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長編小説 「扉」8


   父の奔走(父の回想) 


 大手化学企業で研究員として四十年間勤め上げた。そのサラリーマン時代の傍ら培ってきた、書家としての創作活動。気の合う友人達との登山やゴルフ。趣味が高じ地元の史跡案内のボランティア。何より妻の朱実あけみが病を克服したら、二人で日本中を回る夢があった。裕福とまでは行かなくても、罪のない細やかな幸福が詰まった老後のはずだった。
 朱実を喪って歯車が狂った。今では相応の年金を受け取っているのに、気付けばいつでも残高が低空飛行の極みだった。原因は分かっているのだが、それも俺自身の不徳の致した所だ。口には出せない。そんな時にこの大失態だ。
 突然の一千万の霹靂。歩や理実に気付かれずに自分自身で決着をつけなくてはならない。
 理実名義で入っていた貯蓄型生命保険を解約してもせいぜい百万、他には床のちりと壁のやに以外何もない。これが今の俺の虚しい全財産だ。真面目に働いて得た退職金や、朱実が老後のために蓄えていてくれた預金、その全てが消滅した後のこの霹靂なのだ。

 化島商事のスギザキとの通話の後、既に自分の尻を拭っているような錯覚に取り憑かれ、冷静さの欠片もなくなっていた俺は、用多リンクのウエムラに訴えた。
「一千万など用意出来ない。無理だ」
「いくらなら用意出来ますか」
「……」
「金融業者などから借りるという手もありますが。早くキャンセルして頂かないとマズイことになってしまうので」
「……じゃあ何とか……何とか出来るだけ工面してみるよ」
 何故そんな台詞が咄嗟に口から飛び出したのか、今も謎だ。
 悪夢の電話を切った後は考える間もなかった。金を作らなければ警察に捕まってしまうかもしれない。解約さえ出来れば金は戻ってくる。
 手始めに理実名義の生命保険と、断腸の思いで孫の倫の学資保険を解約した。朱実から倫への最後の贈り物だったこの学資保険の解約は、理実には絶対に言えない。心が痛んだが背に腹は変えられない。悩んでいる暇などなかった。
 その後姉の町子に頭を下げに行った。口煩い姉だが多くの不動産を持っている。ところが町子は首を縦に振らなかった。それどころか、居留守や着信拒否を実行した。以前訳ありで借りた分の返済がまだ残っていたからだ。
 思い切って書道仲間の村井女史に頼んでみたが、金額が大き過ぎた。
「百万なんて無理よ、中嶋さん」
 日頃展覧会などに一緒に出掛ける親しい仲だったが笑顔で断られた。
 次に書道の弟子の間宮さんに祈るような気持ちで頼んでみた。彼女は天然ぶりが可愛らしい老婦人だ。今度は金額は指定しなかった。
「今日たまたま銀行に行って来たばかりなの。沢山は貸せないけど」
 銀行で下ろして来たままの封筒ごと渡そうとして、
「あらっ、全部渡しちゃうとお買い物が出来ないわね」
 そう言って一枚抜き取った後、再び封筒を渡してくれた。一万円札二十九枚だ。
 それから中学時代の旧友で登山仲間の河野こうのを頼ってみた。
「貸すのはいいけど大変だなあ。息子さん何しちゃったんだい」
 歩には申し訳ないが、適当な言い訳が思いつかずに「息子の不始末で必要になった」と言ってしまった。村井女史や間宮さんにも同じ言い訳をしていた。その日のうちに、幸か不幸か四百万円という大金が工面出来てしまった。
「四百万、用意出来たよ。だがこれ以上は無理だ」とウエムラに告げる。
「では残りの六百万はこちらで持ちます。その六百万も中嶋さんが支払ったということにしておきますので黙っていて下さい」
 明らかに立場が逆転し、矛盾に満ち満ちた馬鹿げたウエムラの言葉を、馬鹿正直に信じる馬鹿面の自分がいた。

 翌日の昼十一時に、ウエムラから指定された駅裏にある花屋の前で「マツモト」を名乗る黒スーツの男を待った。こちらの目印は薄汚れた白のキャップだ。以前理実が買ってくれた物だったがすっかりくたびれてしまっている。人通りはそれ程多くないが、まさか抱えている紙袋に四百万もの大金が入っているとは誰も思わないだろう。いつの間にか貧弱でみすぼらしくなった自分の姿がショーウインドウにぼやけて映っている。朱実が見たら何と言うだろうか。
 間もなく黒スーツの若い男がこちらに向かって歩いて来る。花屋の裏手にあるガレージで受け渡しを行う。現金四百万円入りの紙袋と交換に、マツモトから封筒を渡された。これで悪夢が終わって欲しいと願うだけだった。
 我が家に戻ってリクライニングソファーに身を沈めたが、用多リンクからの解約方法の指示待ちで、どうにも落ち着かない。マツモトから渡された封筒の中には「百万」と印刷された券のような物が四枚入っていた。

