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フランス語の道 ①日本編



はじめに


フランス語との付き合いは長いもので、中 2 の選択科目で習い始めてから 30 年が経ちました。フランスに住み始めてから19年。
私の人生を語る上で、フランス語を避けて語ることはできないんだなぁ...と感じています。
人生という森の中で、分岐路に到着した時は、必ずといっていいほど、
「フランス語」
と書かれた道しるべが立っていて、何となくそれに従ってきたような気がします。
45歳の今、フランス語の道を振り返って、どんな道のりだったかを皆さんにお伝えしたいと思います。宜しければ、お時間のある時にでも読んでくださいね。

中学1年

最初の分岐路は、中 1 の頃。
選択科目で「英会話」か「フランス語」を選択しなければならなかった時。
「英会話にしておきなさい」
という母の意見を押し切って、フランス語を選択したのです。
「英会話!」と母。
「フランス語!」と私。
険悪なムードになるので、しばらく選択科目の話はできませんでした。
提出日の前夜ギリギリになって、仕方なく
「これ明日提出しないといけないから」
と署名と捺印を頼むと、時間がないし、話し合っても無駄だと思ったのでしょう。すんなりサインしてくれました。

その28年後、仏検 1 級の二次試験で知り合った友人が、
「高校時代、フランス語を習いたかったけど習えるところがなくて、
NHK のフランス語講座で独学した」
と話してくれた時、そのモチベーションに驚き、尊敬しました。
私は選択科目を選んだ当時、フランスには何の興味もありませんでした。
なので、フランス語でも、スペイン語でも、ドイツ語でも、英語以外なら何でも良かったのです。
ただ、「何か新しいことをしたい」という気持ちが原動力となって、断固として「英会話選択」に反対しただけなのでした。

中学2年

中 2 になって、週1回のフランス語の授業が始まりました。
最初は興味津々で楽しかったのですが、
少し時間が経ってから後悔し始めました。
何が何だか分からないのです。ちんぷんかんぷん。
いつ頃だったでしょうか...、フランス語の試験中に、静かに泣き始めた私。
フランス語で書かれた質問の意味が分からず、何も書けなかったので、
(私、アホや...)
と、情けなくなって泣いたのでした。

その後、フランス語の先生から担任の先生に報告があって、
放課後、担任の先生に呼びとめられました。
「フランス語の授業中に泣いていたみたいだけど、大丈夫か、具合でも悪いのか」と。
心配して声をかけて下さったことはすぐにわかりましたが、
担任の先生にまで知られてしまったことに、戸惑いと恥ずかしさを感じ、
「テストで答えが分からなかったので...。」
と手短に答えました。
「そうか...。まぁ、気を落とさずに。次は頑張って。」
「はい。」
と、ありきたりな言葉を交わして帰りました。

後日、テスト返却があって、平均点が 85点ぐらいで、私は 60 点台でした。
点数の横に、先生から励ましの一言が書かれていて、
何が書かれていたかは今はもう思い出せませんが、
それを読んでニッコリとほほ笑んだことを覚えています。

大きな慰めとなる一言で、ヤル気を失わずにすみました。
他の科目では、どんなにヒドイ赤点を取っても、泣いたことは一度もありません。
どうしてフランス語だけ??
それが今でも不思議です。

中学3年と高校1年

そして中 3 になりました。
高校での選択科目を決める時、
「フランス語、難しいからやめて『基礎数学』にしようかな。」
と言うと、母に無茶苦茶叱られました。
「あれだけ親に反対してフランス語を選んだんだから、最後までやりなさい!」と。
それで、しぶしぶフランス語を続けることにしました。
あの時、「基礎数学」を選ばなくて、本当に良かったと思います。
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高校に入ってからフランス語の教科書が変わり、文法よりも会話中心の授業になりました。
面白いようによく解るし楽しい!!
(私は机に向かうよりも、五感をフルに使って体全体で学ぶ方が向いているんだ!)
ということに気付きました。
高校生のフランス語コンクールに応募するために、グループ別にビデオを撮ったり、カセットテープにフランス語を吹き込んだり。
こういう作業も大好きでした。
そしてコンクールでは、クラスの全グループが賞を獲って、
皆で喜び合いました。

