「鬼棲む冥府の十の後宮」第一話
――……地獄に落ちたその時、その世界の王に懸想していたのは私くらいのものだろう。
◆
どこまでも続く暗黒の深淵。亡者の魂が集まる冥府――地獄とも呼ばれるこの地では、今日も二百種類もの逃れられない牢獄の中で、人々の悲鳴が響き渡っている。
罰を与えているのは鬼だ。赤や青、恐ろしい形相や人知を超える怪力をもってして人畜に危害を加える異形の化け物。
そんな鬼たちの横を通り過ぎ、こそこそ抜け出そうとする紅花の首根っこを掴んで引き戻したのは、紅花の姉貴分とも言える玉風だった。
「紅花! あんた、昨日も死者の魂を責めにいかなかったんですってね。今日という今日は逃さないわよ」
玉風は鬼も顔負けな恐ろしい形相で紅花に詰め寄った。
冥府には獄吏と呼ばれる、生前悪い行いをした亡者を様々な形で責め立てる役人がいる。獄吏に就く者は本物の鬼が殆どだ。しかし、中には元々人間で、何千万年もの間呵責を与えられた後、罰を卒業し獄吏として働く許可を得られた者たちもいる。紅花もその一人である。
異形の鬼たちに混ざり、赤や青の鬼の面を被って厳しい罰を与えている者は皆、元人間。元人間とはいえ獄吏になれば数々の道具や業火を自在に操ることができ、今日も来たばかりの〝後輩たち〟に痛みや苦しみを与えているのだ。
(元は同じ人間で、同じ目に遭ってきたのに、おかしな話ね)
紅花は獄吏になる適性があって選ばれたわけではない。卒業した後、まだ地獄にいたいと必死に泣きついてこの役職を得た。
「私、人が苦しむ顔を見ていられないの」
「はぁ~!? あんた、あの顔の良さが分からないっての!? 少しだけ希望を与えてやって奪った時の反応がたまらないんじゃない」
玉風は精神的な苦痛を与えるのが好きだ。玉風だけではない。紅花の周りの元人間の獄吏たちは、激しい痛みを乗り越えてどこか狂ってしまったのか、人を苦しめることを何よりの生きがいとしている。
(……私はああはなりたくないわ)
口に出さないが、紅花は彼女たちのことを鬼よりも恐ろしいのではと冷めた目で見ていた。
その時、遠くからゆっくりと軒車がやってきた。幌の被さった赤い色の派手な軒車は、閻魔王しか乗ることができないものだ。
周囲の獄卒たちがかしこまって身を低くしている中、紅花だけが軒車見上げていた。幌で隠れていて今日も顔は見えない。彼の顔を見たのは冥府に来て一度きりだ。
隣の玉風が慌てた様子で紅花の後頭部を掴み、頭を低くさせる。
軒車の行き先は、獄吏たちが決して立ち入ることのできない後宮だ。閻魔王が近付くと大きく威厳のある立派な門が開き、軒車を招き入れる。
紅花は閉まりゆく門を横目に見ながら、ちっと舌打ちをした。今日もろくに帝哀の顔を拝めなかった。それが悔しい。
玉風が手を離してくれたので、姿勢を戻して後宮の高い壁を睨み付ける。
(あの中に入れたら、もっとあの人を見られるかもしれないのに)
後宮内には十王たちそれぞれの私室があり、その東西南北に皇后や皇貴妃たちの棲む宮殿があるらしい。中はさぞ華やかなのだとか。
紅花の様子を見て、玉風が溜め息を吐いた。
「紅花は変わってるわよねえ。あんな恐ろしい男のことが好きだなんて」
第百五十代閻魔王、帝哀。生きていた頃の記憶などもうない紅花が、唯一覚えている最古の記憶の中には彼がいる。
地獄に落ちた人間は順次、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、泰山王の元で審理を受け、その七回で終わらない場合は平等王、都市王、五道転輪王とも会うことになる。彼らは十王と呼ばれる裁判官のようなもので、各王の庁舎では日々多くの人間が生前の罪を裁かれている。
紅花も、死して三十五日目、初めて閻魔王の帝哀に会った。
誰よりも美しいと聞いていた彼の顔は焼け爛れていた。曰く、彼は人を地獄に落とした分、その報いを受けているらしい。人に苦しみを与え、その責任として自身も苦しめている。閻魔王としての責任の重さと覚悟を感じた紅花は、何故かぽろぽろと泣いてしまった。彼を好きだと思ったからだ。
一兆六千億年間、彼にまた会いたいという気持ちで地獄をやり過ごしていた。
冥府を代表する紅の花々が咲き誇り、風も空もない冥府。
(あなたが欲しい)
