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フランス革命と"La Marseillaise"

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、「勉強になった!」や、「こんな考え方もできるなぁ」という、古代ギリシャでいう「アゴラ」のような場所を目指します。私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 本当は海外ネタを書きたくない時期ですが、ちょっとブレイクということで。私が専攻していたイタリアではなく、苦手なフランスについてです。フランスの歴史ってドロッドロで怖いんですよね、私の認識ですが。
 そんな中でフランスの国歌は皆さんご存じですよね。”La Marseillaise”です。世界各国の国歌でも、かなり有名ではないでしょうか。今日は、”La Marseillaise”とフランス革命の歴史をのぞいてみましょう。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1.「革命」と「改革」

 そもそも、政治分野における、「革命」と「改革」の違いは皆さんわかりますでしょうか。

 「革命」というのは、政治形態そのものが根底から変わることです。日本でいうと、1185年の鎌倉幕府誕生と、1868年の明治新政府誕生は革命と言えるでしょう。政治の中心が天皇から武士へ、武士から議会へ変わりましたよね。

 「改革」は、政治形態を保ちつつ、生活の様式や課せられる税金などが変わることです。江戸時代に享保、寛政、天保と3つの改革が行われたのは覚えていますね。幕府の政治の中で、町人や農民に対する決まりや、税の徴収を変えることで、政治を安定させるために行われました。

 フランス革命は、政治の中心が「王」から「市民」に変わりました。ではなぜ、世界史で大々的に取り扱うトピックなのでしょうか。それは、直近まで、絶対王政を掲げていたルイ14世がフランスの権力を掌握していたにも関わらず、その後100年以内にその政治形態が崩壊したからです。

2.フランス革命が起こるまで

 まぁでも、そんなポンっと革命が起こるわけはなくって、それまでに革命が起こりそうな出来事がいくつもあったんですよね。この章では革命が起こるまでの重要な事件を時系列でピックアップし、その歴史を見てみましょう。

①相次ぐ食糧問題
→18世紀初めの飢饉に始まり、パンの価格高騰など、市民の生活が苦境に立たされる時期が長く続いた。
②1770年 マリー・アントワネットがフランスに嫁ぐ
→アントワネットはルイ16世と結婚。その後すぐに即位したルイ16世は財政管理の担当にテュルゴーを任命するも、物価の高騰を招き食糧問題を解決出来ずに罷免。
③1776年 アメリカ独立戦争
→アメリカに植民地を持つフランスも現地へ出兵。その影響もありフランス国内は財政危機に直面し、多くの税を徴収することで市民の不満は大きくなる。
④1789年1月 シェイエスが『第三身分とは何か』を出版
→第三身分とは、市民階層のこと。王政に不満を持つ市民から支持され、革命への時計を進めるきっかけとなる。
⑤1789年6月 国民議会宣言とテニスコートの誓い
→ついに市民階層が議会を開設し、憲法の制定を要求。ヴェルサイユ宮殿のテニスコートに集まり、憲法の制定まで議会を解散しないことを宣言し、打倒王政への結束力が高まった。
⑥1789年7月14日 バスティーユ襲撃
→ついにフランス革命が勃発。翌8月26日に「フランス人権宣言」を採択。市民階層の力が強大化し、王政を倒す寸前まできていた。

ザックリ背景と経過はこんな感じですが、革命はまだ終わっていません。革命を起こしたフランスは国際的な承認を得るため、ヨーロッパ諸国はそのフランス革命勢力へ対抗するため、フランス革命戦争へと突入していきます。その中で、バスティーユ襲撃を近くのカフェで見ていた、フランス革命軍のあの男が台頭していきます。そして、”La Marseillaise”も生まれるのです。

3.革命軍の士気を高める歌

 フランス革命勃発後のフランスでは、ルイ16世が革命勢力を恐れて、フランスから逃亡しようと企てますが、国を出る直前のヴァレンヌで見つかり、連れ戻されます。これが、ヴァレンヌ事件。王のまぬけさ、弱さが見え始めた事件で、市民階層がさらに勢力を強めるきっかけになりました。

