見出し画像

フランス語の道②フランス編

渡仏1年目

フランスに到着して新しい生活が始まりました。
私に与えられたマンション最上階のワンルームからは、教会の鐘が見えました。それを見て、(フランスに来たんだ!)と実感しました。
荷物を置いて、駆け寄って窓を開けようとしたけれど、開け方が分かりません。私の新生活は、窓の開け方を教わるところから始まりました。
窓の開け方すら分からないので、他の些細なことでも簡単に行かなかったことはご想像いただけることでしょう。

私のデスクは、セーヌ・エ・マルヌ県の経済振興公社にありました。
そこがメインで、あとは週1回、県の観光局で翻訳やイベントのお手伝い、大学で日本語教師、別の大学で聴講などをしていました。
あとは、講演会を頼まれたり、小学校や高校で日本文化を教えたり。
声がかかると引き受けるという形をとっていました。
前任者に「あまりやることなくて暇だったから、旅行できた」と言われていましたので、フランス国内旅行を楽しみにしていましたが、私は旅行どころか、休む暇もありませんでした。
任期中に休みを取ったのは、急性虫垂炎で入院した時だけでした。
(んもー!どこが暇なのよー!)と思いながら、日本にいた頃より働いていました。
任期終了間近になって、ようやく、自分がサービス精神旺盛で、無理して何でもかんでも引き受けすぎていたことに気づいたのでした。

あんなにも慌ただしい日々だったのに、夫に出会えたのは何と言う偶然でしょう!
私達が出会えたのは、共通の日本人の友達、コアラくん(仮名)のお陰でした。
コアラくんは私が聴講していた大学に、修士号を取るために東京から留学していました。
コアラくんと夫は言語交換をしていました。
夫がコアラくんの修士論文をチェックするかわりに、コアラくんが夫に日本語を教えていたのです。

ある日、コアラくんに相談されました。
(コアラくんは私と同学年なのに、いつも丁寧語なのです。)
「アヤさんはすごいですよ。僕は今、フランス人の友人と、志賀直哉の『城の崎にて』を読んでいるんですけど、日本語をどうやって教えたらいいか分からないんですよね。」

私の耳がピクンと動きました。
(志賀直哉の『城の崎にて』ですって!?あの作品は兵庫県が舞台なのだから、これはもう、兵庫県代表者の私の出番でしょ!)
と心の中で腕まくりしました。
「私、読んだことあるから手伝おうか?内容には直接関係ないけど、城崎温泉を旅行した時の写真があるから、それも見せたら雰囲気が分かるんじゃない?」
と提案しました。
コアラくんは喜んでくれて、
「じゃあアヤさんを連れていっていいか、本人に聞いてみますよ。」

それで OK をもらって、コアラくんと一緒に夫の家に行ったのです。
それが始まりでした。
夫は日本文学に興味を持っていて、特に川端康成が好きでした。
コアラくんとも普段は川端文学を読んでいたと、後で知りました。
たまたま私と出会った一時期だけ、志賀直哉を読んでいたといいます。

私は川端康成の作品を最後まで読んだことがありませんでした。
手に取って読んだことはあるものの、男尊女卑の匂いに気分が悪くなり、
途中で本を閉じてしまうのでした。
だからもしあの時、コアラくんに
「今、川端康成を読んでいるんですけど...」
と言われていたら、
「大変だよね、頑張ってね」
と答えただけで、話が終わっていたことでしょう。
そういうわけで、私と夫を結び付けてくれたのは、コアラくんと志賀直哉なのでした。

夫との出会い

そうして、コアラくんと志賀直哉に導かれて夫に出会いました。
夫は私に会った瞬間
(この人だ!)
と思ったと言います。
夫が私に好意を示し親切にしてくれたことは、私も嬉しかったのですが、
きれいごとの美辞麗句や贈り物なんかで、私の心は動かされるはずもなく...、私は夫をフリました。

私が知りたかったのは夫の本音、私が見たかったのは本物の夫。
甘い仮面をつけた偽りの姿なんかに興味はありません。
断りの理由を説明すると
「分かった...。」
と夫は引き下がりました。
けれど、その翌日、夫は
「異議あり!」
と抗議の電話をかけてきたのです!