そして高校からカナダでの夏期英語研修に参加する機会があって、
それも人生の転機となりました。
大自然の景観に感動したのは勿論のこと、もう一つ、
オレンジジュースのパックに、英語とフランス語の両方で表記されているのを見て、
(カナダはいいなぁ!)
と思ったのです。
(日常生活で英語とフランス語の両方に触れられる、何て贅沢な国なんだろう!それなのに英語圏のカナダ人は、フランス語習得のチャンスを利用せず、何てもったいないことを!)
と思いました。

(外国語が出来なければ!)という危機感を抱いて、2週間の研修から帰ってすぐ、母に
「英会話学校に通わせて」と頼みました。
そして NOVA の駅前留学を始めることにしたのです。

NOVA の利点は、英語もフランス語も学べることでした。
(今は英語の気分だな)と思えば、英語のレッスンを予約し、
(今はフランス語がいい)と思えば、フランス語のレッスンを予約。
グループレッスンはチケット 1 枚、プライベートレッスンはチケット 3 枚が必要で、どうしても先生に話を聞いてもらいたいことがある時は、1 対1のレッスンをお願いし、その他の時はグループレッスンにしていました。
このように、その時その時の気分で言語を選べるのが、私には合っていました。
また気分の乗らない時は、レッスンを受けずに、« Voice ルーム »という、英語しか話してはいけない部屋に入り浸って、他の人たちが会話しているのを聞いていました。

高校では、周囲が受験モードになっていく中、私はほぼ毎日、駅前留学して、大学生や社会人の生徒さん達や、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フランスの先生方とお喋りしていたのでした。

駅前留学時代

NOVA に通い始めたのは、15 歳の頃。私が最年少でした。
夏休みの間だけ、1 才年下の女の子が通っていて、仲良くなりました。
その子は日本人で、ご家族もみんな日本に住んでいたのですが、
その子だけデンマークの学校に通っていて、夏休みだけ日本に戻ってきているのでした。
「どうしてデンマークに?」と訊くと、
「何となくデンマークに決まっちゃった。」と笑ってはぐらかされました。
日本の子ども達は、日本の学校に通わないといけないと思い込んでいましたから、その時に(色んな生き方があるんだなぁ!)と驚きました。
夏休みが終わって、その子に会うことはなく、また私が最年少となりました。

NOVA は、英語とフランス語を学ぶ場に留まらず、
大学生や社会人といった、大人の人たちと交流できる場でもありました。
Voice ルームでは、語学レベルに関係なく、誰でも入れますので、
様々な話題が飛び交い、近所の話から、インドの話まで、
どんな話でも面白く聞いていました。

大阪外大生で「酸素」の英単語を教えてくれたミホさん、
おうどんを食べに連れて行ってくれた OL のトキさん、
新神戸のジェラート屋さんでバイトしていたお姉さん(遊びに行くと、いつもジェラートを作ってくれました)、
ボストンの話ばかりするビジネスマン「ミスター・ボストン」、
歯並びを見て人の顔を覚える歯医者さん、
音大を目指していた女子高生のヨウコさん、
色々な人たちに出会えて、今でも目を閉じると、みんなの笑顔が浮かんで、涙が出てきます。
いつかまた、会えるといいな…。

大学入試

高校を卒業したらどんな道に進むのか、また分岐路に立ちました。
私は迷わずに「フランス語」を選びました。
私は小中高を神戸の山の麓にある、神戸海星女子学院で過ごしました。
当時は大学の文学部もありましたから、迷わずにそこの仏文科を志願しました。

仏文科を受験するにあたり、英語で受験するか、フランス語で受験するかを選ばなければなりませんでした。
その時は、(どっちの道を通っても、辿り着けそう)
と思いましたので、高校のフランス語の先生にお任せしました。

当時、高校と大学の間では、私のことでやり取りがあったようです。
「仏検準 2 級に合格した高校生が受験するんですって!」
と大学側では、ちょっとした話題になっていたと、後になって知りました。
どうやら母校で、仏検準 2 級に合格した高校生は、私が初めてだったらしく、
「『フランス語の試験、気合いを入れて作ります!』と大学から言われましたよ」
と先生に言われたことで、私の受験科目がフランス語だと分かりました。
受験 3 ヵ月前のことでした。

