見出し画像

吉田松陰が育てた日本のスーパースターたち

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、古代ギリシャでいう「アゴラ」のような場所を目指します。私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 最近会社の後輩との会話で、「吉田松陰」の話題がよく挙がるんです。めっちゃ楽しいんすよね笑 ということで、今日は松陰が育てた、近代日本を造り上げたスーパースターたちを紹介し、いかに松陰が日本史上偉大な人物だったかを学んでいきましょう。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1.久坂玄瑞

 まず、紹介するのは、尊王攘夷運動の旗頭、久坂玄瑞です。幕末の日本を語る上では、欠かすことが出来ない人物ですね。

 1840年に現在の山口県萩市で、萩藩医の三男として誕生します。しかし、14歳の時に母、15歳の時に兄、そして父を亡くし、孤独の身に。玄瑞は父の後継者として、萩藩の医学所「好生館」の学生となります。

 玄瑞が吉田松陰と初めて接点を持ったのは、九州遊学中に知人に勧められたことがきっかけでした。尊王攘夷について、玄瑞と松陰は文通を繰り返し、松陰が玄瑞の士気を高く評価したことで、松下村塾の門下生となります。玄瑞のことを認めていた松陰は、自身の妹である文を玄瑞に嫁がせました。文は、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』で描かれたことでも知られています。

 しかしその2年後、吉田松陰が安政の大獄で処刑されたことを機に、門下生を中心とした長州藩志士たちが、尊王攘夷運動の機運を高めていきます。久坂玄瑞はその中心人物として躍動します。

 そして最も大きな事件とも言えるのが、1863年と1864年に起きた、長州藩による、外国艦船砲撃事件です。ここで長州藩は、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊と衝突したのですが、逆に下関砲台を占領されるという、完敗ぶり。この事件がきっかけで、「現行体制(幕政)では尊王攘夷を成し遂げることが出来ない」と悟った長州藩は、倒幕運動を推進していきます。

 長州の独断行動に痺れを切らした幕府は、長州藩を京都から追放(八月十八日の政変)。それに対し長州藩は、京都御所にて幕府軍と戦火を交えることになります。1864年の「禁門の変」です。味方がいない、玄瑞を中心とした長州藩は、薩摩藩を中心とした幕府軍を前に崩壊。敗北が決定的となり、玄瑞は自害し、25年という短すぎる生涯に幕を閉じたのです。

 実際その後、長州は敵対していた薩摩と同盟を結び、幕府を倒し、明治新政府を築き上げていくわけですから、玄瑞の強い意志が受け継がれ、新しい日本、そして、現代の日本に繋がっていったことは、言うまでもないでしょう。

2.高杉晋作

 続いて紹介するのは、高杉晋作です。彼もまた、幕末日本において、とても重要な人物の1人です。

 代々、毛利家の重役を担っていた名門藩士の高杉家に生まれ、18歳の時に、松下村塾へ入塾します。前章で述べた、久坂玄瑞とともに、「村塾の双璧」と称されるほど、将来を嘱望された存在でした。

 安政の大獄で、師である吉田松陰が投獄された際は、獄中で松陰の世話をしていましたが、藩命で長州へ戻っている最中に松陰が処刑されます。

 晋作の尊王攘夷への思いが最高潮に達したのは、中国留学を経験したことです。当時、清王朝だった中国が、欧米列強に屈し、植民地化が急速に拡大している惨劇を目の当たりにしたことで、帰国後の尊王攘夷運動に加わり、長州藩を牽引していきます。

 その後結成されたのが、「奇兵隊」です。長州藩士と、その他武士や庶民の志願兵による部隊で、激動の尊王攘夷運動で躍動します。奇兵隊の編成には、吉田松陰の思想が強く影響しているとも考えられており、師からの学びを活かす姿勢は、私たちも見習うべきだと思います。

 しかし、八月十八日の政変で、長州藩が京都から追放されると、晋作は脱藩し京都に残ります。その罪で一時投獄されますが、下関砲台占領事件の和議交渉を任され釈放されます。この和議交渉で四国連合は、「租借」(土地の期限付き借り入れ)を要求しますが、晋作はこれを断固拒否。留学した中国で見た惨劇の轍を踏まないために、晋作は奮闘したのでした。

 その5年後、晋作は肺結核を患い、わずか29歳でこの世を去ります。辞世の句である「おもしろき こともなき世を おもしろく」はあまりにも有名です。晋作の最期に立ち会い、この句に返歌した野村望東尼は、福岡で幕末志士たちを匿っていた人物で、晋作とも福岡で深い交友関係を持っていました。

 この句の通り、海禁体制で穏やかだった幕末日本に荒波を立て、「大政奉還」という革命にたどり着いたのは、晋作の思いが結実した証とも言えるでしょう。

3.伊藤博文

 最後に紹介するのは、初代内閣総理大臣として、明治時代以降、日本の急速な近代化に貢献した、伊藤博文です。

 江戸湾警備で派遣されていた博文に、上司の来島良蔵が紹介し、松下村塾の門を叩きました。しかし、身分の低かった博文は、塾の敷居をまたぐことが許されず、外で立ったまま授業を受けていたとか。

 師である吉田松陰が安政の大獄で処刑された後、久坂玄瑞、高杉晋作とともに尊王攘夷運動に加わりますが、彼らとは異なる道を進むことになります。博文が選んだのは、イギリス留学でした。

 イギリスに留学した博文は、日本との国力の違いに愕然とします。当時のイギリスでは既に内閣による政治形態が整っており、産業革命を経て「世界の工場」として機能していました。博文は帰国後、下関砲台占領事件の和議交渉において、高杉晋作の通訳を任され、戊辰戦争後は、明治新政府の中心を担い、日本の発展に貢献します。

 先ほども述べましたが、伊藤博文は、初代内閣総理大臣として知られていますが、彼は他にも、多くの「初代」を経験しています。「初代コレクター」と言って良いほど。彼が、手にした「初代」の称号は、
・初代兵庫県知事
・初代工部卿
・初代宮内大臣
・初代枢密院議長
・初代大韓帝国統監
と、おまけに重役ばかり。いかに博文が新日本になくてはならない存在だったかということがわかりますね。

 初代韓国統監を辞任した4か月後、ソ連の代表と会談するために、中国のハルビンを訪れますが、その時に朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されます。統監時代の政策に不満があり、博文が暗殺されたと考えられています。享年69。会談前だったということは、まだ彼も夢半ばで生涯を閉じたことでしょう。

4.激動の時代は、現代日本のためにあった

 吉田松陰の思想としては、天皇が国を支配し、天皇の下に万民平等と説いた「一君万民論」や、アジア進出を目論む対外政策論など、明治維新後の新しい日本を創る基礎となるものばかりです。

 松下村塾は、今回紹介した久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文だけでなく、山縣有朋や、品川弥次郎など、明治新政府において重要な役割を担った人物を多く輩出しました。もちろんそれは、新しい国創りを進めた彼らの胸に、吉田松陰の教えがあったからです。

 吉田松陰の名言として挙げられる言葉で、1つ好きな言葉があります。

至誠にして動かざる者は未だこれにあらざるなり
「誠実さを持って行動しない人はおらず、
誠実さを持っているのであれば、行動しなさい」

この言葉は、本当に、教え子たちが残した歴史に活きていますね。吉田松陰の教育力、指導力が、現代の日本の原型を創り上げたと考えることが出来るでしょう。

 せっかく東京に戻って来たので、近々松陰神社に足を運び、後輩と一緒に、松陰先生に現代を生き抜くための教えを請おうと思います。

今回も最後まで読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
また次回お会いしましょう。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?