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「オタクの楽園」の住人は男性だけではないのだが…? (後編)―中原昌也、高橋ヨシキ、海猫沢めろん、更科修一郎『嫌オタク流』―

 前の記事で取り上げた『萌え萌えジャパン』がオタク文化の豊かで明るい面を示す本ならば、当記事で取り上げる『嫌オタク流』(太田出版)は逆にオタク文化の暗く貧しい面を示している。私が思うに、オタク男性の欲望や美意識とは「一般的な」異性愛男性の欲望や美意識のデフォルメであり、パロディだろう。だからこそ、オタク批判側に立つ「異性愛男性」中原氏や高橋氏の批判はなおさら猛烈にならざるを得ないのだ。自分自身の「不都合な真実」を認められないのはオタク男性の専売特許ではないのだ。
 この本は前述の『萌え萌えジャパン』と同じく、男性のオタクさん並びにオタク文化の男性優位を扱っている。腐女子を含めたオタク女子はほんの添え物どころか、「添え物の水準にすら達していない」扱いだ。だからこの本は十中八九男性のオタクさん批判なので、女性読者の多くは、たとえ自らもオタク傾向があってもなお他人事気分で読めてしまうのではないかと思う。むしろ、オタク系の男女間の断絶は明らかにあるようだ。

 この本は十中八九男性のオタクさん批判なので、腐女子も含めたオタク女性の「矛盾」や「違和感」などへの批判はほとんどない。私はその辺に違和感を覚えるのだが、中原氏の「毒吐き芸」でオタク女性を批判するならば結構シャレにならないだろう。下手すりゃ単なる女性蔑視にしかならないという危険性があるのだ。しかし、オタク女性の中でも特に「腐女子」と呼ばれる女性たちはオタク男性にも負けず劣らず色々と「矛盾」があるだろう。「萌え系」オタク男性が自らの「ポルノ」的な欲望を「ピュア」などと美化するのがいかがわしいのと同じように、腐女子の欲望もまた色々とツッコミどころが満載だ。率直に「女」として男に愛されたいのか、それとも「男」になって男に愛されたいのか? まあ、天然の女体を保っている限りは、(相手の男性が異性愛者である限りは)そのままの方が有利のハズだが、そもそも基本的な「スペック」の問題があるよね(身も蓋もない)。
 オタク男性の現実の女性に対する嫌悪感や不信感に対する批判は『嫌オタク流』に述べられているが、同じオタクでも女性はさらに複雑だろう。『嫌オタク流』で批判されているオタク男性たちは自分にとって都合の悪いものを「雑音」として排除したいという欲求を持っているが、腐女子たちは自分自身も含めた「女」を「雑音」として排除したい欲求を抱いているのではなかろうか? もちろん、全てのオタク女性がそうだという訳ではない。ボーイズラブならぬガールズラブや、異性愛フィクションであるティーンズラブを好む女性も少なくない。フェミニストを自認・自称するオタク女性も(自称腐女子も含めて)いるのだ。

 この本の企画がオタク界における「女性」の存在を意図的に切り捨てたのかどうかは分からないが、仮に意図的に切り捨てたのならば、世間に出回っている「男より女の方が現実的だ」という都市伝説を真に受けた結果ではないかと思う。実社会では腐女子を含めたオタク女性が少なくない辺り、むしろ女こそが切実に「ファンタジー」を求めるのではないかと思う。今の日本は、男尊女卑が当たり前だった時代よりははるかに女性に対して親切だ。しかし、それでもなお世間の女性たちは「男」に期待しづらくなっている。女性に限らず、今時の若い日本人は異性や異性愛に失望している(木嶋佳苗事件の被害者男性たちは中高年の人たちばかりだった)。
 今の日本の晩婚非婚嫌婚はオタク系男女だけの傾向ではない。非オタクの男女も実社会の異性に対して根強い不信感を抱いている。今のお上がどれだけ晩婚非婚少子化対策を行なっても、今時の人間が根強く抱いている人間不信は簡単には直らない。異性の「ヴィジュアル」だけが目当てならば、芸能人や二次元キャラクターの容姿だけに萌えればいい。

 日本のオタク文化とは「お花畑」と「荒れ地」の二面性を持っている。それが「豊か」なのか「不毛」なのかは、結局は個人の好み次第だ。「資源がない国」から生まれた徒花、それがオタク文化である。

【Yellow Magic Orchestra - テクノポリス】
 オタク文化は基本的に「都会の価値観」を基準にしたものだから…という発想から、多くの日本人にとっての「都会」の記号である「東京」をテーマにした曲を引用した。


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