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長編小説 「扉」21


     姉弟対決 四



 その夜姉を訪ねると、倫が遅い晩飯を食べているところであった。
「アユ坊も食べる? 残り物だけど」
 腹は減っていたが遠慮した。
「倫、ゲーセン行こうぜ」
 手土産の鯛焼きを倫に渡しながら、中身のない不毛の投げ掛けをし、早く倫が風呂にでも入らないかと気を揉んでいた。
「倫、お風呂入っておいで。アユ兄と話してるけど、おじいちゃんのことだから気にしなくていいよ」
 空気を読んだ姉は倫に声を掛け、
「倫は承知しているから、お父さんのことを話していても大丈夫」
 またしても姉の息子への過信が感じられた。それでは遠慮なく、と直球で姉に挑む。
「お姉さん、十万円貸して下さい」
「いきなり何! お父さんのことじゃないの?」
 私は昨日のタワー銀行での経緯を話した。
「本気で借りるつもり? これ以上借金増やしてどうするの!」
 反論を唱える姉に、嵐山氏とは一括返済の約束だから、返すにはまとまった金が必要なのだと強く訴えた。すると、嵐山氏に対し、十月中の連絡約束を反故にしたことを指摘され、さらには、「そもそも年金未払いってどういうこと?」と根本的な所を衝かれ、またしても危うく一触即発であったが、倫が風呂から出てきたことでクールダウンした。
 意地でも一括で返したい私は、感情に訴えるという姉への秘策があった。
 つまり、個人からの借金と金融機関からの融資とでは、どちらが心の負担が大きいか。考えるまでもない。個人からのそれは、その人間関係に歪みが生じるが、金融機関にしがらみはない。最終的に返せば良いのだ。これを語ると姉は黙った。私が先取点だ。
「だけど十万なんてあるわけないよ。アユ坊だって知っているじゃない」
「だからさ、クレジットカード見つからないの?」
「限度枠の三十万のキャッシングしたばかり・・・じゃない」
 わざと意味を取り違える姉。
「違うよ、使ってない別の・・カードだよ」
「……探してない、ないもの」
「協力しろよ、探せよ!」
 血が上り、頭の奥で閃輝暗点せんきあんてんの如き光を感じる。苛立つとすぐにこれだ。
 その時背後で、
「僕のお年玉の貯金、ずっと使ってないから結構貯まってるんじゃないかな。じいちゃんの役に立つなら貸すけど」
 驚いた、倫だ。ドライヤーをかけていたと思ったら、いつの間にか聞いていたのか。これには姉がヒステリックに反応した。
「ちょっとやめてよ、何言ってるのよ倫! これは大人のお金の話。おじいちゃんの事件絡みの話なのだから、倫がかかわることは全くないの。ましてお金を貸すだなんて馬鹿げてるわ! もういいから寝なさい、明日も早いんでしょう、ほら寝て寝て」
 倫を追い立てる姉の顔は明らかに強張り、色を失っていた。子供染みた垂れ目に隈が目立ち、いやに老けて見える。そしてついに一枚のクレジットカードがテーブルに置かれた。既に年金未払いへの疑問は何処かへ消え去ったようだ。
「必ず返してよ。私までブラックになって倫に影響が出たら死ぬわ」
「倫に影響があるわけないだろ。じゃあ枠を確認して」
 倫の思いがけない援護射撃は、一発で姉を降伏に追い込み、予定十万のところ十五万のキャッシングに成功した。母親とは息子を護るのには必死なものだな。
 翌日、年金事務所で六か月分の年金と引き換えに支払済証が発行され、役所で印鑑登録をした。今迄印鑑登録が成されていなかったのは、自分で車を購入したことがなかったからだ。つまり我が愛車の真の所有者は父であることに、改めて気付かされたという訳だ。何とも複雑な苛立ちが起こり、早く名義変更を済まそうと案件に加えた。
 週明け、ダブつくツイードブレザーの父を伴い、特急列車の禁煙タイムを耐え、タワー銀行にて必要書類をすべて提出し申請を受理された。懸念した勤務先は、退社したばかりのフレンチレストランをシレッと記載しておいたが、どうにか審査が通ってほしい。私としたことが神にも祈る勢いだった。父は案の定借りてきた猫であったが、思ったより活躍場面は少なく、署名や押印に参加した程度であった。
 約三週間後、めでたく申請が通り、融資が受けられる運びとなった。月々十万の返済契約で、結果最高額五百万を借り入れた。既に十二月も中盤である。