受験科目が決まったものの、どうやって受験勉強したら良いのでしょう?
過去問がないか、先生に訊いてみましたが、
「フランス語で受験した帰国子女がいたけれど、もう何年も前のことだから...。」
と、過去問は入手できず、もちろん、本屋さんで赤本が売られているはずもなく、とりあえず、仏検2級の単語帳を買って、語彙を増やしておきました。

入学試験当日、テストを見て思ったのは、
(わー!本当に気合いを入れて作られてる!)
ということでした。
ガリレオ・ガリレイの宗教裁判に関するフランス語の長文がびっしりと細かい字で並んでいて、それを読んで、質問に次々答えていき、あとは、日仏翻訳、仏日翻訳があったような気がします。
とにかく全部記述式で、今思い返すと、あの試験は、仏検2級レベルだったように思います。
とても挑戦しがいのある入学試験でした。

フランス語での受験者は私一人。
私の点数は、最高点であり、最低点であり、平均点でした。
あの試験を受けたのは、世界でただ一人、私だけ。
私のためだけに作られた入学試験でした。
何という特別扱いでしょう!
この出来事は、まさに母校、神戸海星女子学院大学の精神を表すものでした。
小さな小さな女子大学で、学生が集まらず、経営難に陥ってもうじき閉校してしまいますが、それも時代の流れなのでしょう。
大学自体がなくなってしまっても、大学時代の思い出と、そこで得た知識は、今でも私の中から泉のように湧き続けています。
先生方は学生一人一人の顔と名前を覚えられ、一人一人を大切にして下さいました。
個人の能力に合わせた教育をしてくださる、愛情あふれる、本当に素晴らしい大学でした。

初恋

過去を順々に思い出していくうちに、初恋も思い出しました。
そして、そこにも「フランス語」が混ざり込んでいることに気付きました。
フランス語の思い出の一つとして、ちょっと恥ずかしいけれど、書いてみます。
小学校から女子校で、近所に男の子の幼馴染もいなかったことから、
私の初恋は遅い方でしょうか、恋に気付いたのが 17 才の頃でした。
阪神淡路大震災があって、その人の安否がとても気になって、
街の中心地の人混みの中で、その人の姿が見えないものかと探している時に、恋だと気づいたのでした。
その人は、NOVA の英語教師で、アメリカのシアトル出身の 15 才年上の先生でした。
「具体的に、その先生のどこが良かったの?」
と訊かれると、答えに詰まってしまいます。
他にもほぼ毎日、顔を合わせる人達がいたのに。
歯磨き粉のコマーシャルに出てきそうなハンサムな先生や
もっと若い先生だって大勢いる中で
どうして?
目...かな。目を見るだけで、今どう思っているのかが伝わってくる...。
言葉で表せない部分を、目が補っていて、偽りのない瞳。
そんな吸い込まれそうな目に魅かれたんだと思います。
なので私は、その先生の目をじーっと覗き込むのが好きでした。
冗談を言っている時のいたずらっ子な目や(少年のように見える!)、
深く考えている時の真剣な眼差しも好きでした。
その先生も、私の視線からは目を逸らさずに、
まっすぐに目を見つめ返して話してくれますから、
発する一語一語が、単なる飾りものでなく、
本音であることを目が証明してくれていて、
何ていうのかな...。信頼できて、一緒にいると安心する、そんな感じでした。

その先生は英米文学が専門でしたが、私がフランス語に夢中だったため、
いつもフランスに関する話題を振って来ました。
ロラン・バルトとソシュールを知ったのも、その時です。
「英語で読むには難しいけど、日本語訳も出ているから読んでごらん。」
と薦められたのが
ロラン・バルトの『表徴の帝国』(Roland Barthes,"L'Empire des signes")。
今、ロラン・バルトと聞くだけで、当時、ジュンク堂に買いに走ったことを思い出します。

失恋

私の初恋が、失恋に変わったのは 19 才の時。
失恋した場所が、英語とフランス語会話を楽しむパーティー会場だったので、
(失恋までもフランス語関係だったのか...)と今、苦笑しています。

私が「門限があるから」と、パーティー会場を出た時、
ちょうど初恋の先生が到着しました。
先生が転勤となってから、もう 1 年以上会っていなかったと思います。

(やっと会えた~)とトキメキを抑えつつ、挨拶を交わし、
(早く帰らないと)と時間を気にしながらも、
(もう二度と会えないかもしれない)とも思い、
(どうしよう、どうしよう)と思って、気が付けば、
「実はね、ずっと好きだったよ。」
と日本語で告白していました。

