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名作コラム・コンラッド「闇の奥」 ~現代に登場した新たな神話~

 古今東西、物語の形式や手法というものはメソポタミアやエジプト、そしてギリシア神話から旧約聖書の時代に様々な作品が確立され、後世の物語はその組み合わせとアレンジ、あるいはバロック形式だと言われています。かのシェイクスピアに関しても「ロミオとジュリエット」「タイタス・アンドロニカス」と言った物語の筋をギリシアのオウィディウス「変身物語」から取り、先輩のトマス・キッドやクリストファー・マーロウ風に味付けしたものです。

 では今日、新たな形式が登場しうる余地はないのでしょうか?そこに登場したのがポーランド系イギリス人、ジョセフ・コンラッドが19世紀から20世紀に変わる時に描いた「闇の奥」になります。

 この物語は老船乗りマーロウが自身の若い頃を船上で語る形式で始まり、自身が船会社に雇われ植民地支配のアフリカ・コンゴの奥地へと、河を遡上し、クルツと言う男を探しに行く物語です。

 まず簡単に話の流れを説明しますと、

初めてアフリカの植民地支配を目の当たりにするマーロウは、現地の奴隷たちの扱いに加え、それを支配する白人達も苛酷な環境で死と隣り合わせな事を知る。河を遡上し奥地の居留地に行くにつれ、クルツがどれだけ偉大な人物でカリスマ性を持っているか、クルツに魅了された人物が彼の人となりを語る。しかしクルツが支配する村まで到着すると、そこにはただ病床で死にかけているクルツが現地人に看病されていた。現地のクルツの愛人や村人たちを振り切りクルツを船に乗せ帰還しようとする一同。しかしその夜、クルツは船から脱走し村へ戻ろうとする。草むらでマーロウがクルツを発見するが、その瞬間マーロウは天啓によりクルツの信念を理解したが、やがてクルツは
「The horror! The horror!」
と叫び息絶えてしまう。
そしてマーロウは、パリの高級住宅街に住むクルツの婚約者に事の顛末を伝える仕事を引き受けるが……

と、基本的な流れはこういう感じになります。
いわば古典的な「失ったものを探しに行く」or「自分探し」スタイルという事ではなく「正体不明であるが物語の中心である何かを探し、探される」というミステリーと朦朧法の組み合わせに近い独特の手法を確立しています。
 特にこの「闇の奥」はマーロウの実体験は明瞭に、反面、クルツの人物像は曖昧模糊に描かれているのが特徴的でありまして、私の知る限りこの作品の読後の感想として[クルツはアフリカ植民地支配の怪物である]と感じる方と、[カリスマ的な評判に対しクルツは狂気が入った凡人]という感想を持つ方に分かれますが、実際にどちらの読み方も可能でしょう。
 ただその物語の中心を大きな空洞にする事に、この小説の魅力がありますね。

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 一つの合理的な解釈としては、最初の主人公の目的として描かれていませんが、クルツ探しが「マーロウの自分探し」だったという解釈です。これはそのまま安部公房「燃えつきた地図」やポール・オースターの”ニューヨーク三部作”に影響を与えています。曖昧なクルツの人物像に関して、実はマーロウがアフリカ奥地へと遡上する過程が、クルツの経験と思想信条を形成したそのもの、と言う解釈です。マーロウがクルツの追体験をする事で、クルツ=もう一つの自分の姿を垣間見る(そして一方は死ぬ)というスタイルです。

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 さらに考えられるのが「闇落ち」というワードですね。つまり植民地支配と言う闇に落とされたマーロウ、クルツの二人の人間が、一方は死に一方はサバイブするという形式。代表的なのはジョージ・ルーカス監督の「スターウォーズ」でしょう。そもそもルーカス監督が「闇の奥」の映画版「地獄の黙示録」を撮る予定が、前作の失敗で降板させられ、それに対してSF版「闇の奥」=「スターウォーズ」を作ったのは著名な話です。こちらでは父アナキンと子ルークの関係が、クルツとマーロウをモデルにしていると考えられます。二人とも育て親を失い、更に片腕を失う点もそれを裏付けていますね。特に岸本斉史「NARUTO」ではこの構造が幾重にも重ねられているのが特徴です。

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 そして「闇の奥」の形式をほぼそのまま使った浦沢直樹「Monster」や、度々同形式を取り入れる村上春樹など、20世紀以降の文学や映像作品はなかなかこの作品の影響抜きでは語れないと言えるかと思います。
 現代では作品の隅から隅まで明瞭で解りやすいものが求められますが、難しいながらもこれだけの傑作が眠っているというのは重要ですね。
 では、今宵はこのへんで(・ω・)ノシ

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