見出し画像

「鬼棲む冥府の十の後宮」第五話

 ■

 幌の被さった青い色の派手な軒車。ある意味思い出深いそれに乗って、紅花は宋帝王・飛龍と共に閻魔王の区域へ向かうことになった。
 魑魅斬は元々花の件が解決すれば紅花に休暇を与えるつもりだったようで、あっさりと送り出してくれた。

 外の鬼が力を入れると、軒車は宙に浮き、宮殿よりも高く舞い上がる。遠くなっていく宋帝王の区域を見下ろしながら、何だか感慨深く思った。

「……ありがとう、飛龍」

 思えばこの軒車の行く手を阻むことがなければ、こうして後宮入りし、閻魔王の区域へ向かうこともできなかった。飛龍にとってはただの気紛れで、気に入らない獄吏を苦しめたかっただけかもしれない。でも、そのおかげでこうして好きな人に会いに行ける。

「君を後宮に招いたのは間違いだったかもしれないね」

 飛龍は昨夜から不機嫌だ。天愛皇后が紅花をこれほど気に入ることは想定外だったのだろう。昨日は紅花の話ばかりで夜伽もできなかったらしい。

「今からでも追い出そっかなぁ。後宮から」
「それだけはやめて。絶対に。絶対に嫌」

 飛龍がとんでもないことを言い出すので慌てて拒否する。
 もうすぐ閻魔王と会えるというところで追い出されては悔やんでも悔やみきれない。本当にやめろ、という目で飛龍を睨み付けると、飛龍は愉しげに笑みを深めた。

「もっと必死にお願いしてよ。地べたに這いつくばって俺の靴を舐めるくらいのことをしてくれたらお願いを聞いてあげないこともないよ」
「それも嫌」
「君ほんっと態度悪いね? 喜べよ、俺の靴舐めれんだぞ」
「それで喜ぶのは貴方の愛人の男たちだけでは?」

 鬼の運ぶ軒車の移動速度は速い。
 飛龍とくだらない言い合いをしているうちに、早速閻魔王の区域の大門が小さく見えてきた。

 幽玄で神秘的な雰囲気に包まれた、赤く輝く大きな門だ。その威圧感にごくりと唾を飲んだ。
 鬼の門番たちは宋帝王の乗り物の姿を確認すると、重い大門を開く準備を始める。
 門番鬼はこれまで見てきた獄吏の鬼よりもうんと恐ろしい形相をしている。面と向かって話すには緊張しそうな程恐ろしい顔だ。

(確かに、一人で交渉するのは難しかったかも……)

 元宵節の時期でない場合、他区域に入るには、あの門番に交渉を持ちかけなければならないらしい。
 紅花は当初、門番くらい倒して中に入ればいいなどと過激なことを考えていたが、あの大きな体を一人で倒すことはかなり難しそうだ。
 改めて天愛皇后が与えてくれた貴重な機会に感謝した。

 門を潜ると、宋帝王の区域とは違い、石の舗装路が静かに延びていた。一目見て植物が多いと感じる。舗装路の両端に古い松や梅の木があり、その枝は曲がりくねっていて、時折青い月光が葉を透過している。宮廷の女性たちは優雅な着物を纏い、静かに歩き回ったり、立ち止まって木々の花を鑑賞したりしていた。

「……月」

 紅花は驚いて上を見上げた。

「月があるのね。閻魔王様の後宮って」

 月を見たのは一兆年ぶりだろうか。冥府には空がない。紅花が知る限り、天体もないはずだ。おそらくあの月は歴代の王が観賞用に造ったものだろう。植物が多く植えられているところから見ても、過去の閻魔王たちは目に映る美に重きを置く性質だったのかもしれない。

「帝哀のお父上がまだ閻魔王だった頃に造ったものだよ。この区域でだけ見えるんだ」
「素敵……」
「そう? 月って不吉じゃない? 俺は趣味悪いなあって思ったけど」
「帝哀様のお父様に対して何てこと言うのよ、不敬よ」
「宋帝王である俺に向かって敬語も使わない君が不敬とか言う?」

