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【小説】『フラッシュバック』#38

  遠くで波の砕ける音が聞こえ、気がつくと、海岸の波打ち際に打ち上げられていた。ぼくは砂浜に伏せって倒れていた。倒れたまま海水を口から吹きだして咳き込み、鼻が強く痛んだ。しかし頭と胸は不思議と痛まなかった。
 世界が終わる日の朝を迎えていた。
 ふと気がつくと、いつも見かける幼い女の子が、しゃがんでぼくを見下ろしていた。だれかいてくれたのか……と、ぼくはふとほっとしてそう思った。
 あたりには打ち上げられたヒトデが散乱しているだけで、恐ろしい終末の雰囲気とは束の間無縁だった。
 
 少女はぼくの顔を覗き込み、目覚めるのを待っていたかのようだった。ぼくは頭がぼーっとしながら起き上がり、なんとなく少女のそばにちょこんと座った。
 天使が世界が滅びると言う日の朝、空は果てしなく灰に曇って澱(よど)んでいたが、朝だとわかる程度には薄明るかった。
 
 少女は全く喋らない子だったが、ぼくは地獄の朝だね、と不謹慎なことを言った。
 見ると、ぼくが倒れていた間、少女は濡れた浜に木の棒でお絵かきをしていた。何だこれは、とぼくは思った。直線とギザギザが交互に繰り返して書いてある。……心電図か?
 少女はぼくの様子をうかがっていたが、どこからともなく車のおもちゃを取り出しては、それを手で転がしてぼくにぶつけ始めた。
 ……やれやれ、なんだか珍しいおままごとだが、最後にこうして過ごすのも悪くないか……。そう思って、ぼくはしばらく少女に付き合うことにした。
 
 あたりにはだれもいなかった。
 
 少女は次に、ヘリウムで浮かぶひも付きの赤い風船を手にしていた。ひもの先にはストローを手でつなぎ、その先端をぼくの腕にひたすらプスプスと刺してくる。
 痛いなぁ。とだけぼくは感じていた。しかし。
 少女は無口だったが、見ると何かを訴えかけている様子だ。
 …ん?
 次に少女は、ちぎって分けて使う前の、郵便切手の束を取り出して、ぺろぺろとキャンディーのように舌で舐めだした。
 ……きたないよ、どうしたの?
 しかし、ぼくに何かを披露している。何かの意図を感じる。
 次に少女は、何やらパントマイムをしだす。ジェスチャーゲームのようだ。手でコップを持っているように輪っかにして口に運び、ゴクゴクゴク、ごっくん、といった感じで飲み干しては、その場にぱたりと倒れる。
 ……どうした? ……水を飲んで倒れる?
 少女は倒れた状態でこっちを確認し、ぼくがちんぷんかんぷんでいるのを見ると、引き続き何度も繰り返す。
 ……ごくごく、ごっくんして、ぱたり? ……何を飲んでいる?
 見かねた様子で、さらに少女はぼくと片手で手をつなぎ、ひたすら片手でごっくん、ぱたりと倒れるのを繰り返しては、ぼくの上に覆いかぶさるようにして倒れる。
 ……手をつなぎ? ……倒れる? ……折り重なる?
 ねぇ、まだなの?という目で少女はぼくを見る。
 何だこれは……いや待てよ……?
 少女は包帯でぼくの頭を巻きだす。
 ……これは……。
 少女はぼくの身体を揺さぶる。そして繰り返す。
 車のおもちゃをぶつける。
 ストローで刺す。
 切手を舐め、ごっくん、ぱたり。
 ぼくの手を握り、覆いかぶさり倒れる。
 ……これは……。
 最後に、少女はぼくの口元に呼吸器のマスクを押し当ててくる。
 口と鼻を塞がれてふと息が苦しくなった瞬間、ぼくは刮目した――。
 
 そして記憶が蘇る――。
 上書き消去が取り消されていくように――。そして今いる世界のあらましを理解する――。
 
 
 ごっくん。ぱたり。
 吐きそうになりながら。
 思い出せないだれか。
 おまえが何をしたかだ。
 呼吸器。
 車。
 運ばれていく。
 自殺未遂。
 心電図。
 病院。
 手をつなぎながら。
 絶望。
 目に涙を浮かべながら。
 脳。
 ストレッチャーで。
 夜。
 点滴。
 死が待ち構える。
 願い事には十分気をつけるんだな。
 ひどい頭痛で目を覚ました。
 崩壊。
 思い出せないだれか。
 天使。
 このしょうもない現実。
 おまえがおれを引き寄せたんだ。
 誰かが好きそうな世界を演じる。
 ひとりじゃない。
 こうして抜け出せないでいる。
 世界を閉じ込めておく玉。
 残された時間は少ない。
 住む世界を異にする。
 思い出せないだれか。
 観測されてはじめて収束。
 幻。
 見えている意味を信じろ。
 終わりはやってくる。
 だれかがいないような。
 愛を知っていますか。
 
 
 ああそうか……! そういうことだったのか!! そして君は……!
 
 気がつくと、そこに天使がいる! ヒトデを拾って海に投げ返している。
 これは仮説にすぎないがと、すぐさま彼に確認を取る。
 
 ぼくはある夜病院で間違いを犯し、気がつくと自宅で倒れていた……。
 「それで」と天使が言う。
 ぼくはその過ちを、間違いなくだれかのために犯した……。
 「おまえの都合でな」と天使が言う。
 そして……。
 
 ここはそのだれかが見ている世界で、その人だけが抜けて不在の世界……。
 この世界に存在しないだれかを、ぼくははっきりとは認識できない……。
 だれかの覗く世界の中で演じられるぼくの最後の日々……。
 そして、そのだれかの命には、終わりが近づいている……。
 こうしてこの世界は滅んでいく……。
 
 天使はしばらくぼくを見つめていたが、やがて口を開いた。
 「中(あた)らずとも遠からずかと思ったが」と天使が言う。「……ようやく気づいたか」
 そして言った。「よくもここまで現実を難しくしたな」
 ……ああ、ああ、ああ、ああ、ああ、とぼくはいつもの調子を取り戻す。
 ぼくは自分でもありえないと思いながら、不思議と納得していた……。そもそもすべて自分で望んでこうなった……。そうしてこの世界にいた……。
 「これでわかっただろう」と天使が言う。「おまえはとことん救いがたいやつだ」
 そうだ……。ぼくはある間違いを犯し、記憶を消されたかのように天罰が降(くだ)ったのだろう……。そうして狂っていく世界の中で残り少ない日々を演じさせられていた……。
 「言っただろう」と天使が言う。「この世界はまもなく終わり、おまえ自身に残された時間も少ないと」
 そういうことだったのか……。ある意味すべて幻覚にすぎなかったのか……。だが……こうして過ごしてきた時間は……やり直しを赦(ゆる)された日々であったようにも感じる……。そうして天使が現れてくれたからだ……。
 
 ぼくはこれまでの日々を瞬時に思った。ある朝ひどい頭痛で目を覚まし、耐えきれない仕事をし、天使に出会い、ケイコに出会い、日々を過ごしながらも、ずっと思い出せないだれかがいた……。
 
 「で」と天使が言う。「どうするつもりだ」

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