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長編小説 「扉」38



     姉弟対決再び 二


 
 私のソワソワは朝から止まらなかった。今日は他の誰も父に線香をあげに来ないでくれと祈った。そのような時に限って人は訪れるものである。
 午前十時頃、樹、佳那夫婦がやって来た。母方の親戚で唯一、父の詐欺被害を知っている二人である。愛すべき父の着地した結末が、こんなにも虚しくあっけないものであったことに、私を含めた三人の空しき嘆息が無遠慮に父の骨壷を取り巻く。
「いつも笑顔で自信に満ちていた、あの道央義兄さんからは、想像出来ない終わり方だったよな」
 樹が嘆息する。
「本当、昔から冗談好きだけど、パシッとしていて格好良かったのにね。最後は生気がなくて、まるで別人だったものね」
 佳那も嘆息する。
「俺は現在進行形でずっと近くに居たから、昔のことなんて憶えていない。今の父、、、が全てかな」
 私も大きく嘆息した。
「片付け、手伝ってあげるよ。掃除でも料理でも」
 佳那は持ち前の世話好き精神を見せる。
「ありがとう。でも俺、家事が嫌いじゃないから大丈夫だよ」
 申し訳ないが、実はこの二人にはそろそろ引き上げて頂きたかった。何故なら今日は愛する百合と桜子が来るのだから。
「うどんでも作っていってあげようか」
 そう言う佳那の絶大なる厚意を丁重に断る。
「また来るね、頑張るんだよ」
 二人は私の背中をポンポンと軽く叩き帰って行った。有難い温かさである。
 入れ違いのようにして呼び鈴が鳴る。百合と桜子の到着に、線香臭い家の中が花の香りに包まれる。
 父の骨壷のある祭壇に、静かに手を合わせる二人。私の愛する家族だ。
 立ち昇る線香の煙を見つめながら、この愛する者達のため私に出来ることを考える。来春には塁との同居、更に三年後には桜子とも。やがて数年後には百合も再び同居ということも有り得るではないか。そんな薔薇色、いや桜色の妄想の風呂敷を広げ、それが実現すると思える程、二人との午後は穏やかで心地良い時間であったのだ。
 父の若い頃のアルバムを広げ、
「お義父さん、かっこいいね」
「おじいちゃん、かっこいい! 陸上選手だね」
「お義父さん、昔からハンチング帽をかぶっていたのね。よく似合っているわ」
「でもさ、やっぱりパパ似てるよね、おじいちゃんの方がイケメンだけど」
「確かにね」
 そんな憎まれ口をきいて笑い合う二人が、何よりも愛おしい。
 桜子が手芸クラブで編んだという第一作目の深緑色のマフラーが、祭壇の傍らに添えてある。不揃いの編み目が、如何にも練習段階の初々しさを主張している。桜子に愛されて愛すべき父も本望であろう。
「次はパパのを作るから待っててね」 
 待ってるさ。どんな出来映えであろうとも、そのマフラーを装着して何処へでも出掛けて行くさ。でも、やはり私は父の次なんだなと、微かな敗北感を感じる。
 前日から仕込んであった料理を披露するべく、二人を夕飯に誘った。予想を裏切らない桜子が、
「パパのお店のパスタが食べたい」と言う。
「今日はパパが腕に縒りを掛けた料理だぞ、お店では食べられないんだぞ、美味しいぞ」と誘惑すると、
「じゃあ今日はおじいちゃんちで食べて行く。パパはママよりもずぅっと料理が上手だもんね」
 天使の如きあどけなさでクルクルと床を回る。天使というより仔犬である。頑なに遠慮をする百合を説き伏せて、私の至福の時間が過ぎて行くのであった。
 パリパリとピカタを頬張る小さな顔が、おいしいおいしいとモゴモゴする。
「飲み込んでから喋りなさいよ」
 百合が叱咤すると、トマトスープで口の中を整え、
「お兄ちゃんも来ればよかったのにね。勉強ばっかりして、うちでコンビニ弁当食べてるなんてかわいそう」
 この正直さ、率直さが可愛くてたまらないのだ。
「そういえば、塁の志望校は決まったの?」私は訊ねる。
「自転車で通える地元の高校に決めたわ」
「え?」
「そこなら今の偏差値でも併願なしで受かりそうだし、高校に入ってから考えればいいじゃない、情報系に進むかどうかなんて」
「じゃあ、こっちで暮らすっていう話は……」
「別に具体的に話していた訳じゃないし、仮にこっちの高校に通うことになったらというだけの話だから。お義父さんもいなくなっちゃったし」
 唖然とする私に目もくれず、綺麗な顔を崩しもせず、百合は素っ気なく言い放った。
 私一人が鼓舞していたのである。春先だったか「現実味がない」と言った姉の言葉が蘇る。花の香りに満ちていた居間は、充満する線香臭さにとって変わった。
 高齢の父の尻を叩いて家の修繕を急がせ、所有物を捨てさせていた私の所業は何のためだったのか。落胆に満ちた心の内を百合に気取られぬように、私は笑顔を取り繕う努力はするものの、明らかに口数は減り耳鳴りがしていた。
 桜子が父の形見が何か欲しいと言うので、書道部屋に上がる。父が整理しきれていなかった紙類の中に、綺麗な和紙や色紙を見つけ、きれいきれい! と目を輝かせている。階下から百合の呼ぶ声が聞こえた。
「アユ君、ちょっといい?」   
 桜子を書道部屋に残したまま、嬉しくない予感に臆病になりながら階段を降りる。
「お義父さんが今迄アユ君の代わりに子供達にしていてくれたことは、今後も続けてもらえるのかしら。少なくとも塁は大学を出してあげたいし。それと、うちの母がアユ君に借したお金、お義父さんが毎月返してくれていたのだけど、残りをちゃんと母に返して欲しいのよ」
「ちょっと待った。一度に言われたって答えられないよ。ちゃんとするから、責任果たすから。四十九日が済んだら話し合おうよ」
「わかったわ。お義父さんがいなければ、子供達もここには来なくなるわね」
 百合は美しい顔の表情も変えず、むしろ静かな鬼のように、私を絶望の淵に追い込んだ。桜の樹の下に埋まってしまいたい感情が再び押し寄せる。
 百合に促され、桜子が色とりどりの和紙を両腕に抱え、加えて父の中国土産だろうか、可愛い人形型の彩色文鎮を手にして、二階から下りてきた。
「お夕飯、すごくおいしかった。今度はお兄ちゃんも連れてくるからね。またね、パパ」
 何も知らず無邪気に手を振る桜子の笑顔の向こうで、百合の冷たい横顔が言葉もなく車のエンジンをかける。もうこれで桜子に会えなくなってしまうのだろうか、そして塁とも……そう思った瞬間私は発狂した。

 翌朝気が付くと、家中強盗に入られでもしたように荒らされ、書道部屋に組み立ててあったベッドは破壊されていた。これは私がやったことなのか。ショックのあまり記憶がとんでしまっているが、昨夜ここで暴れたのは私でなければ誰だというのだ。繊細な私が深く傷ついた証である。
 その残酷な現実を直視しなければならない我が家に居れば、再び我を見失うのは必至だと考え、私は逃げた。唯一の駆け込み寺であるパチンコ屋の騒音に身を置く。しかし、この日も巧には出会えなかった。



つづく





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