閻魔王への恋心。ただそれだけが、紅花の魂をこの場所に留めているのだ。
■
離れていても、山の熱気がこちらまで来ている。
黒縄地獄は、生前殺生や盗みをした者が落ちる地獄だ。代表的な八大地獄は王たちが住む後宮の階層の地下にあり、その中の一つである黒縄地獄は地下二階に存在する。ここで罪人たちは獄吏によって熱鉄の縄で縛られ、熱鉄の斧で切り裂かれる。大釜で煮られることもある。
紅花は今日、その大釜の準備を頼まれたのだが、適当に他の鬼に頼んで抜け出してしまった。
(何が楽しくて人が煮込まれるところを見なきゃいけないのよ)
黒縄地獄の横にある獄吏専用の温泉に浸かって溜め息を吐く。この階層で趣味の悪い罰に使われている熱鉄の山。あの山のおかげでこんなに良いお湯に入れるのだけは喜ばしいことだ。
湯でほかほかになった紅花は、後宮のある上層階にさっさと戻ることにした。
後宮の近隣には獄吏専用の版築工法で造られた家屋が並んでおり、紅花もその内の一つで玉風と一緒に住んでいる。
今日もうまく仕事から逃げることができた。しかし、いつまでも人を苦しめずに獄吏として地獄にいることは難しい。
(後宮入りできたらなあ……)
紅花は少し離れたところから後宮の大きな門を見上げた。
冥府の長い長い歴史上、地獄の十王が獄吏を見初めて後宮入りさせた例がないわけではない。というか、むしろかなりある方だ。
後宮入りさえすれば獄吏としての仕事はせずに済む。そこに僅かな希望を持ちたいところだが――今の代の王たちは裁きの仕事以外では滅多に後宮の外に出ない。
それこそ、お会いできる機会があるとするならば、昨日のような移動時のみだ。
そこで紅花ははたと思い付いた。
(移動中の王様の目に留まることさえできれば、今よりは可能性があるのでは)
紅花は容姿に自信がある。水に映る自分の顔を見てもなかなかの美形だと思うし、獄吏たちの間で美人だが仕事のやる気がないと噂されているのを知っているからだ。それ故、顔さえ見てもらえればきっと王に気に入られることができるという根拠のない自信が湧いてくる。
悪巧みを考え気分が良くなった紅花は、鼻歌を歌いながら家の戸を開けた。
明らかに帰るのが早く、仕事をしていないであろう紅花を玉風が叱りつけたのはまた別の話である。
■
日によって死ぬ人間の数や罪は異なるため、王たちが裁判の場から後宮まで移動する時間は常にばらばらだ。中には後宮に帰らずずっと裁判を続ける日も多く、決まった時間に待っていれば必ず来るものでもない。
玉風に怒られるためずっと後宮の階層で見張っているわけにもいかず、しばらく王の移動用の車と鉢合わせることはできなかった。特に意識していない時は何度か見かけたのに、早く来てほしいと願う時には来ないように感じた。
運を待ち続けて八日目、ようやく、王の車が後宮の門に向かっていくのを見つけた。玉風と、家の隣で育てている薬草を摘んでいた時だった。
鬼たちが運ぶ、幌の被さった青い色の派手な軒車。あれは誰の車だったか。帝哀にしか興味がない紅花には、他の九体の王の物など全て同じに見える。
(帝哀様のお車じゃないのがちょっと残念だけど……これを逃したら次の機会がいつになるか分からないし)
薬草を集めていた籠を土の上に置いた紅花は、走りやすいよう服の裾を捲くり上げた。手に付いた泥を払い、前髪を整えてから、向こうに見える後宮の門に向かって走り出す。紅花の突然の行動に、玉風がぎょっとしたのが視界の片隅に映った。
冥府では、鬼が就く職業は獄吏だけではない。書記官として王の隣で働いている者もいれば、王の后の侍女をする者、後宮内の掃除をする者まで様々だ。今目の前に見えている、王の車を運ぶような運び屋も鬼である。
走って突っ込んでくる紅花の存在に最初に気付いたのも運び屋の鬼だった。こんなことは初めてなのか、驚いて火を放ち紅花を止めようとしてくる。
身軽な紅花はその攻撃を避け、計画通り車の進行方向に入った。運び屋達は慌てて足を止める。急に止まったため、王が入っている箱が大きく揺れた。
次の瞬間、紅花は首根っこを掴まれ勢いよく後ろに引っ張られた。
そこにいたのは、走って追いかけてきたらしい玉風だ。玉風が紅花を怒鳴りつける。
「何やってるの! 王の行く手を阻むなんて、重罪よ!?」
「え」
重罪?
