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83 九頭

 われわれは実際、存在の形態として空間のある任意の座標を常に占めている。われわれの占めているこの空間を身体といい、これを一つの区切りとして世界を把握する。世界は身体の感覚として現れるが、身体もまた世界の一部として現れる。そうすると身体もまたわれわれにとっては認識されるべき世界の一部であると言える。つまりわれわれはある意味において、皮袋に肉の詰まったいわゆる身体を超えていざるをえないことになる。

 われわれには二つの境界が考えられ、一つは身体の内と外とであり、今一つが世界の内と外とである。当然のことながら、世界を認識する主体は世界の内側に属することはできない。主体そのものが世界の内側にあるのなら、世界を認識する主体そのものも認識されるべき対象となり、これは無限背進してしまう。ゆえにわれわれは、各々が各々にとって世界の限界を成すことで世界を認識出来ていると言える。

 そしてわれわれの背後には何も無い。

 精確に述べるのなら、何も無いと述べて指示できるようななにものかさえ無く、さらに正確に述べるなら以下同文が続く。

 ここで明らかなように、本質的なのは主体そのものが世界に存在しえないという点であり、この点に比べれば身体という問題は付帯的なものであると言える。

 ゆえにわれわれがこうして一つの身体に九つの首を持った状態で生きていることについても、特段の問題は生じない。身体の区切りがあろうとなかろうと、世界とはわたしにおいて認識されるところの世界であって、わたしは世界の限界を成すことでこうして世界を認識しているということである。

 当然のことながら、わたしの属するこの身体の九つの首についた九つの口は口々にまったく同じことを述べるが、そんなことは問題ない。加えて言うと、わたしは日によって左から三番目の頭だったり、二番目の頭だったり、一番左の頭だったりと定まらないが、ともあれわたし自身にはその時どの眼から景色が見え、どの口から言葉を発することができるのかがわかるのでこれも問題ない。

 こうした形態を問題視するのは単頭の友人だけであり、彼らは単頭であるだけに、九つある頭のどれが誰なのかということを割合気にしがちである。そういうときには以上の話をしてやるのだが、しかし考えてみればこの話というのは他人に向かって語るようなものではない、ように思われる。というよりも、他人に語るということそのものが内容自体と矛盾を来たすような話であるようにさえ思われる。

 われわれは便宜上九つのミドルネームでそれぞれを呼び分けており、わたしにもわたし自身を示す名前があるのだからどうしても納得のいかない単頭の友人には最終的にそれで満足してもらっているのだが、とはいえわれわれ九頭はそれぞれのパーソナリティも、考え方も、記憶もおおむね共有しているのであって、各々の振る舞いは極めて似通ったものである。そうなると他人にとって、わたしをわたしと見なしうる本質的な要素は名前のみ、ということになりそうだがこれも特に問題ない。

 われわれ九頭が時折名前入れ替えゲームをして遊ぶことのあるのは他人には秘密だが、入れ替えても問題が生じないのだからおかしなものである。

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