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オタクとヤンキーの二極化の間にあるもの ―五十嵐太郎他『ヤンキー文化論序説』―

 私は二冊の対照的なオタク文化批評の本を読んだが、当然それらだけでは不十分だ。いわゆる若者文化について語るならば、また別の文化やその担い手たちについて書かれた本も読む必要がある。それが『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社)だ。当然、この本にはヤンキー文化とオタク文化の比較があるが、本能的に若者嫌いな中高年者にとってはどちらも不愉快極まりないものに過ぎないだろう。あたかも、女性蔑視に凝り固まりつつも異性愛への執着を捨てられない「性的弱者」男性が「性的強者」女性を蔑視する「処女厨」になるが如くだ。
 このヤンキー論集の執筆陣はそうそうたるメンバーたちだが、酒井順子氏は「ヤンキー魂は時代毎にその『寄生先』を変える」と定義している。確かにいつの世にも「血中ヤンキー濃度」の高い人はいるが、当然時代に合わせて自らの「ヤンキー性」の表し方は違う。もちろん、ヤンキーだけに限らずオタク系の女性にも言えるが、女性のオタクさんは「オタク」である以前に「女」なのだ。今時イベントでコスプレしているお嬢さんたちは昔よりずっと容姿レベルが向上しているようだし、「オタク女子=女として負け組」などと決めつける事は出来ない。
(まあ、そもそも男尊女卑の異性愛男性は、レズビアンやフェミニストや腐女子などの「男にとって都合の悪い女」を実際の容姿とは無関係に「ブス」扱いしたがるのだが)

 もちろん、勝ち負けだけが全てではないが、「ヤンキーは勝ち負けにこだわるのが大好きだ」という見方もある。その点からすると、一見血中ヤンキー濃度が低そうな人が案外「濃度が高い」事態もあるのだ。いかにもマイペースに見せかけている人が実は負けず嫌いで嫉妬深いのは珍しくはなかろう。例えば、聞かれてもいないのにわざわざ「他人は他人、自分は自分」などとスカした物言いをする人間なんて、明らかに他人の評価を気にしている。本当に他人の評価を気にしない人間ならば、むしろわざわざそのような発言をしないだろう。

 話は変わるが、古代中国には「侠」の概念があった。これは「ヤクザ」と解釈される事が多いが、私は「ヤクザ」よりもむしろ「ヤンキー」と意訳した方がふさわしいように思える(余談だが、宮城谷昌光氏が「ヤンキー君子」孟嘗君の「牙」を抜いてしまったのは実に惜しい)。私は前に読んだオタク批評本とこのヤンキー文化批評本を読み比べて、この世界の「オタク」と「ヤンキー」という両極の間を「ミーハー」が右往左往したり、計算高く立ち回ったりする様子を思い浮かべる。つまり、オタクやヤンキーが開拓した分野の利益をミーハーがチャッカリせしめるのだ。誰か「オタクとヤンキーの世界史」を書いてほしい。
 いや、「ヤンキー」という概念はアメリカ人の通称(蔑称)が語源でありながらも非西洋的・アジア的なものだから、オタクとヤンキーの対比で歴史本を書くなら日本史か中国史がふさわしい(ヤンキーが上下関係に厳しいのは、やはり儒教文化圏ならではの傾向だろう)。いわゆる武将はいかにも血中ヤンキー濃度が高そうな人たちだし、中国史だと始皇帝や王莽は「オタク」で、項羽や劉邦はヤンキーっぽい。三国志だと、曹操や劉備や孫堅・孫策・孫権が血中ヤンキー濃度が高い。

『ヤンキー文化論序説』はタイトルに「序説」とあるように、他の研究者たちのヤンキー文化論を求めているハズだ。そう、あくまでもこの本は入り口であり、オタク文化に負けず劣らず「豊か」で「深い」世界を追及する人たちに「キッカケ」を提示しているのだ。

【North Coast Bad Boyz - バラまく夜】
 これぞ、ヒップホップ界のチームナックス。今時、ヤンキー的な音楽といえば、いわゆるロックでなくてヒップホップだと思うのね。


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