 飛龍がひくりと片側の口角を引きつらせる。
 確かに自分がどうこう言える話ではないと思い紅花は口籠った。

 幌の間から少しだけ顔を出し、月を眺めていると、青白い光を放っていたそれがゆっくりと赤く染まっていく。紅花は月の色が変わったことに驚いて身を乗り出した。
 次の瞬間、後ろから腰に手が回ってきて引き戻される。手の主は飛龍だった。

「軒車の中でくらい大人しくしなよ。落ちたらどうすんの」
「そんな間抜けなことしないわ」
「幌から顔を出すなんてことも本来は望ましくないんだよ。君みたいな非常識な子のことは縄で縛って連れてきた方が良かったかな?」

 笑顔で恐ろしいことを言われた。飛龍なら本当に縛ってくるかもしれないと思い、大人しく座り直す。

「月が赤くなったのだけど、あれは何?」
「閻魔王が罰を受けた日は赤くなる」
「罰を受けた日……」

 今日も帝哀は人を裁き、その責任を取ったのだ。
 それであんな焼け爛れた顔に――。

 想像した刹那、紅花の脳裏を過ぎった記憶があった。
 あの月のように赤い血溜まり。両親の血だ。紅花の手には刃物があった。目の前にある鏡に、親の仕置きで焼け爛れた顔が映る。その顔は醜く歪んでいた。

「……っ」
「どうした?」
「……いえ、何でもないわ」

 ――生前の記憶? 何故、今更。

(私にはもう不要なもの。一兆年以上前の記憶なのに)

 記憶とは不思議なものだ。一切思い出せなかったものを、何かをきっかけに不意に思い出すことがある。

「……女性ばかりね。この区域は」

 気を取り直すようにして、外の様子について言及した。

「当たり前でしょー? 後宮に王以外の男は入れない」
「貴方は男を大勢連れ込んでいるけどね」
「俺が許可すれば何でも許されるんだよ。なんてったって、俺は王様だからね」

 軒車が止まった。ようやく閻魔王の宮殿の前に到着したらしい。
 通ってきた道の途中には沢山の鬼と人が行き交っていたのに、ここには誰一人いない。宮殿は不自然な程の静寂に包まれている。
 紅花と飛龍が車から降りると、車は鬼と共に音もなく消えた。
 飛龍が近付いて宮殿の扉に何か唱える。すると、重たく閉じられていた扉がゆっくりと両側に開いた。

 宮殿内部は――質素だった。天愛皇后の宮殿の壁には絢爛豪華な絵画が飾られていた。しかし、王の宮殿にしては、ここには何もない。香木がいくつか置かれているくらいで、絨毯の色も地味だ。帝哀は己の住む場所を飾ることに興味がないらしい。

 飛龍に付いていくと、茶の香りがしてきた。
 部屋の大きな椅子に帝哀が座っている。その姿は優雅だったが、彼は紅花を視界に入れた途端眉を寄せた。

「誰か連れてくるとは聞いていないが」

 真っ先に出てきた言葉は、飛龍への非難だった。

「俺も別に連れてきたくはなかったんだけどね。天愛がこの子を気に入っちゃって、連れて行けって言うからさ」

 飛龍はそう言いながら、帝哀の正面の椅子に腰をかけた。

「彼女が? 何故?」
「さぁ? この子が君のこと大好きだから、会わせてやりたいと思ったんじゃない? ったく、どこまでお人好しなんだか」

 椅子は他にも二つあるが、許可なく座っては失礼だろうと思い身を低くして待つ。
 卓の上の数個の小さな茶器から湯気が出ている。蒸した茶葉を搗き固めて乾燥させた餅茶だ。

「熱いうちに飲め」

 それは紅花への言葉ではなかった。
 帝哀はまるで紅花の存在を無視するかのように飛龍に茶を薦めたのだ。

(やはり、人間はお嫌いなんだわ)

 同じ卓を囲むことも許されない。身分差からしても分かっていたことではあるが、ちくりと胸が痛んだ。

「そういえば最近、長子皇后とはどうなの?」

 長子というのは帝哀の正妻の名だ。
 好きな人を前にすっかり頭から抜け落ちていたが、紅花たちは今、天愛皇后に閻魔王の皇后について探れと言われてここに来ている。天愛皇后のご命令も忘れるわけにはいかない。

