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【読書】『原子力と理科教育ーー次世代の科学的リテラシーのために』(笠潤平)

理科教育は「原子力」とどのように向き合うべきだろうか。

福島第一原子力発電所事故から8年の月日が経った。復興への歩みを進める中、大惨事を引き起こした「元凶」とも言うべき「原発」の再稼働をめぐって議論が続いている。

原発をめぐる議論は電力会社だけのものでも、政治家だけのものでもない。一般市民も関わって共に考えていかなければならない。

しかし、そうした議論に参加するには「適切な知識・態度」が必要となる。そういったものを身につけた「考え、議論できる市民」になるために、理科教育に何ができるのだろう。理科教育は何をすべきなのだろう。

本書で、著者は福島第一原発事故前の日本の原子力教育を中心に整理しながら、イギリスの教育との比較の中で問題点を洗い出し、今後の理科教育の方向性を提言している。

本書の構成

はじめに
第1章 日本では原子力・放射線問題をどう教えてきたか
第2章 市民の科学的リテラシーのための科学教育
第3章 『二一世紀科学』コースが登場するまで
第4章 科学コミュニケーションと理科教育の今後

「原子力PA方策の考え方」が持ち込まれた教育

原子力発電推進の世論からの指示を勝ち取るために、日本原子力文化振興財団がまとめた「原子力PA(Public Acceptance)方策の考え方」という文書がある。著者はこの文書について

その多くは科学コミュニケーションを、公衆との対話と捉えていないばかりでなく、真面目な啓蒙活動の提言というものでもなく、そこには手段を選ばぬ効果的な宣伝方策とも言える諸提言が、むき出しに記録されている(p.11-12)

と指摘している。さらに、同文書の中では学校教育についても

(1) 教科書の記述を最重要視し、(2) 現状を、執筆者が原子力推進に消極的であるとして強く非難し、(3) それに対する方策として、推進側の組織が「厳しくチェックし」教科書検定に反映させるべきであると主張(p.13)

していることを指摘している。

『チャレンジ! 原子力ワールド』の問題

著者は、2010年夏頃に完成していた教科書を分析したうえで、次のように結論づけている。

これらの理科の教科書の執筆者には、原発推進をとくに意識した教材を作成するという意図は、今回も総じてそれほど強くなかった(p.15)

しかし、文部科学省が配布しようとした『チャレンジ! 原子力ワールド』をはじめとした副読本については次のように問題視している。

・この副読本で扱われた内容は、日本と世界のエネルギー事情、各発電方法の特徴、原子の構造、放射線の種類と基本的な性質、医療などにおけるその利用、原子力発電のしくみと特徴、原子力発電の現状と今後などと網羅的だった
・日本の原発の地震・津波対策は十分であり、原子炉は多重防護の考えの下で安全である、万が一の事故の際にも「オフサイト・センター」を中心とした防災システムが準備されている、という見解のみを「事実」の説明として与えようとするものになっていた
・核燃料サイクルは重要という見解を読む側に与えつつ、その困難や拡大するコストについての指摘やその政策自体に対する異論にはまったく触れようとしない(中略)さらに、放射性廃棄物の問題についても、その処分地の候補選びのめどが立っていないなどのよく知られた困難についても、まったく触れていません。(p.16-17)

具体的には、安全であるという「判断」や「割り切り」を、あたかも「事実」であるかのように叙述していること等が問題点として挙げられている。また、エネルギー問題の妥当な結論を「ベストミックス」に持っていこうとする姿勢についての批判もなされている。

こうした点を整理した上で、イギリスの教材と比べた問題点を次のように指摘する。

(1) 図表などを多様に用いて情報を次々に並べつつ、実は、個々の情報の批判的な吟味を促さない
(2) 原子力発電という科学・技術と社会がかかわる問題について、多面的・総合的な検討の必要を謳いながら、他方で、問いも答えも複数の立場からの検討を避けている
(3) 大きなニュースになった東電や旧動燃のトラブル隠し・データ隠しなど、公開性・説明責任や企業・行政機関・専門家の倫理性に関する問題にはまったく触れない(p.17)