きょとんとした紅花に、玉風が泣きそうになりながら再度言った。
「打首もんよ!」
「打首?……それだけ?」
獄吏が人間たちに与えている苦しい罰を見てきた紅花にとっては拍子抜けな内容だ。紅花があっけらかんとしているのを見てわなわなと体を震わせた玉風は、次にはっと気付いたように慌てて王の車に向き直り、頭を下げる。
「大変申し訳ございません、飛龍《フェイロン》様! この者は不勉強で、冥府の決まり事が全く頭に入っておらず……! 知らなかっただけで、悪気はなかったものと思われます! きつく言っておきますので、どうか、どうか御慈悲を……!」
飛龍。第百代宋帝王の名だ。これは宋帝王の車だったのか。
幌の隙間から、見目麗しい男性が降りてくる。
筋の通った高い鼻、人とは違い先の尖った耳、緑色に輝く瞳、一つに結い上げられた美しい黒髪に、豪華な冕冠と袞服。どこを取っても王の威厳を感じさせる容姿である。
ここまではっきりと顔を見たのは、死して二十一日目、彼に現世での邪淫の有無を調べられた以来だ。
その鋭い眼差しに、一体何を言われるのだろうと緊張してごくりと唾を呑み込む。
しかし、次の瞬間――飛龍はへらりと笑った。先程までの威厳はどこへやら、親しみやすい笑顔である。
「君、わざとでしょ。何のために突っ込んできたの?」
軽い口調で問いかけてくるので、紅花は頭を下げずに答えた。
「王様に気に入られ、後宮に入れてもらうためよ」
隣の玉風が怪訝そうに目だけでこちらを見上げてくる。何を言っているのだこいつは、という目だ。
飛龍が、はははっと高らかに笑った。
「なるほどねぇ。俺たちに気に入られるためにつまらない小細工をしてくる獄吏の女はこれまでにもいたけれど、正面から堂々と突っ込んできた子は初めてだよ」
ゆっくりと歩いて紅花に近付いてきた飛龍は、がっと紅花の頬を片手で掴んだ。突然乱暴な真似をされたが、紅花は動じずに飛龍を見据える。
上等な、甘い香の香りが漂った。
「でも残念だね。生憎、俺は妻たちと男にしか興味がない。俺がこの冥府の最下層、獄吏なんかに惹かれる安い男に見えるかい?」
その緑色の目は冷ややかだ。飛龍は短く指示を出す。
「この者たちを捕まえろ。連れていく」
刹那、紅花の両隣に煙が立った。現れたのは王の護衛の鬼だ。紅花の体は拘束され、玉風も捕まってしまった。
「……後宮へ入らせてくれるの?」
「何を勘違いしているのか知らないけどね、後宮はそう良い処ではないよ。良い暮らしができるのは身分の高い者だけだ。後宮内にも汚れ仕事は沢山ある。臭くて汚くて恐ろしい仕事をして、その浮かれた頭を叩き直すといい。いやあ、俺って優しいね。頭の弱い獄吏をすぐ打首にせず、〝躾〟をしてあげるんだから」
優しい笑顔を浮かべながら、言っていることは残酷だ。
飛龍の口ぶりからして、これから紅花たちは酷い扱いを受けるのだろう。可哀想なのは、紅花を止めるために飛び出してきた玉風である。
「そちらの玉風お姉様は解放して。ここまで走ってきたのは私の意思で、お姉様は関係ない」
「意思がどうであれ、俺の車の行く手を阻んだのは君たち二人だよ。片方だけ許すなんて甘い真似、俺がすると思う?」
――運が悪かった。
よりにもよって、今日見かけたのが鬼より鬼畜と有名な飛龍の車とは。
隣の玉風の顔が青ざめている。
紅花は他者を巻き込んでしまったことだけは後悔した。
しかし、それ以上に――どんな酷い目に遭うことになろうが、閻魔王の棲む後宮に一度でも足を踏み入れる機会を与えられたことが、内心喜ばしかった。
美しい庭園や池、豪華な装飾が施された橋、いくつもそびえ立つ大きな宮殿、鶴や虎などの動物の像――紅花にとって見たことのない光景がそこには広がっていた。暗く湿っぽい、長く滞在するだけで気分が落ち込んでくる八大地獄とは大違いだ。後宮内は紅花が想像していたよりもきらびやかだった。
武官や侍女、下女や鬼たちが定められた着物を纏い、様々な仕事に従事している。鬼に運ばれながら、横目にその様子を見てわくわくした。