「どう、とは?」
「帝哀が昔からどの妃の元にも通ってないっていうのは周知の事実だけどさ、皇后の元にも行ってないっていうのは本当? そろそろ後継を作れって文句言われるんじゃない?」
「…………」
「君は王になってからかなりの年月が経ってるのに、子を一人も作ってない――王としての役目を果たしていないのと同義だ」

 飛龍の発言にかちんときた。
 客人として饗されていないのは承知の上で、会話に横入りする。

「お言葉だけど、帝哀様は誰よりも王として働いているわよ」

 帝哀の目がようやく紅花の方に向けられた。

「子をなすことが王としての役目? そうじゃないでしょう。冥府の王の仕事は人を裁くこと。閻魔王である帝哀様は誰よりも誠実に裁判をこなした上で、人を罰することへの罰も受けてる。他の王よりもずっと王らしい人だわ。自分が沢山の妃と仲良くしてるからって、それだけが王として正しいことみたいに言わないで」

 しん、と室内が静まり返る。

「……お前の区域では鬼殺しにどういう教育をしてるんだ?」

 一拍遅れて、帝哀が怪訝そうに飛龍に問うた。
 王の発言に反論するなど常識では考えられないことだからだろう。

 あははっと飛龍が笑った。

「面白いっしょ、この子」
「面白い? 他の王の前でこの態度を取らせてみろ、即刻斬首されるぞ」
「心配してあげてるの? 優しいねえ、帝哀」

 眉を寄せる帝哀。帝哀の表情の変化の一つ一つが、紅花にとって素晴らしいものだ。思わずそのご尊顔を凝視していると、ばちりと目が合う。

「……何をしている。さっさと座れ」

 帝哀は無表情で言い放った。同じ卓を囲む許可が出たのだ。

「は、はいっ」

 焦って近付くが、焦りすぎたのか段差に躓いて転けてしまった。ぶっと飛龍がまた噴き出す。
 恥ずかしくて耳まで熱くなるのを感じた。勢いよく立ち上がり、何事もなかったかのように着席した紅花に、隣の帝哀が言う。

「慌ただしい娘だな」
「勿体ないお言葉でございます……」
「別に褒めてはいない」

 帝哀は小さな茶器を手に取り、話を先程のものに戻す。

「飛龍。先程の件について答えておくが、俺は後継者を作るつもりはない」
「はぁ~? それ、本気で言ってる? 何で?」
「閻魔王という役目を他の誰かに任せようとは思えないからだ」

 今度は飛龍が怪訝そうな顔をした。

「そんな我が儘はいつまでも通らないよ、帝哀。冥府が滞りなく機能するには、十王という舞台装置が必要だ。君にだっていつか老いは来る。その時閻魔王の後継者がいなければ困るだろ?」
「少なくとも今は必要がない」
「ったく、長子皇后との子作りの何がそんなに不満なの? 君んとこは子供の頃からの仲なんでしょう?」

 飛龍があまりに帝哀の夫婦関係についてずけずけと踏み込んでいくためぎょっとした。

 帝哀の正妻・長子は元々身分が高い女性で、子供の頃から閻魔王の次期妻としての教育を受けていたと聞いたことがある。それは古くから決められた婚姻だったそうだ。
 帝哀が皇太子に冊立されると、予定通り長子は皇太子妃となり、その後帝哀が即位すると同時に皇后に冊立された。天愛皇后の場合とは違い、周囲の誰も文句を言えない、祝福された結婚だったらしい。

(……気に入らない)

 帝哀のことが好きな紅花にとっては嫉妬してしまう話だ。

「あいつとはもう数千年程会っていない」

 しかし、帝哀の発言によって腹立たしさが収まった。

「しきたりに基づき、勝手に事が進んだだけの話だ。あいつも俺に通われなくてほっとしているだろう」

 どうやら帝哀と長子皇后の夫婦関係は冷え切っているらしい。冥府全体としてはよろしくないことだが、紅花は内心喜ばしく思った。すかさず質問を投げかける。

「では、帝哀様はどのような女性が好みなのですか? 長子皇后様のような身分が高くて完璧な女性でも駄目と言うなら、一体どのような方であれば帝哀様のお眼鏡に叶うのかと興味があります」

