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ギリシャ語の時間 | ハン・ガン

■ ひとこと概要

視力を失いゆく男性と、飽和した言葉が自らの内側でその意味を失い言葉を失った女性が今では使われることのない古典ギリシャ語を通し、言語を越えた場所で出会う「生きる」という事の絶望に射す光を描いた物語。温かな静寂は生まれ直すような柔らかさに満ちていた。

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■ 感想

「ギリシャ語の時間」ハン・ガン(訳)斎藤真理子(晶文社)P237

「我々の間に剣があったね」。

ボルヘスを象るように少しずつ視力を失いゆく世界に生きる男性と、飽和した言葉が自らの内側でその意味を失い、苦しみながらも新たなる言語を獲得するべく古典ギリシャ語を習い始めた女性が、今では使われることのない失われた言語を通し、言語を越えた場所で出会う「生きる」という事の絶望に射す光を描いた物語。

どんな言葉も有さず生まれ、自らの言葉をどう獲得していったのか、最早思い起こせないその過程を辿る旅のようでもある。彼女の身体を間借りして朧な言葉の正体を掴もうとするような、母体の膜の中で世界を俯瞰するような、不思議な感覚に包まれた時間だった。

言語を伴い思考するということの煩わしさや閉塞感は、言葉に変換せず感受する世界を漂うことでふわふわとした幸福に似た心地をもたらすが、二度目の喪失によりそれは絶望へと暗転してしまう。大方の感情は言語を通して形成されていることを改めて思う。言語を手放すとは思考を遮断し、自らの心の危機を回避する緊急措置なのかもしれない。

しかし、虚となった心は言葉で感情を象らずとも人の冷たさを、温かさを感知し、視覚は心を揺さぶり始める。母語の音韻を初めて発見した幼い日を始点にし、「する(能動態)」「される(受動態)」だけでは分類できない、今では失われた第三の態「中動態」という言葉に潜む深度と人の心の深度を巧みに重ね、暗がりでもがく二人の人生にほんのりと光の焦点を合わせていく。

言葉を音として捉え、口に出し唇を動かしてみる。唇の粘膜が合わさることで分節にピリオドを打ち、沈黙によって完成する言葉たち。体感してみることで気にも留めることなく使ってきた言葉の形や触感、音の手触りを体感する感動も味わった。瞼を開いても像を結ばない視界と、口を開けども音を発さない唇。開いたり閉じたりすることで共通する粘膜を介することで不在の存在を証明するような見事な導きを感じさせる一方で、その先は開かれていることに作者の揺るぎない想いと、「生」を「生」たらしめる、本質に注ぐ美しい光を見た気がした。

言語に囚われながら言葉と乖離していく心に宿る温かな静寂は、生まれ直すような柔らかさに満ちていた。

■ 寄り道読書

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「菜食主義者」ハン・ガン(訳)きむ ふな(クオン)P308

先日「ひきこもり図書館」で「菜食主義者」の種子となったという作品「私の女の実」を読み、惹き込まれたハン・ガン。

「ギリシャ語の時間」を読んで完全に魅了され、著者の全ての著作を読みたいと思った。まずは「私の女の実」の変奏となる連作集「菜食主義者」を読んでみよう。

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