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世間との乖離

混濁する渦の中、僕は僕であり続けられるだろうか。

何度でもいうが、僕は人と関わることが苦手だ。できることなら休日はホットコーヒーを飲みながら、本の1ページ1ページをゆっくりと味わいながら過ごしたいと思っている。

そんな人が苦手な僕が、何故コミュニティを設立しようと思ったのか。一言で言うなら「理解されたかったから」というのが自分の中ではしっくりきている。

楽しさとか喜びなどを共有することは、苦しさや悲しみに対して、比較的に容易であると思っている。美味しいものを食べたとき、「美味しいね」と笑顔で伝える。映画を見たとき、「楽しかった」と気持ちを話す。このようにポジティブな感情を共有し合うことでお互いが心地よい関係を形成してゆくことが出来るというのは紛れもない事実だろう。

だがネガティブな感情の共有というのは、この世界においてはすべきではないとされているように思う。暗い話をすること自体が許されていない風潮、この世の在り方に対して僕は常に疑問を抱いている。「暗い話をしたら相手もしんどくなるから辞めよ」「もっとハッピーな話をしようよ」「君は少し考えすぎかもね」などを僕も言われ続けてきた。

また、世の中の大半の人たちは、僕のように深く感情を捉えてはいないのだろうと思った。何故楽しいと思ったのかとか、どうして苦しいのかとか、そう言ったことを思考するまでには至ってなくて、シンプルに快か不快で決めている。イメージとしては、自分の感情メーターが、マイナス100からプラス100まであったとすると、普通の人は、マイナス10からプラス10という範囲で設定されているような気がしている。

そのため、僕がマイナス100の感情を普通の人にぶつけたとしても、マイナス10までしか捉えられない以上はこちら側が何を言っているかもわからないわけだ。

「何言ってるかわかんない、ただシンプルに重い」

こういう台詞を言われたことがある人もこの記事を読んでいる人たちの中にはいるんじゃないだろうか。もしいたならば僕は嬉しい。

またマイナス10が下限の人たちは、そこまで感情と向き合うことに対して、深く捉えていない(捉えることの意味を見出せていない)から出来る限り、マイナスを無くしてプラスの状態を増やそうとする。「別に暗いことを思っていても仕方ない、マイナスなんてなければいいんじゃない」とさえ思っている人も多いように感じている。(マイナス100が分からないからこそでる言葉だと思う)そういったマジョリティによる考えが、ネガティブな感情を共有することがよくないという世界の風潮を生み出していると僕は思っている。

僕ははじめに「理解されたかったから」と記載したが、「辛さも楽しさもめいっぱい味わい、心から共感し合える人と出会う中で幸せになりたい」という思いが全てだ。

先ずは、多数派によってある種の禁忌のようにされてきたネガティブな感情を共有できるような仕組みを構築して、コミュニティに所属している一人一人と真剣に向き合っていきたいと思っている。

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