 掛かってきたウエムラからの電話には、俺の為のさらなる悪夢が周到に用意されていた。
「解約金の一部の四百万円お預かりしましたが、残りの六百万円がこちらで用意出来なくなってしまいました」
「どういうことだ?」
「実は受け取りに行ったマツモトが、こちらでの立て替えの件を、証券取引の相手に洩らしてしまったようなんです。なので、やはり中嶋さん本人に用意していただかないと解約が出来なくなってしまったので、残りの六百万円お願いします」
 お願いしますと言われたってどうにもならない。そもそも何を言っているのか理解が出来ない。沈黙してしまった。すると、
「中嶋さんは持ち家ですよね。不動産を担保に借り入れするというのはどうでしょう。こちらで紹介しますよ」
 翌日、ウエムラから紹介された金融業者を訪ねた。乗りつけない電車を乗り継ぎながら到着したのは、川崎にあるダックコーポレーションという金融業者だ。代表者だと名乗る五十絡みの男は横柄な応対で、俺の年齢を聞くや否や一蹴した。だがこちらも必死だ。食い下がってみた。金額を下げてみた。しかし、引き下がるしかなかった。再び「六百万は無理だ」とウエムラに訴えた。
 翌日、用多リンクから封書が届いた。そこには数枚の借用書の書式と、借りるための口実例などが印刷された紙が入っていた。他人から借りる時に使えという意味らしい。
 最早体裁を構っている場合ではない。既に砕け散ったプライドの残骸を捨て、山神君という十歳程若い友人を頼ってみる。長年、互いに切磋琢磨して前衛的書道を模索し続けてきた盟友だ。彼は、
「他でもない中嶋さんの頼みなら」と快諾してくれた。
「中嶋さんも苦労するね、でも息子さんは大丈夫なのか? 心配だよ」
 温かい彼は本気で気遣ってくれた上に、二百万もの大金を貸してくれた。
 そして最後の望みを託そうと決心したのは、我が書道の大先達、故嵐山順景師匠の夫人だった。夫人は、あの強面であった師匠とは対照的に、穏やかで上品な優しい女性だ。ところがその返答は、
「ごめんなさいね、中嶋さんが息子さんのことで大変な思いをしている時にお力になれなくて」
 嵐山師匠の遺産整理等の諸事情により長らく弁護士が入っているので、金銭を動かすことが出来ないらしい。途方に暮れていると優しい夫人は、
「では婿に頼んでみましょう」と言った。
 六月も後半に差しかかっていた。七月末日までに返済する約束をして、師匠の娘婿の嵐山貴教君から最大の四百万を遂に借りてしまった。
 運命の六百万円が、木っ端微塵のプライドと引き換えに目の前に揃ってしまったのだ。
「六百万、用意出来たよ」
 ウエムラに告げて、今度こそ終わると思った。