 貴方の好みが知りたいです、という目でじっと見つめた。
 帝哀は茶を一口飲んだ後、吐き捨てるように言う。

「嘘を吐かない女だ」
「……長子皇后様は嘘つきなのですか?」
「嘘を吐かぬ女など滅多に存在しない。後宮の女は狡猾だ。騙し合い、貶し合い、自己の利のためであれば手段を選ばない」

 横から飛龍が会話に入ってくる。

「え~それがいいんでしょ。狡い女好きだよ? 俺は。俺のこと、醜く奪い合ってくれると最高の気分になる」
「お前と一緒にするな」

 そこからしばらく、飛龍と帝哀の会話が続いた。
 紅花は先程の帝哀の発言について深く考え込んでしまい、その後の二人の会話の内容はあまり頭に入ってこなかった。

 ■

 帝哀は鬼も人も信用しておらず、宮殿には一人の使用人も置いていないらしい。そのため、三人の中で最も身分の低い紅花が茶器を片付け、掃除も行った。
 あっという間の時間だった。帝哀の、声も仕草も表情の僅かな変化も好きだ。できることならもっと堪能していたかったが、帝哀にはこの後裁判があるらしいので無理に滞在し続けるわけにもいかなかった。

 去り際、帝哀を振り返って言う。

「帝哀様、好きです」

 帝哀は眉を潜めた。

「以前も聞いた。同じことを何度も言う必要はない」
「…………覚えていてくださったのですか? 私のこと」
「道案内をしてくれただろう」

 ――そんな、些細なことで。
 帝哀の記憶の一部に自分がいることが、涙が出そうになる程嬉しい。あの時あの御花園にいたのが自分で良かったと運に感謝した。

「そういうところも大好きです」
「時間がない。余計なことを言うのであれば早く出ていけ」
「私は嘘を吐きません。帝哀様への気持ちが本当であると、必ず証明してみせます!」

 意気込みを語るが無視された。
 あまりしつこくしすぎても嫌われる。今日のところはこの辺で立ち去ろう……と踵を返し、待ってくれていた飛龍の元へ走った。

 何とか追いついて飛龍の隣に並ぶが、飛龍は紅花のことを見ずに無言で歩き始めた。

(……何か、機嫌悪い?)

 軒車までの道、一度も口を開かない飛龍を見上げる。
 飛龍はわざとらしく大きめな声で言った。

「君を連れてくるの、もうやめよっかな~」
「はぁ!?」

 ぎょっとして次の言葉を待つ。

「だぁってぇ~、君帝哀がいると一度も俺のこと見ないんだもん」
「……そんなこと?」
「そんなことじゃないよ。俺、王だし。そんな態度取られたの初めてだから気に食わないなぁ」
「……それは、失礼しました」

 下手なことを言って本当に連れてきてもらえなくなったらまずいと思い、大人しく謝罪した。
 飛龍はむっとしながら紅花の両頬を摘んで引っ張ってきた。

「い、いひゃい」
「君のその無礼な態度は一生変わらなそうだからもういいよ」
「謝ったのに……」

 ふんっと鼻を鳴らして軒車に乗り込んでいく飛龍。さすがにそろそろ少しは敬意を示した方がいいのかもしれない。彼がいなければ帝哀には会えなかったという恩もある。今度何か贈り物をしよう。
 軒車に乗り込むと、どこからともなく送迎を仕事とする鬼が現れ、車を持ち上げた。閻魔王の区域内は飛行が禁止されているため、門までゆっくりと歩いて移動している。

『ネェ』

 門まであと少しと言うところで、何かの声が聞こえた。
 その声につられて帳の隙間から外を覗くと、――時が止まったかのような静かな絶景が広がっていた。
 まるで桃源郷だ。清らかな川が流れ、水面を金色に輝く魚が泳いでいる。一面、桃の花が優雅に咲き誇っており、花の香りが紅花の元まで漂ってきた。