冥府の後宮は、大きく十個の区域に分かれる。十個の区域の中にそれぞれ王の私室である養心殿があり、その周りに王の複数の妻や女性を住まわせる宮殿がある。後宮は基本的に王以外の男子禁制なのだが、男色家である現宋帝王・飛龍のために、宋帝王の区域のみは男も沢山いるらしい。
飛龍は紅花たちのことを気にも留めず、飽きたようにさっさと私室である養心殿に向かってしまった。紅花と玉風は鬼たちに拘束されたまま、冷宮と呼ばれる質素な物置小屋のような場所に連れてこられた。
冷宮の入り口の前で紅花たちを降ろした鬼は、「魑魅斬《ちみぎり》様、連れて参りました」と誰かに呼びかける。すると冷宮の扉が開き、中から筋肉質な男が出てきた。
扉が開いた途端、うっと隣の玉風が口を手で押さえた。
――酷い悪臭がする。
「ここは鬼の死体を処理する宮だ」
魑魅斬と呼ばれた、筋肉質な男が淡々と説明してくる。小麦色に焼けた肌と、顔の傷跡が印象的な男だ。彼の手の中には鬼の血で汚れた桃氏剣があった。
「嬢ちゃんたちにはこれから、ちと酷だが、後宮の汚れ仕事〝鬼殺し〟をしてもらう」
「鬼殺し……」
玉風が絶望の表情を浮かべる。
鬼は、死ぬ時に独特の異臭を放つ。それこそ、気分が悪くなるだけでなく、嗅げばその後数日は体調を崩すほどの異臭だ。そのため、寿命が近付き狂った鬼の処理や、死体の片付けは、冥府で最も忌み嫌われる仕事である。
「後宮には鬼が多いんだよ。鬼は優秀だが、ふとした瞬間に狂う。毎日数体は殺さねばならぬ鬼が出てくる。そういう鬼を狂鬼と呼ぶ。――そして、後宮にしか現れない鬼もいる」
魑魅斬が冷宮の天井を指差した。ゆらゆらと白い靄のようなものが蠢いている。確かに、紅花は見たことのないものだ。しかしあれが鬼の一種であることは分かる。先程から何度も――呼びかけてくるから。
「あれは、地獄で苦しみ続ける死者の恨みが具現化したもの。幽鬼と呼ばれている」
「そんなものが……」
「地獄に落とされた人々は、自身を裁いた十王が余程憎らしいんだろうな。あのような生霊を日々飛ばしてくるくらいだし。いや、死者なんだから、生霊とは言わねーか?」
何がおかしいのか、魑魅斬がくっくっと笑った。
その時、玉風が床に向かって嘔吐する。鬼の死体の異臭に耐えられなかったのだろう。既に顔からは血の気が引いており、体調も悪そうだ。
「……玉風姉様は別の場所で休ませてくれないかしら。私の方がこの臭いには強いようだし」
「なんだ、弱っちいな。ま、使い物にならないなら仕方ねえ」
魑魅斬がつまらなそうに桃氏剣を持ち直すので、紅花は慌てて玉風を庇うように立ちはだかった。
「殺さないで」
「おいおい、嬢ちゃん、後宮では仕事のできない奴は殺されるんだぜ。この場所はそう甘くねえよ」
後ろで苦しんでいる玉風をちらりと見た紅花は、覚悟を決めて言い切った。
「なら、玉風姉様の体調が治るまで、私が玉風姉様の分の仕事も引き受けるわ」
「……初心者が、最初から十分に殺しの仕事ができると?」
「死者の魂を苦しめ続ける獄吏の仕事より、ひと思いに殺せる殺しの方がよっぽど心が楽よ」
本当はやりたくない。でも、玉風をこんなところまで来させてしまったのは自分だ。その責任は取らねばならないと思った。
魑魅斬はふん、と鼻を鳴らし、一枚の地図を紅花に投げてくる。
後宮内の地図のようだった。受け取ってから真っ先に探したのは、閻魔王の養心殿の位置だ。残念ながら閻魔王の区域はこの後宮の最北であり、南に位置する宋帝王の区域とは真逆の方向にある。
(同じ後宮内とはいえ、徒歩で行こうとすれば物凄い距離ね……)
少なくとも、夜に冷宮を抜け出してこっそり迎えるような距離ではない。
(空を飛べる鬼に協力してもらって運んでもらおうかしら)
悪巧みを考えていると、魑魅斬が宋帝王の区域内の御花園と書かれた庭園らしき場所を指差す。
「ここによく幽鬼が出るという声が上がっている。下女たちが怖がって仕事に差し支えるようだから、さっさと駆除してこい」
