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【エッセイ】今自分のいる場所を知るための言葉という存在の価値に気づかせてくれる本

日々を生きている皆さん、お疲れ様です。
インプットばかりなタイプで頭が情報でいっぱいになりがちな私が、前の記事で今年(2023年)の目標でも記載していた通り、アウトプットする習慣をつけようと思いました。
さて、何をアウトプットするのかとなったとき、改めて私にとって情報収集の一番の担い手である本について書くことでした。
一応、読んだ本の感想を書くということで用意しているマガジンはありますが、どういう風に感想を書くか、ということがまるで考えられていませんでした。
よって、準備だけして長らく放置していました。(何個か記事はあげてはいるんですが…)
単純に好きな本を紹介できればいいやと思ってたんですが、ネタバレにならない範囲で紹介するってどうやって??とか、自分の感情や感想の押し付けなんて書いて大丈夫か??とか、HSP独特のぐるぐる思考にはまって動けず。
でも、このnoteはそもそも自分の気持ちを吐露する場でもあるのだから、自分の好きなように書けばいいのでは?とはたと気が付きました。
誰に向けてとなると、難しいですが、疲れていた過去の自分に向けて少しでも癒される、元気になれる本を贈る気持ちで書こうと思います。
また、同じようになんだか疲れてしまった人へ少しでも日常を置いて、違う世界や新しい知恵や感情に出会える機会をもつきっかけになればこんなに嬉しいことはないでしょう。
大した紹介文を書けるとも思っていませんが、丁寧に本を作られた方に敬意を示して書きたいと思います。
長い冒頭あいさつになりましたが、気持ちをまずここに書き記しておきたいと思い綴りました。
お時間がある方が少しでも覗いていただけると嬉しいです。

                              tigre

冒頭ごあいさつ

もう泣かない電気毛布は裏切らない 神野紗希 (著)


内容紹介

「恋の代わりに一句を得たあのとき、私は俳句という蔦に絡めとられた」。
正岡子規を輩出した愛媛松山で生まれた少女は16歳で運命的に俳句と出会う。恋愛、結婚、出産、子育て___。ささやかな日々から人生の節目までを読んできた俳句甲子園世代の旗手が、俳句と生きる光を見つめ、17音の豊饒な世界を案内するエッセイ集。

文春文庫 表紙後ろの内容説明より

この本を読もうと思ったきっかけ

地元の本屋にふらりと寄った際に、文庫の新刊コーナーに平積みされていて、何の気なしに手に取ったのがきっかけです。
難解な実用書でもなく、没頭するような物語でもない、日常に寄り添ってくれるライトなものが読みたくて、表紙を見て、直感からいいかもしれないと手に取ってみました。
最初の数行を読んでみたら、自分の中で引っかかりなくスルッと文章が入ってきたので、買ってみました。
著者の方がどういう方も知らなかったのですが、割と本屋でこういう「出会い」を経て買うものにハズレはないです。
ネットでも本は読めますし、ものによっては確かに試し読みもできます(電子で)。でも、こういう出会いって本屋だからこそ起きやすいように個人的には感じます。
あと、電子書籍も便利で好きですが、文春文庫の紙質とクリームのように黄みがかった色が好きなんですよね。

著者紹介

神野紗希(こうの・さき)
俳人。1983年、愛媛県松山市生まれ。
お茶の水女子大学大学院博士後期課程修了。現代俳句協会副幹事長。
立教大学・聖心女子大学講師。
愛媛県立松山東高校在学中の2001年、第4回俳句甲子園に参加し団体優勝、「カンバスの余白八月十五日」が最優秀句に選ばれる。
2002年、第1回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞を受賞し、翌年には句集『星の地図』を刊行。

文春文庫 表紙 著者紹介より一部抜粋

「人は変わらないけど、季節は変わるの?」

これは、著者の息子さんが、たまに漏らすふとした言葉の一つです。
このエッセイは主に、2009年頃から2019年頃の間で、日本経済新聞や愛媛新聞などあらゆる媒体で書かれたものを、春夏秋冬の四季の順に組み直してまとめられたものです。
なので同じ季節の中でも、書かれた年が違うものがあるので、同じ春の中にも色んな時代の著者の感情や背景に出会う。
中でも、彼女の息子さんの成長が常に感じられて、母として、俳人として、その成長を暖かい日差しのようなまなざしで見つめる著者の気持ちに自分も重なって本当にほほえましい気持ちになります。
この息子さんが本当に素敵で、ふとした折に、上記のように、光るような言葉の粒を漏らすのだ。
著者の俳人(この方の夫にあたる方も俳人なのですが)の濃い遺伝子をついだのか、いや、子供って多分著者が言うように、まっさらな「今」に生きてるから、本当に純粋に感じたそのままの透明な言葉が、その小さな口から生まれてくる。大人は、その言葉を聞いて、ハッとするばかりだ。
「当たり前」や「普通」っていう感覚って、生きていく間に蓄積された情報や感覚によるものかだろうけど、そもそも明確にいつから「普通」って思うんだろう?
ちょっと歩む足が止まる瞬間を、子供は与えてくれるんだな、そしてそれに繊細で常に新鮮な感情で気づける著者の柔軟なセンサーが素晴らしいと思う。