『聞こえて ル?』

 花の声だ。

『わたしたちの主ガ悲しんでいる』

 主? と不思議に思い、目を動かして他に人がいないか確認した。
 咲き誇る桃の木の下、身分の高い妃のみが手にできる桃色の傘を持った女性が一人、立っていた。闇に溶け込む程真っ黒な長い髪と、対照的な白い肌、不健康な程に細い手足が見える。

『助けてあげて』

 軒車の移動速度が上がり、桃源郷が遠退いていく。
 桃の花が主と呼んだ彼女は――月を見上げて泣いていた。

 ■

「長子皇后ね、それは」

 ゆったりとした美しい衣装を身に纏い優雅に腰かけているのは天愛皇后だ。薄桃色の髪と金色の瞳は今日も美しく輝いている。その横では、何人もの侍女たちが曼珠沙華柄の団扇で天愛皇后に風を送っていた。
 後から聞いた話だが、あれ以降侍女たちの天愛皇后への態度は大きく変わったらしい。罪を犯した自分たちを許してくれた人だ。通常であればその広い心に尊敬の念を抱くだろう。
 紅花も、見せしめとして殺されかけた掃除鬼のことを思うと天愛皇后を簡単に尊敬することはできないにせよ、思慮深い人であることは確かだと彼女を評価している。

「長子皇后……ですか。あの方が」
「ええ。長い黒髪をそのまま下ろしているなら長子皇后よ。他の者は基本的に髪を結っているもの。それに、桃の木が多く植えられているのは長子皇后の宮殿の隣の御花園だしね」

 帝哀の正妻ということで、獄吏をしていた頃から流れてくる噂にはよく耳を傾けていた。帝哀とは幼い頃からの仲であることや、後宮にいる女性の中でも特に身分が高く、最高位の教育を受けていることなどは知っている。しかし、実際にその姿を目にしたのは初めてだった。

「どうだった?」

 天愛皇后が愉しげに聞いてくる。
 紅花は昨日見た長子皇后のことを思い浮かべる。

「悔しいですが……品格がありました」

 紅花も容姿には自信があるが、あれとは別種だ。
 知性と教養を感じさせるような静かな美。黙っていても皇后の風格が滲み出ていた。冥府の王の隣に立つ者はあのような女性でなければならないのだろう。

「諦める?」
「まさか」

 天愛皇后の問いに即答する。
 恋敵が強いからと言って諦めるくらいなら、一兆年を超える地獄の日々のどこかで既に諦めている。分の悪さで身を引く程聞き分けが良くなったつもりはない。
 すると、天愛皇后は満足げに笑った。

「貴女ならそう言うと思ったわ。ただ……しばらく飛龍は多忙なのよね。貴女をどうやって閻魔王様の区域に送り込もうかしら」

 さすがに、日々裁判で忙しい宋帝王ともあろうお方を頻繁に他区域に連れ出すわけにはいかないようだ。
 天愛皇后はしばらく考えるような素振りを見せた後、ふと何か思い付いた顔をした。

「そうだ、貴女は花の木の手入れをするためにわたくしが送り込んだ庭師ということにいたしましょう」
「にわし……」
「花の声が聞こえるのでしょう? 適任じゃありませんこと?」
「声が聞こえるというだけで、造園を学んだことはありません」
「これから学べばいいじゃない。……貴女、教えるのがうまそうな庭師を呼んできてくださる?」
「かしこまりました、天愛皇后様」

 天愛皇后がちらりと侍女に目をやると、侍女はうっとりとしながらすぐに立ち上がり去っていく。態度が以前と違うにも程があるのではないかと思った。もしかすると、あの侍女は既に天愛皇后のお手つきやも……。

「閻魔王様の区域の人々は、特に植物を愛でる傾向があるの」
「ああ……」

 確かに、宋帝王の区域よりも木々や花が多いと感じた。

「この区域では庭師というのはあまり重要視されていないけれど、閻魔王様の区域では違う。庭師は立派な職業として扱われていて、その腕を競い合っているわ。帝哀様はまだ子を授かっていないでしょう。その分妃たちの間の争いも激しくて、いかに宮殿の傍の御花園を美しくするかに力を入れているの。優秀な庭師は外の区域からの者でも喉から手が出る程欲しいはずよ」