「……分かったわ」
「普通の武器で鬼は殺せねぇ。これを持ってけ」
魑魅斬が持っていた桃氏剣を渡してくる。想像以上の重さだ。
「嬢ちゃん、これまでは鬼と仕事してきたんだろ。だが、幽鬼や狂鬼は普通の鬼とは違う。意思を持たない化け物だ。躊躇いなく殺せ。できるか?」
「選択できる立場じゃないし、言われなくてもやるわよ」
「いい子だ」
紅花の強気な返事が気に入ったのか、魑魅斬はくっくっと低く笑うのだった。
■
仕事とは、最初から誰の助けもなくできるものだっただろうか――と紅花は疑問に思う。
魑魅斬から与えられたのは桃氏剣と、幽鬼の死体を入れるための箱と、幽鬼が出るという場所の情報だけで、それ以外は何も持たずに冷宮から出されたからだ。やるとは言ったが、最初から丸投げされるとは思っていなかった。
しかし、魑魅斬はわざわざ冷宮の上階、少し鬼の死体の臭いが弱い場所に玉風の寝床を確保してくれたため、あまり文句は言えない。今は玉風を殺さずにいてくれただけでも感謝しなければならないだろう。
地図を見ながら御花園に着いた紅花は、視界いっぱいに広がる景色に見惚れた。青や黄、紫など、色とりどりの花が咲き誇っている。
久しぶりにこんなに多種類の花を見た。これほど花を植えられるのは後宮だけだろう。外で熱に弱い花を育てればたちまち地獄の熱で焦げてしまう。外廷に咲いているのは、熱に強い血のように真っ赤な花だけだ。
『幽鬼 ヲ 捜しに 来た ノ』
――声が聞こえる。花の声である。
『ここには いない ヨ』
「……ここにいると聞いたのだけど」
『昨日は ココ だった でも 今 は 養心殿 ノ ちかく』
「分かった。教えてくれてありがとう」
教えてくれたのは紫色の、花弁が六枚ある花だった。紅花はその花に微笑みかけた後、再び地図を確認して宋帝王の養心殿へ向かう。
(勝手に近付いたら駄目だったらどうしよう……)
宋帝王、飛龍の立派な宮殿が見えてきた辺りで不安になってきた。地獄の十王のうちの一人の住処に下手に近付いて怪しまれでもしたら今度こそ打首だ。
おそるおそるといった感じで養心殿近くの池に近付いた紅花は、奥から人の声がするのを聞いて立ち止まる。
「いけません、飛龍様……! 貴方のようなお方と僕では釣り合いが取れません!」
「身分を言い訳にする男は嫌いだよ。ほら、俺に身を任せて……」
「あっ……そこは……そこを触ってはなりませぬぅ!」
(………………)
飛龍が、格好からしておそらく武官らしき男を襲っている。とんでもない場面に出くわしてしまったと思い、紅花はげんなりした。
飛龍が男色家であることは後宮の外でも知られていることだ。彼は何人もの妻を持つにも拘わらず、何人もの男にも手を出していると聞く。
さっさとこの場を立ち去り、部屋へ連れ込んでくれないだろうか。このままでは幽鬼を捜すに捜せない。
体を弄られている武官と飛龍の様子を物陰からこっそり窺っていると、飛龍の動きがぴたりと止まった。
「――誰だ」
低い声で問いかけられる。
今逃げたらややこしいことになると思い、紅花は諦めて姿を現した。
「君……さっきの……」
「うっ! 鬼の死体の臭い……鬼殺しですか」
紅花が近付くと武官は不快感を顕わにし、自身の鼻を摘む。冷宮に居たのは少しの間だが、既に臭いが体に移ってしまっているらしい。
「こちらに幽鬼がいると聞いて来たのだけれど、取り込み中だったからさっさと退いてくれないかと待っていたのよ」
事情を説明し、場所を変えてくれないかと伝える。
しかし、飛龍は興が冷めたように「また今度にしよっか」と笑顔で武官を追い払った。既に下半身が露出されていた武官は慌てて服を着直し、素早く去っていく。
「鬼の死体の臭いを嗅いだ後じゃ、気分も乗らないからね」
飛龍はそう言い、池の近くにある椅子に腰を下ろした。これから鬼殺しをするというのにまだここにいるつもりらしい。
紅花は空中を見つめ、目視で幽鬼を捜しながら興味本位で飛龍に問う。