電話をかけてきた夫は、もう甘い仮面を脱ぎ捨てていました。
私へのご機嫌取りのセリフは一切なく、本音と本音が炸裂し、それはもう楽しい言葉の戦いでした。

夫の中には騎士道精神が流れていたのでしょう。
夫は最初、私をお姫様に見立てて、私の前で片膝をつく騎士を演じていたのです。
それでうまく行かなかったので、彼は戦略を練り直し、
私を「お姫様」ではなく「女騎士」とみなして、
本音という言葉の剣を持って、私に切りかかってきたのです。

私は喜々として、その挑戦を受けて立ちました。
私たちの言葉の戦いは、4 時間に及びました。
その中で、どうしても忘れられない会話があります。
私が夫と付き合えない理由として、
「私はまだ、あなたのために死ねないから。」
と言いました。すると夫は、「あーあ」と溜め息をついてから、
「そんなのは大したことのない、下らない理由だ」とし、助っ人としてイギリス 19世紀のバイロン卿を呼んできたのです。

「愛する女と共に暮らすよりは、愛する女のために死ぬ方がたやすい。」
(It is easier to die for the woman one loves than to live with her.)
というバイロン卿の名言を引用し、「共に暮らすことの方が何倍も難しいのだから、なぜそれに挑戦しないのか」と。
そこで私はハッとしました。そして夫の挑発に
(やってやろうじゃないの!)という気が湧いてきました。
そして振り回していた剣を下ろし、「彼と共に生きてみよう」と決めたのでした。
バイロン卿に背中を押され、私たちは付き合うようになりました。
「アムールの国、フランス」と言われますが、そんな甘いイメージとは違って、私は、人生を一緒に戦い抜く戦友を見つけた喜びに溢れていました。

プロポーズ

初めて出会ってから 10 カ月後には既に結婚していましたから、
どれだけ周囲の人々を驚かし、振り回したことでしょう!
(それに国際結婚は書類が大変でした!)
猛反対されて母と大喧嘩もありましたけれど、誰も夫と私を止められませんでした。
(今は実家との関係は良好ですよ。母は夫のこと気に入っていますし。)

プロポーズの言葉はというと、夫は私のことをよく知っていましたので、
「必ず君を幸せにする」など甘いセリフは言いませんでした。
私が覚えている夫からのプロポーズの言葉は、
「結婚とは、独身の時には起こらない問題がやって来るということ。
幸せが倍増するだけじゃなくて、苦労も倍増するんだ。」
でした。
その真実を突いている重い言葉を聞いて、異国の地で夫と生きる覚悟を決めたことを覚えています。
(夫に確認すると、その言葉には続きがあったそうで、
「でも二人一緒なら乗り越えられる」
と言ったそうですが、当時、私は最後まで聞いていませんでした...。)

そして、この言葉は、これからの人生で、現実に打ちのめされた時などに思い出し、
(そうよ、私は覚悟してたもの。よし、頑張ろ。)
と思わせてくれるのでした。

フランスに根を下ろす

結婚式を前に、私の心は不安に押しつぶされそうになりました。
物事がどんどん現実的に動き出していったからです。
夫婦の財産に関する契約を結ぶため、夫と共に公証人に幾度か会うのですが、その度に落ち込んで、泣きたくなって、夫に慰められながら帰りました。
フランスの制度も法律の専門用語も知らない私は、フランス語が全然聞き取れず、何が何だか分からないのです。
日本語でもやったことのないことを、フランス語でやらなくてはならず、
(こんなので、これからやって行けるのだろうか...)
と不安の波が襲ってきました。

「フランス語」の道をまっすぐに進み、自信に満ちていた私はどこに行ったのでしょう。
私がフランス語に自信を持てたのは、日本を拠点にしていたからなのです。
本場フランスでは、私のフランス語能力なんて大したことありませんでした。
私のフランス語は、たかが趣味の延長上のようなもので、フランスの現実に立ち向かえる武器となるようなものではなかったのです。

私は自分の強みを失いました。
フランスに根を下ろすというのは、何と難しいことでしょう。
日本でなら簡単にできたことが、ここでは一人で出来ないのです。
そしてこれはまだ、始まりにすぎず、
これからもどんどん自信を失っていくのでした。

マリッジブルー

結婚式の日、私は完全にマリッジブルーでした。
11 時 30 分からの区役所での結婚式自体は良かったのですが、
19 時からのビュッフェ式夕食会は苦痛でした。

私には理想の結婚式がありました。
昔、巫女として神前結婚式に立ち会ったことがあるのですが、
そのうちの1つが、とても印象に残る結婚式だったのです。
新郎新婦、宮司さん、そして巫女である私の4人だけの神前結婚でした。
何か事情があったのでしょう。参列者はおらず、新郎新婦だけ。
誰に見せることもなく、神様に誓いをたてる質素な二人に、私はひそかに感動していました。
私は心震わせながら、お神酒を注ぎました。
お二人の幸せを心から願いました。
本当に美しい結婚式でした。

