長袖の嗚咽《創作小説》


 ――彼は、いつも長袖の服を着ていた。

 寒い冬は勿論、暖かく麗らかな春の日も、うだるような暑さの夏の日も、残暑厳しい秋の日も。
 ひょろりと背が高く、折れそうなほど線が細く、不健康に青白い肌を持つ彼は、いつだって長袖を着ていた。

「ただ着たいから、着てるだけだよ」

「だって、そうしないと泣いちゃうからね」

 それは、彼がいつかに笑って言ったこと。
 ――寂しそうに、口ずさんだ言葉だった。


    §



 クラスメイトの彼と初めてまともに話したのは、高校一年生の夏休みのことだった。

 私の地元。ある片田舎の港町。
 外に出れば海風と砂浜の、そして防砂林として植えられた黒松の匂いを感じれるような場所。
 私は街に立ち込めるそんな匂いがあまり好きでなかったけれど、砂浜の、もっと言えば夏の浜辺の匂いだけは好きだった。正確に言うなら、浜辺の雰囲気が妙に気に入っていた。
 朝、まだ人々が活動してないような時間の、仄暗く、どこか静謐な感じだとか、昼の天高い日に灼かれた砂の匂いだとか。あるいは、夕暮れにうら寂しく響く波の音だとかだとか、夜にある、蒸し暑さと昼間の熱気とが混じった空気だとか。
 そんなものが、不思議と好きだった。
 だから海の匂いはそんな好きではないというのに、夏にはよく一人で浜辺に出かけることが多かった。
 泳ぐでもなし、ただ眺めるだけ、歩くだけではあったけれど。
 そんな時に、私は出会ったのだ。――長袖の彼と。
 夏の盛り。真昼の砂浜へと降りる階段で。


    §



 「……やぁ」

 これが私を見て、彼が初めに言った言葉。
 詳しく言えば、彼が私を目にし、顔を背け、もう一度私の方を向き、私とばっちり目があって会釈をし、それでももう一度そっぽを向いてうんうん唸ってから気まずそうに向き直って投げかけてきた言葉だった。
 ……描写が無駄に長くなったが、これは彼が悪いのではない。というのも、彼は私に睨まれたと感じたであろうからだ。当人からしたら何の因縁だと思っただろう。
 いや、私としてはもちろん睨んでいたつもりはない。
 私は目が悪く、歩く先に座っていた人が誰か確かめようと目を細めただけなのだ。
 しかし、たまたまメガネを外していたために、際立って強く目元を歪めてしまっていた。
 不幸だったのは私の顔立ちが割合にきついもので、それを眇めたがために殊更目つきが悪く見えたことであろう。というかそうであって欲しい。不運が重なって迫力があった、ということにしてくれないと辛い……。
 巡り合わせの悪さから変に心理的圧迫を与える奇妙な挨拶となってしまったが、彼は意外にも語を継いでくれた。

「えっと……。橘さん、だよね。久し、ぶり?」

 途切れ途切れだが言葉自体は実に平凡。だからこそ気を使われているということがありありとしていて、どこか可笑しい。
 苦笑しながら彼の隣に腰を下ろす。なんとなく、話をしたい気分。

「うん、久しぶり。……さっきはごめんね。いやほら、わたし目が悪くてね? 睨んでたつもりじゃないんだよ?」

 言い訳がましいと思いながらも、そう告げる。

「はは、なら良かった。僕、何かやらかしたのかと思ったよ。いやいや、うん、ね?」

 優しい言葉の理由がクラスメイトへの気遣いではなく、恐怖によるものだったと判明。だって彼震えてるもの。目を合わせてくれないもの。
 悲しみの海に溺れる。
 いやいや、気を取り直して。

「あはは……。ほんとに睨んでたわけじゃないから。ほんとだよ?」

 本当に怖かった訳ではないのだろう。それを示すように彼はしらっと震えるのを辞めて微笑んだ。意外とノリがいいらしい。

「うん、大丈夫大丈夫」

 前言撤回。自分に言い聞かせる風味が強すぎる。
 ……それはともかくとして。

「ところで、どうしてここに?」

 続けざまに問われたのは、そんな当たり障りないこと。

「散歩だよ。別に泳ぎはしないけどね。そっちは?」
「んー。僕もそんな感じかな。気分転換とか、そんな感じ」
「なんか変な言い方だねぇ」
「そうかな?」
「そうだよ」