 成る程、通ってくれない王をその気にさせるために、宮殿の外だけでも美しく保っていたいということか。子作りに無関心な帝哀も、美しい植物の前では立ち止まるかもしれないから。
 どの妃も必死なのだ。妃となったからには閻魔王の跡取り候補を産むのが役目だと周りからも散々言われているだろう。その閻魔王本人が誰の宮殿にも足を運ばない状態――焦ってしまう気持ちも分かる。

「うちの区域の御花園を造った庭師を付けるから、色々学びなさい。わたくしの名前で送らせていただくのだから、わたくしに恥をかかせないくらい、立派な技術を身につけるのよ?」

 鬼殺しとして働く際の情報収集で利用した御花園を思い出す。仕事の合間の休憩にも使っていた、居心地の良い場所だ。どうやらあの場所を造った庭師に直接話を聞けるらしい。

(しかし、なかなか鬼畜ね……)

 造園などしたことのない紅花に、短期間で一人前になれと言っているのだ。あまり自信はない。けれど、これが閻魔王の区域に入るための近道だとするならば、どんな努力でもやってみせよう。

「光栄に存じます」

 紅花は天愛皇后の目を見て、はっきりとお礼を言った。

 ■

 その日から、庭師との特別な勉強会が行われることになった。
 風の吹き抜けるあまりしっかりしていない勉強小屋で、基本的な知識やいかに形作るのが美とされているのかなどを学んだ。
 紅花は冥府の字が読めないため、書物は通さず言葉で教えてもらった。

「嬢ちゃん、何してんだ?」

 昼過ぎ、ちょうど近くで幽鬼を殺していたらしい魑魅斬が訝しげな顔で窓から覗き込んできた。鬼殺しとしての仕事をしばらく休んでいる紅花は久々に鬼の死体の臭いを嗅ぎ、やはり臭いなと思った。庭師がうっと鼻を摘んで魑魅斬から距離を取る。

「おー、悪い悪い。今日はそんなに匂わねえと思ったんだけどな」
「魑魅斬の嗅覚が馬鹿になってるだけでしょ……」
「言うなあ、嬢ちゃん」

 ぎゃはは、と魑魅斬が大声で笑った。

「折角休みをやってるのに何してんだよ。閻魔王の区域に行かなくていいのか?」
「閻魔王の区域に向かうために勉強してるのよ」
「はあ?」

 意味が分からん、という顔をされたため、仕方なく経緯を説明する。すると魑魅斬はぶはっとまた噴き出した。

「なるほどなぁ、嬢ちゃんも苦労してんだなぁ」
「折角の機会だもの、逃がすわけにはいかない」
「勉強熱心なのはいいが、晩飯には遅れんなよ」

 鬼殺しの仕事を休んでいる間も、寝泊まりしているのは冷宮だ。魑魅斬は毎日紅花の分まで夕食を作ってくれている。時間が惜しい今、凄く助かっていた。

「……いつもありがとう」
「おうよ。にしても、玉風嬢ちゃんは元気なのかねえ」
「何よ、最初は玉風姉様を殺そうとしていたくせに」
「俺は後宮の人間にしては情に厚いからな。少し世話すりゃ情が移っちまうのさ」

 魑魅斬は何だかんだ面倒見が良い。玉風は紅花にとって姉のような存在だが、魑魅斬も兄のような存在になりつつある。

「玉風姉様は料理人として働かせてもらっているわ。色々落ち着いたら様子を見に行きたいわね」
「だよなあ。また一緒にお邪魔しようぜ」

 天愛皇后の料理を作る人々が、紅花たちのような鬼殺しを料理場に入れてくれるとは思えない。どうにか天愛皇后に頼み込んでみようと思った。

「んじゃ、俺は仕事に戻るわ」

 鬼の死体の入った箱を持ち、立ち去っていく魑魅斬。魑魅斬と距離が開いたことで、気持ち悪そうな顔をしていた庭師がようやく立ち上がった。勉強の再開だ。




この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?