私たちの結婚式は、そういうわけには行きませんでした。
慣習と義理が優先され、夕食のパーティーには、私の知らない招待客が次々とやって来ました。
社交辞令が飛び交う中、夫の横で、私も笑顔で応対していきました。
白いテーブルクロスがかかったテーブルの上には、豚の丸焼きを始め、
色々なお料理が並んでいて、各自好きなものを取れるようになっていました。
知っている人、友達、家族と喋る時だけホッとしましたが、
それでも次第にパーティーに疲れ、一人廊下に出ました。

簡易椅子に座り、静かに壁に寄りかかりました。
(これからどうなるんだろう...。)
とボンヤリ考えました。
何も思い浮かびませんでした。
ぼんやりと宙を見ていると、夫がやって来ました。

「ねぇ、帰ろう?」
と私は言いました。ヤル気のない花嫁でした。
夫は
「おいで」
と言って、私の手を取り、立ち上がらせました。
夫の腕に支えられながら会場に戻りましたが、笑顔を貼り付けて無理をしている自分に疲れました。
私自身が愛想笑いをしているので、招待客の笑顔も、見せかけの愛想笑いのように感じられました。
会場全体が、笑顔の仮面舞踏会のように思えてきて、いたたまれなくなった私は、夫の腕をすり抜けて、また会場を出ました。

廊下にいると、夫が迎えにきましたが、私は会場に戻りたくないと言いました。
夫は私をなだめてから、もう少しだけ辛抱してほしいと言って、
義理を尽くしにパーティー会場へ戻っていきました。

私は暗くなった外を窓越しにボンヤリ眺めていました。
時々、廊下に出てきた人たちと言葉を交わしました。
夫のドイツ人の同僚とは、ちょっとの間お喋りをしたかな...。

しばらくして夫が、食べ物と飲み物を持ってきてくれましたが、
私は何も口に入れる気になれませんでした。
その後、夫が数回様子を見に来てくれた後、
私が疲れていることから、早く帰らせてもらえることになりました。
私は夫に付き添われて帰宅しました。
0 時頃だったと思います。
新郎新婦のいないパーティーは、そのまま午前3時過ぎまで続きました。
片付けが終わったのは明け方の 4 時だと聞きました。

「食べて踊って、みんな楽しんでたわよ」
と義母に聞いて、
「それなら良かった」
と思った結婚披露宴でした。

マリッジブルーがいつまで続いたのかは覚えていません。その 15 年後、コロナでロックダウンになった時、ようやく結婚式の写真整理をする
のですが、
(慣れない環境でよく頑張っていたね)
と昔の自分に声をかけるのでした。

自信喪失

夫婦の財産について公証人と話し合った時に、自分にフランス語能力がなさすぎることを痛感して、自信を失ったことは以前書きましたが、
当時、法律の専門用語だけでなく、日常に使う単語すら知らなかったことも、自信喪失の大きな一因でした。
私が日本で学んできたフランス語は、時事問題や形而上学的な話題といったフランス語検定試験に役立つテーマが主でした。
それは議論には役立つかもしれませんが、日常生活には向きません。
日々の生活で必要な単語は、
「お玉」、「ザル」、「電球」、といったもので、
「本質と偶有性」、「染色体」、「中央集権化」といった単語ではないのです。
外務省のフランス語面接では、自衛隊と国連平和維持活動がテーマでしたし、兵庫県の面接では、フランスで教えられる日本文化がテーマでしたので、思う存分意見を述べることができましたが、もしあの時、
「お味噌汁の作り方は?」
などと生活感溢れる質問が飛んできていたら、
私はうまく答えることができなかったでしょう。

日本とフランス、環境が変われば、必要なフランス語も変わって当然なのですが、当時はただ上手く順応できずに
(なんでこんなに出来ないんだろう)
と落ち込むだけでした。
ダニング・クルーガー効果の曲線に表れている以上に、
私の自信は、頂点から一気に急降下したのでした。

階級社会

私は初心に戻って、フランス語を身に着け直すことにしました。
生まれたての赤ちゃんのように、フランス語のシャワーを浴びていきました。
子育てをしながら、とにかく何でも吸収していきました。
私は使わないけれど、汚い言葉も覚えました。
ただ、言葉を覚えるということは、言葉に付随する考え方も取り入れるということ。
そこで、私は取り入れてはいけないものも、フランス語と共に自分の中に取り込んでしまったのです。
それは「フランスの階級意識」でした。
例えば、ホームパーティーをするときに招待客をリストアップして義母に見せたら、
「この人は階級が違うから居心地悪く感じられるでしょう。この人はやめた方がいい」と却下されたこと。
やってみたい仕事があっても
「私たちの階級がやることではない」
と反対されたこと。
そういう義母の階級意識が私にも伝染しました。

