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長編小説 「扉」30


    真夏の夜の悪夢 二



  倫の混迷 

 母さんが入院した。定期考査直前だった僕は、じいちゃんの家に居候をした。毎日遅くまで自習室に寄るので、帰宅はいつも夜だった。
 じいちゃんは、毎晩僕の帰りを待ってから夕飯を一緒に食べる。肉と野菜のごった煮や薄味の煮魚が多いが、僕は結構好きだ。それに、当初はアパートに一人でも大丈夫だと思っていたが、じいちゃんが手作り弁当を毎朝用意してくれるのが嬉しかった。豚肉炒めが殆どだったが、毎日味付けが違うので飽きることはない。一人暮らしだったら、毎日がコンビニおにぎりの昼食だったに違いない。
 母さんやアユ兄は、じいちゃんのことを気が利かないとかとぼけているとか言っているが、そんな人が毎朝味の違う弁当を作ってくれるだろうか、毎晩夕飯を待っていてくれるだろうか。
 小学生になって初めての長い夏休み。毎朝じいちゃんが車で迎えに来てくれたことを憶えている。病院勤めの母さんが出掛ける前に来てくれるのだ。
 サファリパークや博物館、公園や美術館、映画やミュージカルなど、多くの楽しい場所に連れて行ってもらった。学校の畑の胡瓜の収穫を手伝ってもらったり、夏休みの自由研究で雑草を写真に収め、図鑑で調べ、押花にするのも手伝ってもらった。海釣りでひたすら待ったあげく、大きな蟹が釣れた興奮は忘れない。書道のお弟子さんが通って来る中、大人に混じって左利きの僕が右手で習字を習ったことも憶えている。何と言っても楽しかったのは、将棋を教わったことだ。強いじいちゃんを出し抜いた時は、本当に嬉しかった。夏の夜空に響き渡る大輪の花の正体を確認するために、駐車場の屋根の上で、小さい僕を肩車してくれた逞しくて優しいじいちゃん。
 そんなじいちゃんが、この一年でこんなにも小さくなってしまったのには驚いた。母さんやアユ兄はじいちゃんに冷た過ぎるのではないか。自分達こそ気が利かなくて我儘で、じいちゃんを利用してとぼけているのではないか。祖母の朱実ママは、僕の記憶として認識される前に鬼籍に入っていたし、父親というものを知らない僕にとっては、たった一人の最高のじいちゃんだ。
 居候中の夜は、アユ兄のゲームや溢れんばかりのコミックスに熱中した。朝から受験勉強三昧なので、夜間は僕の世界に浸ることにしている。うるさい母さんもいない分、それは容易だった。