対して、イギリスの教材に見られる姿勢を次のように指摘している。

①進行中の科学・技術の問題については批判的な吟味が存在するのが当然である
専門家の間でも意見が分かれるのは珍しくないことであって、その理由を理解できるような市民を育てようとする姿勢
③行政や企業あるいは専門家が信頼されるためには、公開性透明性が必要であるという認識(p.17-18)

イギリスの理科教育の実例をみる

著者は、イギリスの「市民の科学的リテラシーのための科学教育」の試みを紹介している。ここでの「科学的リテラシー」とは、「科学的な知識の量ではなく、科学に関するさまざまな情報に対して思慮深い判断をすることができるかどうかの問題と捉えている」と指摘している(p.25)。

各教材は、根拠を示しながら自分の考えを述べるように、また、安全性やリスクに関して(「予防原則」等の)現在基本とされている考え方を習得し、それを用いた議論が可能なものになっている。

また、「専門家間で異なる予測をする」という事実について説明を求めることで、科学的な調査研究の困難さや、その研究のスポンサーの意向をはじめとする、研究主体である専門家をめぐる、社会的なファクターの影響が介在する可能性の理解を促進している教材もみられる。

さらに「どんなリスクなら冒すか?」という問いを通じて、科学のみでは割り切れない問題もあることを示そうとする教材もみられると指摘している。

『二一世紀科学ーGCSE科学』の二本の柱

『二一世紀科学ーGCSE科学』では、「科学的知識(自然について科学がもたらした知識)」「科学に関する知識(探究の一形態としての科学の営みの特徴についての知識)や考え方」の二つを教えることを明確化しており、前者は「科学的説明」、後者は「科学についての考え」と呼ばれている。

「科学的説明」には、次の16項目が選ばれている。

1「化学物質」 2「化学変化」 3「物質とその性質」 4「生物の相互依存」 5「生命の化学的サイクル」 6「生物の基本単位としての細胞」 7「生命の維持」 8「遺伝の遺伝子理論」 9「自然淘汰による進化の理論」 10「病気の細菌理論」 11「エネルギー源と利用」 12「放射」 13「放射能」 14「地球」 15「太陽系」 16「宇宙」(p.48)

「科学についての考え」には、次の6項目が選ばれている。

1「データとその限界」 2「相関性と原因」 3「説明を展開する」 4「科学のコミュニティ」 5「リスク」 6「科学と技術についての決定を行う」(p.48)

著者の主張

著者は次のように指摘している。

科学と社会の関係について、(ア) 科学に関わりながら、科学だけあるいは専門家の見地だけでは答えられない問題があり、(イ) 市民と専門家は双方向的な科学コミュニケーションのパートナーであり、(ウ) 市民の中に多様な意見・立場が存在し、(エ) 専門家の中でもしばしば相対立する意見が存在し、さらに、(オ) 科学と社会の双方に大きく関わる諸問題に対する専門家と市民の意思決定においては市民の側に原理的な優位性があるという、いわば市民によるシビリアンコントロールという意識が必要であり、(カ) とくに予防原則の考え方などを参考にすべきであるなどといった理解を国民の中に育てようというコンセンサスとその下での教材づくりの努力が、文部科学省も含めた理科教育関係者に必要である(p.58)
また、自然についての科学的知識とともに、そもそも、科学とは何か、科学的な検証とはどのようなものか、ということについての考え方、そして、たとえば仮説・妥当性・信頼性などのように、科学の営みについて語る際に用いる用語や概念を、理科教育の中でより意識的に紹介し強調していくことも必要である(p.58)

そして、こうした教育の実現のために、あらためて「理科教育の目的と課題」について議論することの重要性を指摘している。

教育基本法では、教育の目的を「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」と規定している。ここでいう「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」の一つこそ、本書で指摘されてきた「科学的リテラシー」だと考えられる。また「理科嫌い」や「理科離れ」という言葉が広がる中で、「なぜ、子どもは理科を学ばなければならないのか」と考えると、やはり「科学的リテラシー」を身につけて「考え、議論できる市民」になるためという側面は大きいだろう。そうした意味でも、本書における「科学的リテラシー」教育をめぐる指摘は、今後の理科教育を考えるうえで、一つの大きな示唆を与えていると言えるだろう。

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