また、外の世界でもそうでした。
フランスでは初対面の人に職業を聞くのが普通で、
「主婦」と答えると、私から離れていく人も多くいました。
「キャリアのない無能な人」と見下されたり、
「お気楽なブルジョア階級」と鼻につく存在として
疎ましがられることもありました。

ある日、通訳のアルバイトをした時のこと、8時間一緒に仕事をしたフランス人がいたんです。お互いに協力しあって、息も合って、仕事は大成功!
仕事の後、ホッとしてようやくお互いの自己紹介をしたのですが、
夫の職業を聞かれて答えると、相手の表情が曇りました。
そして、相手は急によそよそしくなって、ギクシャクしたままお別れしました。せっかく仲良くなれそうだったのに、「階級意識」が友情の邪魔をしたのです。

そうしてフランスに住むうちに、私にも、初対面の人に会って少し会話するだけで、相手の階級がわかってしまう能力が身についてしまいました。
この能力は厄介なものでした。
無意識のうちに偏見や差別に結びつきますから。
誰とでも隔たりなく関わることのできた自分の長所を破壊するものでした。

私は日本に居たころ、相手が自分に対して攻撃的や嫌味でない限り、身分や肩書きなんかに関係なく、誰とでも自由にお喋りできる娘でした。
こう言うと眉をひそめられるかもしれませんが、
アメリカの受刑者とも偏見なく普通に文通していました。
自動車学校の合宿では、極道のお兄さんとも普通に話していましたし、
「不良」と言われる若者たちとも、一緒に遊んでいました。
(夕食後、門限の 22 時まで、教習コースを走り回って鬼ごっこをしたのも楽しい思い出です。彼らは規則を守っている間だけ私と関わり、規則を破る時は
「アヤちゃんは部屋に戻っとき!」
と言って、私を決して危険な目に遭わさず、気遣ってくれるのでした。)

私にとって大切だったのは、個人と個人の関わりであって、
その人を取り巻く環境は二の次、三の次だったのです。
フランスの階級意識を吸い込んでしまってから、私は無意識のうちに、人をカテゴリー別に見るようになりました。渡仏 1 年目には、植物園ですれ違った不良っぽい兄ちゃん達と笑って挨拶を交わしていた私が、そういう集団を避けるようになりました。
ある意味、私は「分別ある大人」、「まとも」、「常識的」になったのかもしれません。
特に結婚して子供がいるなら、分別ある大人の行動をしないといけないでしょう。
私はそれを「フランスに馴染んでいる」と勘違いして、長い間過ごしてきました。
けれど、同時に漠然とした違和感と閉塞感を感じていました。
フランスに羽ばたいて、視野を広げるどころか、偏見を身に着け自分の世界を狭めてしまったのですから...。

なので、私はフランス生活に疲れていて当然でした。
人と出会うのにもウンザリしました。
職業を聞かれて答えるのも嫌でした。
フランス語自体、聞くのも嫌になりました。
そして何より、人を偏見の目で見るようになった自分が嫌いになりました。
フランスから飛び出て、自由になりたくなりました。
私にとってフランスは、狭くて窮屈な国になっていたのです。

嫁姑問題

異国に住むことで私が経験したのは、
1)今までの自分の過去を全て失うこと
2)新たな環境で、とりあえず全てを受け入れること
3)受け入れたものを取捨選択すること
の3段階でした。
3 番目の段階に入って、自分を取り戻そうとし始めた辺りから、
義母との関係が悪化していきました。
私が従順な嫁ではなくなっていったからです。

始めはうまく行っていたんです。
同じ屋根の下に暮らすのですから、多少のことは目をつぶって、お互いに仲良くしていました。
義両親は真上のアパルトマンに住んでいました。
義母からは毎日平均5回電話がかかってきて、
「夫がどんな外套を着て出社したか」、
「夕食には夫に何を食べさせるのか」、
あらゆるチェックが入りました。
子どもが泣けば、すぐに電話が入り、子どもをあやしながら、状況説明しないといけませんでした。
一日数回は、うちに突然やってきて、家の中のチェックをし、
いかに私が夫と結婚できて幸運かを話して帰っていくのでした。
けれど、時間と共に、どんどん歯車が合わなくなって、
8 年後に逃げ出すように引っ越しました。
引っ越し前後の1年間が、これまでの人生で一番大変でした。
私は今までの人生で、これほど一人の人物に憎まれたことはありませんでした。
夫が私の味方をすればするほど、義母は私を憎みました。
「あの人は貴女に嫉妬しているんです。」
と、お手伝いさんに言われました。
「ここから逃げた方がいいですよ。鬱になると治すのが大変ですから早いうちに。」
と言われ、私は色々なことを教わりました。