相変わらずきれいな瞳。その目は喜んでいました。
「うん...。ありがとう。」
と日本語で返ってきました。
その優しい眼差しを見て、(もしかして、うまくいった?)と期待しました。
けど、「ありがとう」と言われただけで、続きの言葉がありません。
ちょっとした沈黙があって、
「じゃあ私、帰らないといけないから、またね。」
とサヨナラしました。
駅まで全速力で走りながら、
(あ〜あ、振られちゃった)とセンチメンタルな気持ちになりました。

その夜、(私のことを好いてくれている目に見えたけど、単に私の勘違いだったんだ...)とちょっぴり泣いて、
(でも気持ちを伝えられてよかった。スッキリ!)
と思い直して、眠りにつきました。

実は、この告白の返事を受け取るのは、それから 1 年後のことなのでした。

20歳

失恋したことが関係しているかは分かりませんが、その後、
英語への興味は薄れ、フランス語に没頭していきました。
大学2年で仏検2級に合格し、フランス国民教育省が認定するフランス語資格(DELF, DALF)に挑戦し始めました。
受験するたびに合格するので、面白くて「もっと上へ、もっと上へ!」とヤル気満々。
日本にいながら、生活の大部分がフランス語で占められていきました。

そんなある日、英語とフランス語会話を楽しむパーティーで、
また初恋の先生に再会したのです。
失恋してから1年経っていました。
再会して何を話したかは覚えていませんが、その時に携帯番号を交換し、
それ以降、時々メッセージを送りあったり、たまにカフェに行ったり、食事をしに行ったりしました。

私は大学で学んだことを話したり、日米の違いや、宗教観や、日本の政治の話など、英語で色々なお喋りをしました。
なぜかチョムスキーの話題もあった記憶がありますが、一体どんな話をしていたんでしょうね。そうそう、またロラン・バルトとソシュールの話も戻ってきました。

昔と違っていたのは、先生のプライベートな話が増えたことでした。
家族のことや、ティーン時代のこと、大学時代、人生観、理想の暮らし等。

そしてある日、カフェでお茶した後、お喋りしながら、あてもなくお散歩しているうちに、山の麓に到着しました。
二人で神戸の街を見下ろしながら、昔の思い出話になりました。

初めて出会った時、私がまだ 15 歳だったこと...。
私がベレー帽をかぶった制服姿だったこと...・
よくベレー帽の取り合いで遊んだこと...。
阪神淡路大震災で生きているかどうかとても心配したこと...。
先生が明石校に異動になって、一度会いに行った時のこと...。
「あの時はありがとう」
とお礼を言われ、次にこう訊かれました。
「ねぇ、1 年前に言ったこと、覚えてる?」

(告白のことだ)とピンときました。
「もちろん、覚えているよ。私が『好き』って言ったことでしょう?」
「そう。」
「あの時、返事くれなかったね。」
と笑いながら、ちょっと非難の目を向けました。
けど、相手の目を見ることはできませんでした...。

目を逸らして、お互いに神戸の街を見下ろしました。
「あの時、君は未成年だったからね...。」
しばらく沈黙があった後、相手が私に向き直りました。
今までに見たことのない、真剣な表情でした。
「...成人した今...、もしあの時の言葉が、今でも有効であれば...」
・付き合ってほしい
・付き合ってみないか
・付き合ってください
・付き合ってくれる?
・付き合ってもらえないだろうか?
...どんな表現だったのか、肝心なところが思い出せませんが、とにかく告白されました。

ため息と共に、私は崩れるように手すりに寄りかかりました。
私がオーバーリアクションなのは自分でもよく分かっていますが、
でも本当に二本足で立っていられなかったのです。
そのセリフ、去年聞きたかった...。
去年だったら、その言葉に有頂天になっていたのに...。
去年だったら、喜んで承諾していたのに…。
去年だったら、去年だったら、去年だったら…。

彼は結婚して家庭を作りたがっていました。
アメリカと日本を往復できる人生設計を立てようとしていました。
その中に、フランスのフの字も入る余地はありませんでした。
私が一所懸命に勉強しているものは、彼との生活には役立たないでしょう。
それどころか、私はフランス語を捨てて、英語にシフトしないといけなくなります。
それは嫌でした。
それほどまで私は、フランス語にのめり込んでいたのです。