         *


 昼十一時、花屋の前。マツモトの姿を確認。前回とは反対側のビルの脇で受け渡しを行う。今回も百万と印刷された券が六枚入った封筒を渡され、そのかんあっと言う間だった。これで解約が出来る。
 帰宅後、帽子を脱ぐのも忘れてウエムラに電話をすると、「証券取引厚生委員会事務処理係」からの連絡を待てと指示された。
 その後の連絡により、解約処理に必要なIDとパスワードを口頭で受け取った。アルファベットと数字が混在する長い文字なので、間違えないように繰り返し確認した。歳をとったとはいえ、長年化学系の職場で働いてきた自負がある。アルファベットや数字の聞き間違えを避けるためのすべは持っている。ウエムラに、たった今受け取ったIDとパスワードを伝えた。これで今日中に解約出来るだろう。期待と不安が渦巻く。
 ところが、これが終わりどころかさらなる底無し沼への残酷な落とし穴だったのだ。しばらくするとウエムラから折り返しの電話が来た。
「ああ中嶋さん、大変なことをしてくれましたね。パスワードが違っていたんですよ」
「ええ! そんなはずは……俺は何度も確認したぞ」
「聞き間違えたんじゃありませんか」
「そんな……あれだけ確認したんだが……もう一回聞いてみるよ」
「そのやり直しが出来ないのです。一度間違えると、そのIDやパスワードは使えなくなってしまうので、改めて最初から解約手続きをしないとならないのです」
「もう一度電話してもらってよ」
「いえ、この解約そのものが無効になってしまったのです。解約するには、新たに株を買い増ししていただき、その上で全てをキャンセルという手順を踏んでいただかなくてはなりません」
「どういうことだ」
「つまり中嶋さんに、株を買い増しして頂いて、それが確認出来ましたら、改めて解約に必要な新しいIDとパスワードを証券取引厚生委員会からもらって下さい」
「また金が必要なのか。一体どうなってるんだ」
「最低でも二十株単位で購入するのが決まりとなっていまして、一株百万円なんです」
「じゃあどうするんだよ、二十株なんて」
「中嶋さんは持ち家でしたよね」
「そうだよ。だから紹介してもらった金融業者を訪ねたが、融資は受けられなかったんだ」
「二十株買い増しすると二千万ですが、半分の一千万をうちで持ちます。だから中嶋さんは一千万をお願いします。それしか解約の方法がないので」
 もう何が何だか分からない。神経も感情も麻痺していた。やってもいない偽のインサイダー取引の処理に追われ、その太々しく堂々とした矛盾満載の法螺話を信じ、自らの不始末であったかのように行動させられていた。俺は俺自身がまるで見えなくなっていたのだ。藁にも縋る思いが意味不明なアドレナリンを放出する。もう一度川崎まで行ってみよう。あの横柄なダックコーポレーションで何とか融資してもらおう。

 翌朝早々に身仕度をする。金が無い時に交通費もバカにならない。それでも、痩せて貧弱になったこの体裁では貸す方も不安かもしれないと、すっかりダブダブになった麻のブレザーを羽織って体の大きさを誤魔化し、出掛けようとした時だった。チャイムが鳴った。今は誰とも会わずに出掛けたいのに誰だ。少なくとも勘の良い理実には会いたくない。恐る恐る扉を開けると、そこには義妹の佳那かなが立っていた。
「ああ、佳那ちゃんか。今ちょうど出掛けるところでな。悪いな」
「いいのいいの。お惣菜作ったからお義兄さんにお裾分けで持って来ただけだから。お義姉さんにお線香だけ上げさせて」
 そう言うと、散らかった居間に上がってきた。
 佳那は朱実の末弟の連れ合いで、可愛くて気の利く妹分という感じだが中々のしっかり者だ。俺の弟子を経て、今は嵐山書道会のメンバーでもある。特に朱実を喪ってからは、一回り以上年下ながら世話好きな彼女を頼ることもあった。昔からウマが合い可愛がっていたので、朱実の機嫌を損ねた記憶もままある。佳那は理実に勝るとも劣らず勘が鋭い。
 早々に彼女を追い返し、川崎のダックコーポレーションに向かった。二度目の乗り継ぎはスラスラといった。前回同様のやり取りの中、横柄なダック代表が食い下がる俺を「もう来ないでくれ」と追い返した。
 もう狂っていた。気付けば次の日も川崎まで出掛けていた。俺はどうにかなっていたのだ。狂った頭の中には、借金のための口実に用意していた「アトリエ改築」という嘘が、まるで真実であるかのような妄想さえ垣間見えていたのだから。
 そして口を衝いて出たのが、
「借りるのが無理なら、家を買ってくれ」だった。
 残された選択肢はこれだけだ。家を売ってまでの改築という可笑しな矛盾にも気付かず必死で頼み込む。ところが、
「うちは不動産売買はやってないの。帰って下さいよ」
「じゃあ、どこか買ってくれるところないですか」
「それじゃあ、麹町の不動産屋を紹介しますよ。場所教えるから、そっちで交渉して」
 またもや電車を乗り継いで、麹町にある大きな不動産屋を訪れた。ここがトータル不動産だった。相談コーナーでの通常の応対が非常に丁寧に感じられた。慣れとは怖いものだ。
「急ぎの金が必要になってしまったので、不動産を売りたいのだが」
 客が売りたいと言うのを止める理由は不動産屋にはない。交渉の末、八百万で仮契約を終えた。想定額の半分でしかなかったが、何やら大仕事をやり遂げた後のような疲れと脱力感を覚え、満足なのか不満足なのかも判断出来ないまま、我が家でなくなろうとしている我が家にグッタリと帰ってきた。
 ウエムラに電話をするが繋がらない。こちらは老骨に百万遍もムチ打って、その文字の如く必死至極だというのに。だが、その後ウエムラにもスギザキにも電話が繋がることは二度となかった。


つづく




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