 また、この時期に現在のフランス国旗が、「革命の旗」として制定されます。左から青は自由、白は平等、赤は友愛を表していると言われています。

 フランス革命戦争の最中だった1792年4月25日、ストラスブール市長だったフィリップ・フレデリック・ディートリヒが、革命軍の兵士たちの士気を高め、戦闘意欲を高揚させるような楽曲を作ろうと提案します。するとその場にいたアマチュア音楽家のルージェ・ド・リールが『ライン軍のための軍歌』を作曲します。"La Marseillaise"がこの世界に産声をあげた瞬間でした。でも、ストラスブールで生まれたのに、なぜマルセイユの名前がタイトルに付けられたのでしょうか。

 同年6月20日に軍はマルセイユへ行軍し、そこで『ライン軍のための軍歌』を披露します。それを聞いた地元の新聞社が歌詞を自社紙に掲載し、広く歌われるようになりました。

 同年の8月10日、革命軍はパリへ行軍しテュイルリー宮殿を襲撃。ルイ16世とマリー・アントワネットを捕らえて幽閉し、王権の停止と普通選挙の実施を発表します。これが8月10日事件。ついに革命軍は民主化を勝ち取りました。

 この時にマルセイユから行軍してきた革命軍たちが、『ライン軍のための軍歌』を歌いながらパリへ向かったので、この日以降"La Marseillaise"と呼ばれるようになったのです。

 民主化を勝ち取った革命軍は、1793年1月21日に国王ルイ16世を、翌1794年10月16日に王妃マリー・アントワネットを処刑します。1799年から革命戦争を率いたナポレオン・ボナパルトが第一統領として、新政府を立ち上げ、フランス革命を終結させます。前章で述べたあの男とは、ナポレオン・ボナパルトのことです。

4.国歌の制定へ

 "La Marseillaise"に影響を受け、この時代に軍歌を多く作られるようになりましたが、1795年7月14日に国歌に制定されます。

 その9年後、"La Marseillaise"は演奏を禁じられることになります。歌詞の内容が世襲君主を髣髴とさせることから、国歌を変更させられたのです。劇場での演奏や、公共の場での歌詞掲示なども禁じられたのです。

 1879年、"La Marseillaise"は国歌に復帰します。その背景にあったのは、1878年のパリ万国博覧会です。開会の式典にて群衆から「"La Marseillaise"」という叫び声が飛び、式中を歓声で埋め尽くしました。禁止されても、市民からは愛される歌だったことがわかりますね。

 "La Marseillaise"は、市民と王政の「対立の歌」として世界的に認知されていましたが、「平和の歌」として再認識されるようになります。1967年7月7日、The Beatles"All You Need Is Love"を発表します。イギリスとフランスは、百年戦争以来の不仲国。イギリス出身のバンドの曲のイントロに、フランスの国歌が起用されたことは極めて異例だと言えるでしょう。

 2015年11月13日、パリ同時多発テロが発生します。フランス議会ではその黙祷後、どこからともなく"La Marseillaise"が歌われ始め、大合唱となりました。フランス議会で国歌が歌われたのは、実に100年ぶりでした。現代において"La Marseillaise"は、フランスの象徴であり、平和を願う祈りの歌としての役割を持っているとも考えられるでしょう。

 本当はもっと複雑な歴史なんですが、1万字くらい書いちゃいそうなので、ほんとにザックリとした概要しか書いてません。フランス革命期は、年号だけでなく、日付までが重要なポイントなので、歴史を学ぶ上ではしっかりと時系列を掴むことが大切です。

 その中で、現代まで続く歴史を紐解くことはとても重要なことではないでしょうか。歴史を学べば必ず、今私たちが生きている世界の何かに繋がります。

HISTORYにはSTORYがありますからね。

長くなりましたが、
読んでくださいまして誠にありがとうございます。
Ciao...

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