「こんど、おっと、いない」
 朝日に目覚めた二歳の息子がつぶやいた。夫を失った女性の魂が乗り移ったかと焦ったが、どうやら「おっと、いない」ではなく、「音、ない」。
昨夜聞こえていた虫の音が、今朝は聞こえない、と言いたかったらしい。
「こんど」とは、これまで繰り返されてきた事柄のうち、今この一回を指す言葉だ。過去を覚えているからこそ「こんど」がわかる。

『もう泣かない電気毛布は裏切らない』秋 露の中の醍醐味より 

このつぶやきに著者は子供の成長を感じています。
というのも、生後二か月での初めての予防接種に、何が起こるかわからない息子さんは、注射針が出てきても平然としている。でもいざ腕に刺されると痛いという事実にワーッと泣き出すのだ。ただ、針を抜くと泣き止む。
二本目、三本目も針が刺さっている間は泣いて、針を抜くと平然とした表情に戻ったらしい。

つまり、赤ん坊には「今」しかないのだ。今、痛いから泣く。
抜けば、今、痛くないから平気。過去も未来もない。
彼らは、今が常に更新されてゆく、まっさらな世界を生きている。

『もう泣かない電気毛布は裏切らない』秋 露の中の醍醐味より 

そのうちに、注射を見ただけでその先を想像して泣くまでになる。
過去という経験を蓄積して未来が想像できる。
現在が過去になって未来が予想できるようになる。ただただこのたくさんの積み重ねが自分の「普通」になっていく。
同時に大人に向かって進んでいけば「自分」以外の情報も入ってくる。
自分の家族、友人。選んで読んだ本。
意図的に戦略的にメッセージが込められた様々な広告。
たくさんの「今」を感じて、過去となって積み重なってたくさんの「未来」が想像できるようになる。

なるほどな~、文字にすれば当たり前だけれども、最初(生まれてすぐ)は、自分の「今」だけだったんだな~としみじみ感心してしまった。
何十年経てば、当たり前に感じることにも、当たり前になる前の背景がある。
果たしてそれは自分の感覚から得たもの?
それとも自分以外の誰かが見たものなのか?
何かを普通とか当たり前と思ったときに、その感覚はどこからくるのだろうか? 思いをはせてしまうきっかけをくれた本です。

地下鉄にかすかな峠有りて夏至 正木ゆう子

エッセイの中で、著者がいくつか紹介されている俳句の中の一句。
私たちが日常を戦いながら過ごしていくうちに忘れがちになっている
季節を感じとる力、これを俳人は、都会の地下鉄の中でも発揮できる特別なアンテナを持っているらしい。

そんな都会の地下鉄でも、感覚を研ぎ澄ませれば、闇の中の起伏を知り、
電車の揺れのうちにかすかな峠を見出すことができる。
これが俳人のアンテナだ。私と社会をつなぐ回路をひとときシャットダウンして、いつもと違う見方で日常を眺める。すると、気づかなかったあれこれが、ふいに鮮やかに迫ってくる。
無意識のうちに地下鉄の起伏を越え、夏至という季節の峠を越えてゆく私たち。
ほら、俳人は、人に非ずと書くではないか。人間であることから離れ、世界のひとかけらとなった俳人に、季節は静かに囁きはじめる。

『もう泣かない電気毛布は裏切らない』夏 季節を感じとる力より

もちろん、24時間俳人のアンテナをオンにすることはできないと著者も述べている。
でも、このアンテナ、誰でも必要なアンテナだと思うのです。
俳句を作るとき、表する言葉をたった17音で抑えるため、当てはまる季語と、状況を俯瞰で考え、自然と感情や状況から距離がおける。
だからこそ、じっくりと味わい、咀嚼できる。
感情に飲み込まれるのではなく、味わう、愛でることができる。