人生の森の分岐路に立つと、
道しるべが2本立っていました。
「彼と一緒にアメリカへ」
「フランス語」
そして私は「フランス語」を選んだのでした。

「分かるよ」
と彼は言いました。相変わらず、優しい眼差しでした。

外務省の在外公館派遣員試験

初恋が本当に終わった後、私は真っすぐに「フランス語」の道を歩み続けました。
途中で、新たな恋心からフランス語の道を逸れることもありましたが、
ハッと気づいて自ら戻ることもあれば、フラれて好きな人との道が絶たれ、
ワンワン泣きながら戻ることもありました。
そうしてちょっと小道に逸れることはあっても、「フランス語」の道は、既に私の人生の軸となっていたため、何があっても結局いつも戻ってきていました。

この「フランス語」の道は、どこまで続くのでしょう。
目的地はやはり、その言語の国、フランスでした。
26歳の時、兵庫県からフランスに派遣されることになるのですが、
実はその少し前、外務省の在外公館派遣員試験を受けていました。
その時の出来事が、運命の分かれ道でしたので、書き記しておこうと思います。

外務省の在外公館派遣員試験の1次試験には、確か
・一般常識問題(マークシート)
・外国語の筆記試験(私はフランス語で受験)
・日本語作文
・心理テスト(絵を描くテスト)
がありました。
私は一般常識問題に弱いことを自覚していましたので、
試験を受けて(やっぱりね...)という気分でした。
マークシートには、確実に正解だと自信があるものだけを黒丸で塗りつぶしていきました。
そうすると、国際関係、外交関係の質問に対する解答ばかり。
(あーあ、偏っているなぁ...)と思い、残りの時間は、理科と算数の問題をちょっと解いて、時間がきました。

塗りつぶしたのは全体の35%ぐらい。
残りの65%は白紙のまま提出しました。
だから全問正解でも35点。
(これじゃあ無理だろうな)
と思っていたら、何と、一次試験合格の通知が届きました。
(競争率が高い中、私を選んでくれただなんて、外務省の人達って案外面白い人達なんだなぁ!)
と、ワクワクしながら東京へ飛びました。

最終試験となる二次試験は、フランス語の面接と日本語の面接になります。
フランス語の面接は、外務省の日本人女性職員が面接官で、
質問を2つか3つされて、それに答える簡単なものでした。10分もかからなかったんじゃないかしら。
ちなみに、のちに受ける兵庫県の面接では、ネイティブが面接官で、私の答えに対してツッコミや質問が入り、それに対して反論したり説明したりで、30分間のノンストップ議論バトルでしたので、「国より地方の試験の方が楽」というイメージは崩れ去りました。

さて、外務省に話は戻りますが、フランス語の面接が終わって、日本語の面接になりました。
外務省職員の方々が4~5名並んでいて、女性は1人だけでした。
その女性職員さんが、私が着席するやいなや、
「一般常識テストの結果が非っ常~~~に悪いです!この面接で頑張っていただかないと、合格できません!」
とおっしゃるので、
(まだ挨拶の言葉も交わしていないのに、いきなり!?)とビックリすると同時に、(そりゃあそうよね。だって30点ぐらいしか取ってないんだか
ら。)と納得しました。

それでまぁ、色々とお喋りして、最後に
「願書には欧州希望で出されていますが、アフリカでも構いませんか?」
と聞かれ、
「はい、大丈夫です。」
と答えました。

そして、結果は「補欠」でした。
フランス語圏に派遣される人達の中で、急きょ行けなくなった人がいた場合に、私が代わりに派遣されるというもので、「待機しておいてください」、とのことでした。
そして選ばれた派遣員たちは、無事に各国の在外公館へ飛び立ったようで、私の役目は終わりとなりました。

もしあの時、だれかが病気や怪我や事故にあって、私が代わりに行っていたなら、その半年後に、兵庫県からフランスに派遣されることはなかったでしょうし、夫に出会うこともなかったでしょう。
もしあの時、アフリカに2年間派遣されていたら、私の人生は今とは全く違うものになっていたと思います。
そこはもう、人生の森の分岐路で、
私が選ぶのではなく、超越した何かに身を委ねるといった感じでした。



(「フランス語の道②フランス編」に続きます。)


#創作大賞2023 #エッセイ部門

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