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独り言と心の声は映像表現を裏切っている

ネットに転がっている短編映画を観る機会がある。観たことがある方ならすぐに気づくだろうが、海外の短編と日本の短編には大きな違いがある。
日本の短編はやたらと独り言、心の声、ナレーションを多用する。それがまた評価されていると言うのだから、日本映画の未来は暗い。

それに比して、海外の短編映画はしっかりと状況を映像、行動、小道具、会話の中に落とし込んでいる。心の声で「不安だなあ」と言わせた挙句にナレーションで「ぼくは東京で失敗して実家に戻る」なんてことは言わせない。「○○かい!」なんて心でツッコミを入れるわけもない。
ドラマなら許容できる。食事をしながら、食事の片付けをしながら、スマホをいじりなら耳で聴いてるからだ。

私の記事の引用で申し訳ないが、読んで欲しい。

世界的な宮崎駿監督になくて、日本を代表する新海誠監督にあるものは何か?
宮崎作品は、登場人物が独り言を言わない、登場人物の心の声を出さない、登場人物が気持ちをベラベラ話さない、だよね。
細田守監督と今敏監督も、宮崎駿監督と同じ。
新海作品にはそれらが出て来る。ふんだんに。いやと言うほど。

テレビアニメはアニメ映画と別物。
独り言を言って、心の声を出して、気持ちをベラベラ話す。
そう言った意味で新海作品は、テレビアニメよりなのかも知れない。

https://note.com/auske/n/n8c24c0710561

ここで脚本の定義を書こう。これは私ごときが定義したものではなく、野田高梧御大の『シナリオ構造論』だったか『シナリオ入門』だったかに記されていることだ。

シナリオとは映像化を目的とした文学作品である。

何のために映像表現を選択したのか、監督と脚本家はもちろん、プロデューサーも演者も真剣に考えて欲しい。もう登場人物に独り言を言わせるのはやめよう? 心の声を話させるのはやめよう? これだけ守ろうよ?
私は短編であろうと長編であろうとコマーシャルであろうと、映像表現を見たいんだ。
後生だからそんな映画を、そんな脚本を評価しないで欲しい。

追記。
映画を観るということは「小説・漫画を読む」とは違う。小説は小説、漫画は漫画で完結している。それをどう料理するかが実写化だ。映画シナリオの中で独り言や心の声を使う癖がついているから、漫画原作の実写化に失敗し続けてるんだ。そろそろ気づこうよ。