見出し画像

82 とある殺人者の理知的な供述

 私、つまりこの人間は喜んでいるようだった。その証拠に、心拍数が増加し、血流が促進されている感があった。加えて言うと、一般的に楽しいと言われるべきことを行なっている状況において感覚の通奏低音を成す、あの、ありていに言うと「わくわくする」というような感覚が看取されるところがあった。

 それとは別のところで、「罪の意識」あるいは「良心の呵責」とでも呼ぶべき、忌避感を伴う感覚も当然のことながら生じていた。

 しかしそうした、一般的には「負の感覚」として腑分けされるべき感覚は、むしろ甘味に投じられたひとつまみの塩のように、「わくわくする」というような感覚をいや増すと同時に、肉に加えられた胡椒のように、そこに独特の変容をもたらしたのだった。

 われわれに知られた概念を用いて複合的に表現すると、それは「甘美な背徳」とでも言うべきものとなるだろう。

 この感覚印象は私、つまりこの人間がその手に持った凶刃をひとたび振るうごとに増していったように感じられた。それはまさに、われわれが食事において感じうるあの愉悦に、極めて似ていた。

 こう言ってよいのなら、私、つまりこの人間は、精神の食事のために当該対象の肉を割き、また当該対象の叫びを聴き、また当該対象の弱りゆくさまを観ることに注力した、ということになるだろう。

 これが詭弁でないとするのなら、私、つまりこの人間は、精神としての飢渇を感じており、その飢渇を満たすため当該行為に及んだということにもなろうが、これらの点に深く立ち入ることは私、つまりこの人間自身の認知バイアスを免れないため、第三者による客観的な評価が必要とされるところであろう。

 個人的な意見、と敢えて付言して述べるのなら、人間一般は、何らかの理由により精神の飢渇を催した場合、それを癒すため、食事に相当する行為に及ぶことがありうる、と推察される。その発露が一般的には「ホビー」や「レジャー」などと呼ばれる、社会的に害のない行為であることもあれば、私、つまりこの人間が今回行なったような反社会的行為となりうる可能性も否定できないものと思われる。

 私、つまりこの人間は一般的な観点から見れば特異な者と言えるかもしれないが、とはいえ人類史上唯一の者と言うにはあまりにも類例が多いことは歴史を通覧するまでもなく明らかであろう。

 これが私、つまりこの人間による自己弁護以上の意味を持つと理解される者にとって、有効な忠告となりうることを願っている。

 とはいえ、そうした飢渇を癒すため私、つまりこの人間が行なったような行為を回避するのに、他にどのような行為が代替可能であるかという点について、それなりに熟考したところで具体的な案が一つも浮かばないことについては気がかりと言わざるをえない。

 つまりこれは思考によって答えを導きうる事柄ではなく、むしろ生まれつきそなわった趣味性の問題、のように思われてならない。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?