 ある夜半、階下で大きな物音と男の怒号が聞こえた。何かが壁にぶつかるような音と共に、ガラスの割れる音。誰かがこの家の中に入り込んでいるのだと恐怖を感じ、硬直した。物音を立ててはいけない、咄嗟に身を守ることを考えたが、同時にじいちゃんは大丈夫だろうかと不安になった。アユ兄は帰っているのだろうか。
 瞬間的な怒号や破壊音はすぐに止み、静かになった。夏にもかかわらず震えが止まらない自分が情けなく、だが階下のじいちゃんが心配だ。考えられるのは、泥棒のような招かれざる誰かとじいちゃんが鉢合わせをしたことだ。全神経を耳に集中しても、物音は聞こえて来ない。震える左手に、一メートルの重たいステンレス製定規を握り、ポケットには携帯を忍ばせて、猫のような忍び足で階段を降りた。階段のきしむ音に一々びくびくする。十七年の人生の中で、最高速の恐怖の心拍数だったと思う。
 居間から細く明かりが漏れていて、うっすらテレビの音声が聞こえる。じいちゃんの寝室は暗いが開け放たれている。風呂場からシャワーの音が聞こえる。じいちゃんが猟奇的な恐ろしい目に遭っている様子が浮かんできて、怖くて吐きそうになった。すぐに通報できるように、震える手で携帯の緊急画面を表示しておく。そしてありったけの勇気を奮い起こし、細く明かりの漏れている居間のドアの隙間から、そっと中を覗き見る。テレビの画面が動いている。心拍音が聞こえてしまうのではないかとおののきながら、右肩で少しずつドアを広げていく。
 ようやく居間全体が見渡せた僕の目に飛び込んで来たのは、壊れて飛び散った大きな額縁と、壁際に背中をつけて蝋人形のように固まった、血の気の失せたじいちゃんだ。辛うじて、胸を押さえる握った拳が小刻みに震えているのが、じいちゃんが息をしていることを示していた。
「じいちゃん!」
 小さく叫び、そばに寄る。
「大丈夫? どうしたの? 誰かいるの?」
 右のポケットから携帯を取り出し、
「警察を呼ぼう」
 そう言って110番をタッチしかけた時、じいちゃんが握っていた拳を無言で開いて、僕の指を止めた。
「倫、済まない。いいんだ。警察は呼ぶな」
 じいちゃんの手が震えている。
「……なんで?」
「何でもない、またあいつ、、、が来ただけなんだ」
「また? あいつ? 泥棒じゃないの?」
「何でもない、何でもないんだ」
「じいちゃん、これって尋常じゃないよ。あいつって誰? 誰が来たの?」
 僕は目の前の状況が全く理解出来ずに苦しんだ。
「倫は知らなくていいことだ」
「何言ってるの、じいちゃん! 知っている人なの?」
「ああ、じいちゃんの知り合いだから心配するな」
「アユ兄は帰ってるの?」
「歩は風呂場だ」
「風呂? アユ兄は気付かなかったの? そもそもその人はどこに行ったの?」
「もう出て行った……と言っても倫は納得しないな。誰だか教えたら寝てくれな。だが歩にも理実にも知られたくない。言わないと約束してくれな」
 僕は頷きもせず、じいちゃんの目を見て黙っていた。
「さっき居たのはタクミ、、、という男だ。歩の知り合いみたいなものだが、歩の知らないところで無理難題を吹っかけてくる悪魔みたいな奴だ」
「アユ兄に何とかしてもらえないの?」
「歩はタクミを信用しきっているから無理なんだよ。これはじいちゃんの問題だから、倫や理実は無関係だからな。頼むから、もう二階に上がってくれ」
「アユ兄はその人にコントロールされてるってこと?」
「それ以上聞くな」
「でも……」
「倫、心配するな。大丈夫だから寝てくれ」
 じいちゃんのこの必死さは何だろう、大丈夫な訳ないのに。アユ兄の友人なら……
「倫、頼むからじいちゃんの言うことを聞いてくれ」
 長年大筆を握っていたじいちゃんの五本の指が僕の二の腕を摑み、言葉以上の圧を掛けた。僕は何も言えずに、全く腑に落ちないまま居間を出る。微かなテレビの音声に混じって、割れた額を片付ける音が背後から聞こえて来る。割れていたのはじいちゃんが日以友好芸術展に出品した作品で、居間の壁に掲げてあったものだ。
 じいちゃんの態度は明らかに変だ。僕の震えは既に止まってはいたが、目の前のあらゆる状況とじいちゃんの発言の、想像を超える矛盾が理解出来ずに、じいちゃんの虚言を疑ってみた。僕の混乱する脳内をどうやって落ち着かせようかと暗い廊下に立ち尽くしていると、突然アユ兄の声がした。
「何だ倫、起きてたの」
 髪がビショビショで、風呂場から出たばかりだということがわかる。一瞬躊躇したが、
「あ……あのさ、さっき誰か来てたの?」と聞いてみる。
「え、知らないよ。こんな夜中に誰も来ないでしょ」
「さっき居間のじいちゃんの額が割れたんだ」
「またやったのか。いいよ、俺が様子見るから。それより、夏休み中にまた塁の勉強見てくれよな」
 笑顔を向けたアユ兄に返す言葉が思いつかず、
「うん、わかった」とだけ答えた。
「お父さん、またかよ。怪我は?」
 そう言いながら、アユ兄が居間に入って行った。
 たった今、目の前で展開されたじいちゃんの不可解な言動をアユ兄に伝えられず、忍者のように消え去った「タクミ」という人物への疑惑が思考を占領した。じいちゃんに他言無用と言われたとはいえ、やはりアユ兄に伝えるべきかを考えあぐね、とうとう寝ずの夜を過ごした。
 この一年、極度のストレスでじいちゃんの精神状態が芳しい訳はなく、虚言や幻覚も視野に考えてみたが納得がいかない。ただ得体の知れない何かが、じいちゃんを飲み込もうとしているのだという恐怖が、正体不明の不安砲として僕の腹に撃ち込まれた。
 それにしてもタクミって一体何者なのだろう。あの夜、確かに僕にも男の怒号が聞こえた。確かに誰かの存在があった。虚言や幻覚では説明が付き兼ねる。
 あの晩から僕は上手く眠れることが出来なくなった。

 それからのじいちゃんはほぼ普段通りだった。あの晩のことは夢だったのではないかと思えることもしばしばだったけど、額縁が消滅した壁の灼け跡を見る度、現実だったことが再認識され、混乱が蘇る。だけど、じいちゃんにもアユ兄にも蒸し返して質問する勇気はなかった。ただ、じいちゃんは僕と話す時は笑顔を貼り付けてはいたが、大概は無表情だった気がする。

 高校生活最後の夏休みに入ると同時に、強化合宿セミナーが始まる。一週間の受験対策だ。高校主催の合宿なので受講料は無料、会場は昨年同様、高校のOB経営の箱根のホテルなので、信じ難い格安で滞在出来る。夏の箱根合宿は避暑も兼ね、下界にいるじいちゃん達に申し訳ない。
 この夏休み中に、母さんは退院出来るのだろうか。中々見舞いに行かない僕を、きっと恨めしく思っているだろう母さんに、タクミという男の話をリークした方が良いのか。じいちゃんの他言無用の必死の約束を守った方が良いのか。腹に撃ち込まれた不安砲が疼いた。
 僕は芯から根が真面目というか、融通が利かない頑固者なので、約束や頼まれ事は確実に遂行するタイプだけど、今度のじいちゃんの場合は、冗談ではなく命にかかわりそうな不安があった。だから、あの時あっけらかんとしていたアユ兄に、心なしか違和感を感じていた。
 それでも、合宿前には「じいちゃんの安全を守ってね」と、アユ兄に生意気な口をきいてしまった。
「わかってるよ。倫も大人だね」
 アユ兄は笑顔で僕を見送った。


つづく




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