 年の瀬、世間が目まぐるしく一年の煤を払い、新年を迎える準備に奔走する中、私と父は、再び嵐山邸の応接室に緊張しながら座っていた。卓上には菓子折りと返済金四百万円、利息分にあたる礼金を並べて置いた。
「長い間、本当に有難うございました。何から何まで御尽力頂いて、本当に感謝しています。遅くなってしまいましたが、ここにお借りした四百万円をお返し致します。どうかお確かめ下さい」
 私と父は深々と頭を下げ、感謝を述べた。すると、嵐山氏が思いがけない提案を持ちかけた。
「確かにお貸しした四百万、返して頂きました。これで私への気回しはなくなりましたね。そこで立ち入ったことを伺いますが、私以外の方からも借りていられますよね。そちらは済んでいるのですか」
 まるで私の心を読んだかように、嵐山氏が問いかける。
 つい先日のことだ。父の中学時代の友人、河野氏の息子と名乗る男性から電話があった。河野氏には早々に百万円を借りている。氏本人がいつでもいいと言ったとしても、家族にしてみればそうはいかない。河野氏の入院により未回収になる事を危惧したのか、早急に返して欲しいと言われたのだ。五百万の融資から嵐山氏に四百万を返済し、残りの百万をそれぞれの返済の繋ぎにしながら、生活費にも当てようとしていた私の心算こころづもりは当てが外れたのだ。
「実は……」
 私は正直に河野氏の一件を語った。
「そうですか。では四百万あれば、他の方達への返済は全て済むのですね」
 私は頷いた。嵐山氏は躊躇ためらわず続ける。
「これは私からの提案ですが、中嶋さんから返して頂いた四百万、改めて君にそのままお貸しするというのは如何ですか」
 嵐山氏がお釈迦様に見えた。目の前にスーッと降ろされた蜘蛛の糸に縋るように、考える間もなく、
「はい、是非私に貸して下さい!」と、力強く答え、180度に届く角度で最敬礼をした。
「歩君はお父さんの為に頑張っていられて立派ですよ、信頼に値する」
 耳の奥がこそばゆくなる褒め言葉を聞きながら、身体の緊張が緩んでいくのが分かる。
「返済に関しては、後日話し合って書面に残しましょう」
 嵐山氏は付け加えた。
「ところで中嶋さん、いや道順先生とお呼びしましょう。今度はこちらからお願いがあるのですが、聞いて頂けるでしょうか」
「は、はい、出来ることなら何でも」
 突然話を振られた父は、不意を突かれて裏返った声で返事をする。驚いて変化へんげが解けてしまった狸のようである。
「道順先生が義父順景じゅんえいの跡を継いで、嵐山書道会を盛り上げて下さっていることには、常々感謝しています。義父が逝ってそろそろ二年経ちます。現在義母が会長を務め、そのブレインとして順景時代から引き続き、道順先生には理事を務めて頂いていると思いますが、ようやく義父の遺産整理も終わったので、創作活動や書家育成は元より、これからはビジネスとしての組織化された書道会というものを考えているのです」
「え、それはどのような……」
「例えば、学校とタイアップした子供の書道教室に重きを置く、大人向けのペン習字教室を開設する、色紙や短冊などの販売や、地元企業の商品ラベル作成なども考えています。地元の地域興しになればいいですね」
 嵐山氏は嬉々として語る。つまり師匠夫人から婿の嵐山貴教氏に書道会の実権が移ったことを意味していた。
 父の顔つきが変わっていた。間抜けな狸面ではなく、奥歯を強く噛み締める横顔があった。膝の上で握りしめていた手の甲には血管が太く浮き上がっていた。暫くの沈黙の後、
「奥さんは……会長は御存知なんですか」
「会長には手始めにペン習字の教室を始めてもらいます。まあ歳なので、会のどなたかに引き継いでもらうつもりですが」
「奥さん自ら……いえ、嵐山師匠のポリシーを十分理解されている奥さん……いえ、会長が承知されたのなら、私は何も言うことはありません」
「頼りになる実力者の道順先生に、是非これからも嵐山書道会を盛り上げていって頂きたいのです。是非とも協力をお願いします」
 見事に父は敗北した。いや、始めから勝負にすらならなかった。既にこの場で父が意見を述べるなど不可能であることは、火を見るよりも明らかであった。
 前衛的で独自性を追求し、どの会にも負けないと自負し歩んできた嵐山書道会。その名だけを残し、足元から崩れ去って別物に変わっていく姿が父には見えていた。それでも我が父は、そう返事をするしかなかった。
 追い打ちをかけるように嵐山氏は言った。
「期待していますよ」

 静かな嵐のような嵐山邸での時間を終え、帰宅。
 先月の解禁日に、試飲に参加し購入した、お約束のボジョレヌーヴォー。
 封をがしコルクをネジ開ける。深紅の液体をグラスに注ぎ、暫し香りと色を楽しみ、ゆっくりと口に含む。
 赤ワインの渋みが不得手な人も飲み易い、フルーティーで爽やかな口当たり……ブルゴーニュ地方ボジョレー地区産。収穫したぶどうの品質の確認をするための試飲を目的として「ヌーヴォー=新しい」と名付けられた……脳内でうんちくが流れた時、自分がソムリエ志望であったことが、遠い昔に感じた。
 不機嫌を固めた表情の父にも無理矢理グラスを渡し、とりあえず今日に乾杯した。
「Cin cin!」

つづく



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