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あけられなかった【短編小説】

「最近、思わず泣いてしまったことってある? 私は、――」


 この街は、散歩に向かない。
 五重塔が目に入るたび、そう思う。中学や高校の歴史の教科書に出てきた建物がすぐそこにあるという不思議さが、最初は新鮮だった。記憶と日常が交差する日々。慣れがそれらを追い抜いていく。
 京都。昔は、旅行に来るのが好きだった。非日常を感じられる空間が、結婚によって暮らす場所になってから、2年近く。ベビーカーを押して歩く街は、どこも立ち寄り難く感じる。少し遠くにそびえる五重塔も、出産まではお気に入りだった川沿いのカフェも。
 今日は光が朝5時に目を覚ましたから、仕方なくそのまま起きている。外に出るのが億劫にならない午前のうちに、少し遠くの店まで足を伸ばした。生活用品と野菜、肉、帰り道にパン屋で焼きたての食パンを一斤買って、ちょうど小1時間ほど歩いたか。最初はご機嫌だったベビーカーの中の赤子は、ほかほかした防寒用のフットマフに包まれて、いつの間にか眠りに落ちている。

”横川 藍さま”

 散歩から帰ると、いくつかの郵便物と一緒に、自分宛の手紙が届いていた。夫の姓に自分の名を、付き合いの長い友人が書いてくれるのを見るたび、多少の違和感が付きまとう。差出人は中学からの友人の紫。前にこちらから手紙を送ったのは、出産して、気持ちが少し落ち着いた頃だったか。ゆるやかな文通は、もう十年ほどに渡る。
 本当なら今ここですぐに開けて読んでしまいたいけれど、寒空の下ではそうもいかない。郵便物、宅配便の不在連絡票。それらを左脇にまとめて差し込み、買い物の荷物を吊るしたままのベビーカーをぐいと持ち上げ、玄関前のポーチの段差を数段、上がる。光はすやすやと眠っている。できれば、起こさずこのままにしておきたい。
 建売の戸建てだったから文句は言えないけれど、玄関ポーチのこの段差が憂鬱で仕方ない。実際、自分も子どもを産むまで気付きもしなかったのだけれど、ベビーカーを抱えないと越えられないというのはなかなかに骨折りだ。一度自覚されてしまった不便さは、その動作のたびに付きまとう。
 鍵を開け、ドアは大きく開け放ったままにする。
 先に買い物と郵便物を廊下に置いてから、ベビーカーをそっと玄関内に入れ、音を立てないようにゆっくりとドアを閉じる。光はまだ眠っている。そのままにして先に自分だけ上がって手を洗い、生鮮食料品だけを先に運ぶ。冷蔵庫にそれらを入れ終わるや否や、玄関からぐずり始める声が聞こえて、飛んで戻る。

「はいはい、いるよ」

 声をかけながらベビーカーのベルトを解き、防寒具を剥いで、身をよじる赤子の身体を抱き上げた。耳をつんざく泣き声。抱き上げてしばらく揺すっていても、声をかけても、激しい泣き声は止まない。

「おなか空いたかな? 光。もうお昼だもんね」

 応えは背を逸らしての大泣きだけ。人の言葉が返るようになるのはいつなのだろう。気の遠くなるような未来を思いながら、片手で光を抱き直して、もう片手でテーブルを整え、離乳食の準備をする。
 少しだけ迷って、戸棚から小さな瓶を出した。買い置きしていた、小さな小さな瓶入りの離乳食。光を抱いたままの両手でも、ポン、と軽い音を立てて蓋は一瞬で開いた。プラスチックの絵皿にひっくり返し、レンジで数十秒温める。光を食事用の背の高いイスに座らせベルトで固定して、エプロンを着けさせる。
 離乳食用の長いスプーンで一口ずつ、どろりとしたそれを掬って、光の口に運んだ。いつも食べている自作のものよりも美味しいらしく、瓶のものは喜んで食べてくれる。毎日これで済ませたい。徒労感をやり過ごしながら、子どもの一心な食への能動につられてひとさじ、もうひとさじ。
 一通り食べさせてミルクをあげ終えると、光はようやくご機嫌になった。リビングに広げたおもちゃの傍らに下ろすと、すぐにそれらに夢中になり始めた光を見て、ようやく玄関に散らかる郵便物を取りに戻る。宅配便に再配達の電話をかけたところで、やっと一息。

 紫からの手紙を開封しようとしたけれど、空腹が勝った。

 手紙をテーブルの端に置いて、先に買ってきた食パンを切り出し、焼く。早起きしたせいもあってか、光の泣き声と挙動に振り回された心身が、いつになく疲れていた。ああ、今、あれが食べたい。お気に入りのクリームチーズに、思い切りジャムを乗せた甘いのが。
 戸棚の奥に並べてある取り寄せ品の瓶の中から、桃のジャムを取り出す。果物の中でもことさら桃が好きで、いつ食べようかと楽しみに取っておいた一品だけれど、今の身と心を慰めるのに、どうしてもそれが必要な気がしたのだ。