 そうやって他愛ないことを話す中、ふと気になったことを尋ねる。

「話は変わるんだけどさ、坂口くん、何で長袖なの?暑くない?」

 そう、彼はこの夏の暑さの中、決して薄手とはいえないシャツを一枚羽織っているのだ。日の光に弱いのだろうか?
 記憶を辿れば、彼は夏休み前も長袖のワイシャツを着ていたように思える。そんな生徒は一定数いたけど、その大半が袖を捲っていて、常に全部を伸ばしていたのは彼ぐらいだった筈だ。
 とはいっても彼はクラスの中で目立たない生徒だったからそう気にしてはいなかったし、正直なところ記憶は怪しいものだが。

「そりゃ勿論暑いよ。ただなんというかそれを気にしていないというか、気にしてもいられないというか。っと、そうじゃなくて。……んー、まぁ、趣味、かな」
「なにそのあやふやな言い方。学校でも長袖オンリーだったけど、日にでも弱いの?」
「うーん、そんな感じ」
「えぇ、嘘臭ぁ」
「いや、日差しに弱いのは実際そうだよ。それで水泳の授業にも出なかったしね。正確に言うなら、肌が弱いんだけど」

 そんな重度ではないけど日光湿疹とか日光アレルギーって奴なんだ、と続ける。
 ああ、それだ。
 目立たない彼に長袖をいつも着ていること、そして陽に弱いというイメージを持ったのはプールの授業だ。先生がそう言って見学の理由を説明していたと思う。

「そうならなんでそこまで言い澱んだのさ」
「……笑わない?」
「場合による」
「そこは確約しようよ……」

 苦り切った顔でかぶりを振ると、するりと言葉を続けた。

「や、単純な話なんだけど、男なのに、とか言われたりするのが嫌なんだ。あと、僕は日に焼けないから、年中青白いままでしょ? 細いのも相俟って『えのき茸』なんて嫌なあだ名で呼ばれたりしてたのさ。……幼稚な話なんだけどね」

 顔をしかめながら付け足す。

「だから、まぁ、この体質で良かった記憶はあまりなかったから、ちょっと、ね」

 案外、そういうことを気にする性質らしい。だけれど、はにかみながらそう言う彼は、どこか胡散臭かった。
 しかし、追求することでもない。なにより悪いことを訊いた気がした。

「なんだ、その、ごめん。気に障ったなら謝るよ」
「いやいや、別にいいよ。普通は気になるものだろうしね。あんまり気にしてないから」

 彼の微笑みは、やっぱりちょっとぎこちなくて。
 そんな様子に口が重たくなれば、わたわたと手を振って気遣ってくる。その様子に負けて吹き出せば、彼も安心したように小さく笑った。
 その後、なんてないことを二、三話してからその場から去った。

 ――ただ、別れ際の彼との会話がとても印象に残っている。

「長袖を着ている理由ね、あれ半分ホントで半分ウソ」
「ただ着たいから、着てるだけだよ」
「引かないでほしいんだけどね。俺、暑くて汗が出るの割と好きなんだよ」

 何を話すかと思えば、一転して随分変な話だ。

「……意外に脳筋思考? それともマゾ?」
「掠ってなくはないけど、そうじゃないよ」

 彼はちょっと目を見開いた後、苦笑しながら言う。

「あんまり外に触れられないから、そういう外の変化にあわせた体の変化っていえばいいのかな、そんなのが嫌いじゃないんだ。
 ……なんていえばいいのかな。汗を掻いたこと一つとっても、普通に暮らせてるって実感出来るんだよ」

 なんとなく納得。というより理解できる話までスケールが降りてきた。
 私に実感出来る類の話ではないが、詰まるところ、あんまり大切に扱わなくてはならない体だから――いうなれば刺激が少なくて――故に、それを求めているのだろう。
 あるいはそんな体だから人よりも感覚が鋭敏なのか。そういうことかと尋ねれば、「だいたいそんな感じ」と、返ってくる。
 まぁ、それで良いのだろう。