嫁姑問題のクライマックスでは、何が起こってもおかしくない状況でした。
上階で義母が暴れている音を聞いて、身の危険を感じて慌てて飛び出し、
友人宅へ避難させてもらったこともあります。
夫は和解という平和的解決を目指していましたが、嫁姑問題でそんなのが上手くいかないことは、その手の小説を2〜3冊読めばわかります。
一つの家庭に、女主人は二人もいらないのです。

ある日、日本人の精神科医に相談したことが転機となりました。
「ここで開業して 35 年経ちますけれど、あなたのケースは、今まで受けた相談のワースト5に入ります。」
と言われました。
相談で一番多いのが、やはり嫁姑問題だと言われました。
「週 1 回の義両親からの電話に耐えられない」というような相談が相次ぐようで、確かにそれに比べると、私の環境は壮絶でした。
何しろ私は、多い時で1日8回の電話(+突然の訪問)を受けていましたから。
「結婚する時点でおかしいと気づかれませんでしたか?」
と訊かれ、
「確かに、私が夫と一緒にいると、その間に入ってくる人でしたね。けど、私、自分の力を過信していたんです。大学院で異文化理解を学んで、個人と個人の争いに、仲介者としてどのように関わるかを学んでいたので、それを実践する感じで過ごしてきました。でも、理論と実践は違いますね。」と答えました。
「ほぅ、あなたも異文化理解を学ばれたんですね。同業ですね。」
と言われ、私は微笑みました。
「でもうまく行きませんでした。私にも限界はありますし、自尊心だってあります。」
「そりゃそうだ。」
とお医者さんは頷きました。
そして「早急に物理的距離を取るように」と一筆書いていただいて、
それを読んだ夫が新たな新居を見つけてきました。
それが今住んでいる屋根裏の小さなアパルトマンです。

義母は私を追い出すことに成功しましたが、
夫と子ども達も私について出て行ったので、
その怒りの矛先は益々私に向いて、私を裁判で訴えると準備し始めました。

親権争いでした。
ノート4冊分、びっしりと、いかに私が無能で、彼女が孫の面倒をみる必要があるかを書いたと言います。孫たちのために購入した商品のレシートも全て取っていて、証拠集めもしたらしいのです。

引っ越してホッとした隙を突かれました。
無防備だった私は大きなダメージを受けました。
その時に私の髪は白くなったのです。
35 歳でした。

物理的距離を取っても邪魔してくる義母...。
私の味方をしてくれる人は多数いました。
私が頼まずとも「証言してあげる」と言ってくれる人たちがいて、
有難く思いました。
けれど、私には戦う力は残っていませんでした。
裁判なんて、日本でもやったことがないのに、フランス語でどうしろと言うのでしょう。
相手は定年退職して時間はたっぷりあります。
私は小学校低学年と幼稚園の子どもたちを抱えているので、裁判の準備なんてしていられません。
子ども達のために買った商品のレシートなんて、とっくの昔に捨てましたし、そんなのを保管している方がおかしいでしょう?
相手は 1968 年の学生運動を始め、権利の主張で人生を渡ってきた人です。
いくつも裁判をしてきた経験者です。
太刀打ちできないと頭を抱えました。

結局、夫が義母に何か言ったためか、義母自身が勝つ見込みがないことに気付いたためか、単なる脅しにすぎなかったのか、どういうわけか分かりませんが、裁判の話はお流れになりました。

私はやつれました。
鏡を見るのも嫌でした。
髪を黒く染めようかと考えたりもしました。
けれど、髪を染めてこの経験をなかったことにするのは嫌でした。
それで(黒髪と引き換えに自由を手にしたのだ)と考え直し、
ありのままの自分の姿を受け入れることにしました。

結婚8年目、義両親から離れられて、
ようやく私たちは新婚気分が味わえたのでした。
髪の色は戻ることはありませんでしたが、
今でも時々、
「苦労かけたね」
と夫が私の髪を撫でてくれています。

(「フランス語の道③フランス編その2」に続きます。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?