場が決まってます。
どうもこの方々は保育士さんのようでした。野菜の話は商品でもカフェメニューでもなく、保育園の給食の話だったようです。
しかしまあ、保育士さんなら、発達障害について知らないわけがありません。なのに、子どもと大人とは別と考えているのか、またはそもそも同僚にその特性があてはまるかもしれないとはみじんも考えていないようでした。
①から⑤までの行動のすべてに、発達障害の特性があるのかもしれないと気づけば、指示は口頭ではなく紙面で伝えるとか、ミスしそうなところは必ず一緒に確認するとか、いろんなフォローが可能だと思うのですが…
大人になったASDさん(たぶん)の社会参加の厳しさを思わされた出来事でした。

③せちがらい世の中ではありますが

特性のある子どもさんが診断名のあるなしにかかわらず適切なフォローを受けられるようであってほしい。たとえば①の例であれば、その子が関わりたい相手の名前を呼んで、気持ちよく関われるように、一緒に練習し、励ます大人が必要です。というか今すぐ私がその学校に行って一緒に練習したい。通常学級にいるタイプのASDさんなら、一回「パターン」としてやり方がその子に入ればできるものです。

②の例で言えば、そもそも臨機応変さが必要な教育現場(幼小は特に大変です。大学教授など、授業のみ担当するなら「臨機応変さが求められる瞬間」「相互のやり取り」二つの要素が減るので別)にASDの方は向かないわけで、職業選択を間違えないようにするためにも、早期の自己理解は必要だと思います。
つまり、ASDであれば、臨機応変な仕事ではなくて、毎日決まったルーティンの中で最大の効果が出せるタイプの仕事がいいわけです。
だけど、だからといってあなたにはこの仕事は無理、一緒に働きたくないわ、と職場の仲間から排除していいわけじゃないんです、決して。
しかし保育園の現場でもこの様子なら、一体どうすると大人のASDが働きやすくなるのかなー、なんて考えながら帰路についたことでした。
この2つの出来事から、私が本来メインとするべきテーマはやっぱりこちらなんだな、と気づきました。生まれ持った特性により生きづらさを抱える子どもや大人へ手を差し伸べ続けていきたいのです。

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