共感性の強さって、時に良いこととして扱われるし、そういう側面は持っているとは思うけど。
共感性の強い本人が、感情に振り回されて疲弊するという弊害は本当に強くある。
私たちは、感動することが好きだ。多分多くの人はハッピーエンドが好き。
ハッピーエンドでなくても情動が強く揺さぶられること自体が好きだ。
でも、共感性が強いと強い情動による刺激は長く自分の中にとどまって、なかなか戻ってこれないことがある。
著者のエッセイを読んでいると、無意識で流れていく日々に、日差しの強さ、風の冷たさ、匂い、緑の色の濃さ、咲く花の種類、それら季節を感じる感覚を取り戻せば、自分の立ってる場所をちゃんと認識ができるよって教えてくれているような気がします。
でも、同時に、感情に飲み込まれやすい場合、この季節を感じるアンテナを発動する前に、私はもっともっと俯瞰の位置より更に遠く引いたところで一旦、自分の輪郭を遠くから見る必要があるようだ、と最近思うようになった。

つくづく意識は副産物なんだな。主体は体。意識が主体で体が副産物と思うとおかしくなる。

『私がオバサンになったよ』著 ジェーン・スー
 中野信子氏との対談より

この感情や意識って、あくまで人間という生き物である自分が、身体の機能として生き残っていく上で出た副産物にすぎないという。
この言葉を読んで、ここに気持ちというか自分の感覚というか認識を一度持ってくるのって大事だな、と。
副産物だっていうことを知っておいて、だからって軽視していいわけでは勿論なく。
副産物、(文中で産廃や垢とも言ってたな)と言って、不愉快な感覚、意識がおきても無視したらいいというわけではなく。
まさしく機能としての副産物。体が動いていることの証。
体が休みを求めているメッセージをわかりやすく認知して休むという行動をとりやすくしている一つの機能なのだ。

何かを苦しく感じてのまれそうな時、これは機能の副産物、私が生き物として生きている証とまず認知する。
そして俳人のアンテナまで戻ってきて、自分の状況と感情を外側から見る。
なるほど、苦しいんだ、何が苦しいんだろう?
この感情を感じてると体のどの分に意識がいく?
胸が鉛を持ったように重い?
頭の芯が鈍く感じる?

そうやって飲み込まれず、感情を感覚を味わう。
苦みも渋みも甘さも冷たさも暖かさも。
そうやってなんとなく自分の輪郭を捉えられた一瞬を掴む。

読書は自分を壊す行為

誰かの本で、誰かが言ってた言葉です。
なるほど、と思いました。私も本を読むたび自分を壊して、というより
分解するんでしょうね。
小説でもエッセイでも言葉で出会った自分の感情に、飲み込まれないように味わって、見つけた自分を次の読書でまた壊して。
それでも同じものが見えたとき少しだけ自分を理解した気になれる。
感情を味わう行為と、それを言葉に表するのは同義だと思う。
言葉にしていると、自分が今生きていることが、はっきりと
自覚できる。
当たり前に明日が来ると思うぼやけがちな意識を今立っているポイントに照準があてられる気がします。

感情・感覚のメンテナンスをしよう

著者のエッセイを読むとそう感じます。
私は、苦しい、しんどいという感覚が目の前の環境に強く結びつきすぎて、
これがたとえ副産物であったとしても、距離を置いて見つめ直すとか味わうとかそんなことができる余裕はまるでなかった。
物理的にその環境から距離をおくことでしか、これらの感情から距離をおくということができなかったと思います。
そうなる前に、対策ができなかったのかな?と思いますが、たぶん無理だったでしょう。
辞めてから半年くらい経ちましたが、日々の感覚を取り出し、見つめていくと自分が結構、しんどいという感覚に蓋をするために、すべての感覚をシャットダウンしようとしていたことに気づきました。
他の感覚・感情が揺さぶられ強く認識すると、しんどいことも強く認識してしまうからだと思います。
それはより、自分という生き物をよく生かせることから逆方向に進んでいたと思います。
このエッセイを読んで、感情や感覚の感じ方、味わい方のリハビリをしているようでした。
感情に良いも悪いもないと言いますし、納得できますが、まだ憤りや苦しさにはすんなりと味わうところまで受け入れるのに時間がかかります。
このエッセイでは、日常においてどういった分で愛しいと思うか、そういうじんわりと温かいものの方でリハビリできました。
少しでも興味を持たれた方は、俳人という言葉のプロが描く日常の、そこから受けとるものへの眼差しを読んで、自分ではどう感じるか試してみてください。

思うまま書きすぎて、輪郭のぼやけた内容になったような気がしますが…。
今、できる範囲の表現ですからこのままで良しとします。
ここまでお付き合い頂いた方、ありがとうございます。

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