「宋帝王の区域のみ後宮なのに男性の出入りが許されていると聞くけれど、本当なのね」
「ああ、そうだね。後宮にいる男は大体俺のお手付きだよ」
「皇后様や皇貴妃様はこのことをご存じで?」
「俺がこういう奴だってことは皆知ってるよ。妻のことは好きだけど、それはそれとして男が好きなんだよねえ」
「…………」
宋帝王は一応、邪淫の有無を調べ、裁く王であるはずだ。その王自身がこのようなことで良いのだろうか。
そこでふとあることを思い付く。
「まさか、魑魅斬も……?」
大体お手付き、という言葉に引っかかった。あの屈強な男が飛龍の下に敷かれるなど想像も付かないが、この後宮内にいるということは飛龍のお相手でもおかしくはない。
飛龍はにやりと笑った。
「さあ。どう思う?」
答える気はないようだ。そもそもどちらでも紅花には関係がない。これ以上無駄話をするのはやめておこう、と飛龍の傍を離れる。
その時、声がした。
『お前の刀、嫌いだ』
見上げると、池の近くの木々の間で、白い靄のようなものがゆらゆらと揺れている。実体はないが、紅花の方を見ているように感じた。
(何が〝意思を持たない化け物〟よ)
花よりもはっきりと声が聞こえる。おそらく幽鬼にも思考はあるのだろう。
「後宮から出ていってもらうことは可能かしら?」
幽鬼に向かって問いかける。
先程の説明通りであれば、幽鬼は死者の魂の中にある憎しみのようなものだという。生前の罪を裁き、地獄に落とした十王を恨んでいるというのであれば筋違いだ。
「罪の責任は、取るべきものよ。恨むなら自分自身にしなさい」
『ア……ア……嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼――』
さっきは確かに言葉を喋っていたのに、突然意思疎通が困難になった。
強風が吹き、勢いよく白い靄がこちらへ向かってくる。紅花は咄嗟に桃氏剣を幽鬼に向かって投げた。ずしゅっと確かに何かを刺したような音がし、直後、悲鳴が木霊す。鼓膜を破られる程の大音量に、思わず耳を押さえて蹲る。
悲鳴はしばらくして途絶えたが、がんがんとした頭痛がいつまでも続いた。
【次話】
第二話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n4616b3dabd0c
第三話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n30b2a7f6b008
第四話:https://note.com/awaawaawayuki/n/ndf8ee2756ae8
第五話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n5896d942061b
第六話:https://note.com/awaawaawayuki/n/nb73134b4d58d
第七話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n57976e81e41f
第八話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n0af91f6adc12
第九話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n90e1bc372abe
第十話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n26345b9ef449
第十一話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n8c12a6a7382c
第十二話(完):https://note.com/awaawaawayuki/n/n201b3c4bcfea
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