 なのに。

 焼きたてふわふわの食パンも、クリームチーズも万全なのに、果実60%の桃ジャムの瓶は、頑なに抵抗する。握力がなさすぎて、昔、体育の時間に友だちに目を剥かれたことを思い出す。口金をあたためてみたり、輪ゴムを巻いてみたり、タオルを使ってみたり。今できる、ありとあらゆる方法を試したけれど。

 ──やっぱり、あけられなかった。

 世界の全てから否定されたような気持ちで、桃とクリームチーズの絶妙でさわやかな甘さを諦める。康生が帰ってきたら開けてもらえばいい、でも。気持ちを切り替えようと無理に上を向こうとして、なかなか顔を上げられない。

 ぽた、と瓶の蓋の上に涙が落ちた。

「あー……」

 今、食べたかった。今、私は私を労いたかった。それが叶わないだけで、こんな。小さなことで、とも思う。そう思って、ますます自分が嫌になる。
 リビングでつかまり立ちをしていた光が転んで尻餅をつき、泣き始める。ああ、手紙もまだ読めていないのに。ごめん。胸の中で誰かに謝りながら、クリームチーズだけ塗ったトーストを、ミネラルウォーターで流すように口に詰め込み、涙の衝動と一緒に飲み下した。
 光を抱き上げて笑いかけながら、もう一度眠ってくれないかなと冷静に思う。さっきまで寝てたから無理か。朝5時に起こされたせいか、やたらと眠くてけだるい午後を、うとうととやり過ごす。
 いつもいつも、私をどこかに置いてきている気がする。
 五重塔の側まで行ってみたり、川沿いのカフェで時を忘れたりしていた去年の私、どこにいるのだろう。この街は散歩に向かない。ベビーカーと共に歩いても、この街で私は、私を見つけられない。結婚も子を持つこともすべて望んだ選択だったはずなのに、いつの間にか嵌まってしまった暮らしという名の枷を、自力で開ける方法が見つからない。

◇ ◇ ◇

 光に二度目の離乳食を与え、風呂に入って寝かしつけた頃、ようやく康生は帰宅した。他愛のない会話と夕食を済ませた頃、私はジャムの瓶を康生に差し出した。

「これ、あけてみて」
「いいよ」

 ぽん、と軽い音を立てて瓶の蓋は開いた。あっけないほど簡単に。

「何であんなに開かなかったんだろう。離乳食の瓶は一瞬だったのに」
「……人のためには力が出せるのに、自分のための時に限って、駄目なときってあるよな」

 言葉に弾かれて顔を上げる。康生は、昼間の私のような気持ちになったことがあるのか、何処か痛いような顔で笑っていた。

「今日は俺が光の横で寝るから。少しゆっくりして」

 康生はそう言うと、さっさと寝室に消えてしまった。気遣ってくれたのだとわかった。
 不意にもたらされた夜の空白は、赤子の泣き声もなく、しんとしている。自分のためだけに湯を沸かす音が、夜を小さく震わせる。
 紅茶を淹れ、食パンを切り出し半分だけ焼いた。クリームチーズは控えめに。代わりに、もうこれでもかというくらいに、したたるほど桃ジャムを塗る。ごろりごろりと果実の質感を残したそれに全力でかぶりついて、口中に広がる柔らかな甘味とほのかな酸味を、味わう。

 そしてようやく、テーブルの隅に置きっぱなしだった、自分宛の手紙を開ける。

 藍へ、と呼びかけてくる文字が、私に輪郭を与える。
 書かれている他愛もない出来事を読み進めるうちに、いつの間にか、昼に感じた閉塞感は消えている。そうだ、開かないときは、誰かや何かの力を借りたって、いい。私だけに宛てられた文字を追いながら、そう思う。
 返信を書くのは、康生が休みの日にしよう。光を康生に託して、いつもは見るだけの五重塔を間近で眺めたあと、川沿いのカフェの窓際の席から手紙を書こう。相変わらず握力がないことや、子を持つ親になっても瓶の蓋が開かなくておろおろしたりすることを、遠くの友達に何気なく笑い飛ばして欲しい。
 今日の気持ちを忘れないうちにと、便箋を取り出して、最初の一行だけを書き付けた。


「最近、思わず泣いてしまったことってある? 私は、――」


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この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』1月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「あける」。「何がはいっているの?」のワクワクや、目の前がひらけるような体験が詰まった6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひ訪れてみてください。

また、本小説は【連作】でもあります。お気に召した方は、マガジン「紫と藍のあいだ」からも本シリーズ作が読めます。どの作品からも読めますので、よかったらぜひどうぞ。


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