 しかし、ひたすらに意味深な言葉もあった。
 本当の別れ際。挨拶も済ませ、私が背を向け歩き出した時。
 彼はぼそっとこう言ったのだ。


「だって、そうしないと泣いちゃうからね」



    §



 夏は終わり、無事に二学期へ突入、しかし彼は変わらず長袖だった。
 春夏秋冬、いつも長袖であった。そうやって、教室の片隅でひっそりと過ごしていた。
 それは二年になっても同じこと。
 一年の夏を境に私たちは話すことも増えたが、しかし彼の立ち位置は変わらなかったし、彼について何か分かったこともなかった。
 今思い返しても彼と突っ込んだ話をしたのは、あの夏の、あの時だけだったと思う。
 だからだろう。
 漫然と過ごして、彼が数日学校に来てないと意識したのは二年の冬。年の瀬を目前に控えた終業式の頃。
 彼が数日学校を休み、そのまま冬休みを迎えた。
 私は運がいいのか悪いのか分からない時期に風邪を引いたのだな、というくらいにしか捉えていなかった。

 そんな私に年明けに告げられたのは、彼の急な転校。
 しかも、既に終わっていたこと。

 あまりにも、唐突に感じられた出来事だった。


    §



 家庭環境が悪化し、それを見るに見かねた親戚に引き取られたのが理由だそうだ。
 どうやら彼の父親は碌でもない駄目人間だったらしい。
 母親はそんな父との生活にとうに疲れ果て、心が壊れていたようで。ただただ彼と、年の離れた彼の妹に逃げるように、押し付けるように過保護でいた。
 干渉して、依存して、それも散々。
 そんな中、彼は誰に相談することなく、むしろ隠してまでじっと学生生活を過ごしていたのだ。
 父親の碌でなし具合も酒、暴言、暴力と三拍子揃ったものだったようで、彼は度々その理不尽によって体に生傷を刻んでいたらしく。あの長袖は単純に傷を先生や生徒から隠すためだったようであった。あるいは妹を心配させないためか。あの時の「泣いちゃう」という発言はそういうものかもしれない。そんなところが真実だったのだろう。

 どうも私にとっては現実感がなく、聞こえてきたのも尾ひれがついてそうな噂ばかりで。寝耳に水だったのも合わさって、薄らぼんやりとしか事情を記憶していなかった。


    §


 大学に進学して、就職して、地元を出て。それから数年ぶりに帰省したある日。
 私はなんとなくアルバムを眺めていた。小学校、中学校、高校とこの地で過ごしたからこそ、通して見るとなかなか面白いものがある。
 そんな中、高校二年の頃の生徒写真にある男子生徒の文字を見つけた。
 あ、長袖の彼だ、と思い至る。
 突然転校して、しかもその理由が当時とてもショッキングだったのをよく覚えている。懐かしさと、寂しさと、心配とが綯い交ぜになった思考で、いつぞやの日々を思い出していた。
 彼は忍耐の生活を過ごしていたのだろうなぁと、そう思いながら、つらつらと考える。

 彼の母は過保護であったらしい。詳しく聞いた訳ではないけど、やってることの根本は心配であり、夫からの逃避であったのだろう。となると父のことでさえ誰にも相談しなかったような彼は、母の干渉を拒むことは難しかっただろうと思える。
 それは心配させないために、だ。
 そしてそんな彼は家族の前でその生活を嘆けただろうか。
 いや、それはできなかっただろう。
 しかし、間違いなく鬱屈は溜まるのだ。それを彼はどこで解消したのだろうか。
 例えば、あの夏の邂逅はその一つ、退避だったのかもしれない。
 そう考えるとあの時の言葉の奇妙さも頷ける。彼は揺らいでいたのであろう。
 ならば、いくつか思い浮かぶことがある。それは、彼が長袖を着ていた理由だ。
 一つ目はあの時言ってた通り、体質だ。二つ目は母への遠慮だったのだろう。
 では、他にもあるだろうか。
 それは汗を掻きたい、そう言っていたことなのかもしれないと思う。
 家族の前で涙を流したくは無かったであろう彼。それでも悲しみは溜まるであろう。
 それを、汗を流すことで代替したのかもしれない。体質の問題で運動はできないが、体質の問題で長袖を着なければいけない。それを使った考えだ。
 あるいは自傷行為の代替だったのかもしれない。典型的な自傷はもっと体の傷が目立ってしまう事を考えてしまうと出来ないかもしれないが、暑さを我慢するということで自分を蔑ろには出来る。
 実際、彼は脳筋だのマゾだのと言う私が冗談を否定し切ることをしなかったのだ。僅かながらではあるだろうが、そんな側面があったのだろう。

 ――だから、ふと。
 私の頭に、ある感慨ともつかない思考が過った。

 ――――あの長袖の下の汗は、彼なりの静かな涙だったのかもしれない。


 そんな益体もないことを。


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