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"論理は最強"

論理はとても強力な思考方法です。

言語化して仕舞えばほとんどの場合、論理といって良いと思っています。

いやいやいやいや!

と、論理の専門の方や論理的思考が得意な方には怒られそうですが、とりあえず、ここでは順序立てて説明されるものであれば、たとえそれが「論理的に破綻」していたとしても、論理とします。要は、間違っているものも含めて論理としています。

堂々巡りで適当な定義ですが、「論理的に否定できるものも論理」とします。


では、「論理は最強」でしょうか。

そうではないです。

これは感情論的にも経験的にもそうですが、もっと当たり前のように、最強ではありません。
こういう話になると、そもそも最強って何?何を持って最強とするの?という話にもなります。

ここでは、「いつでも信頼でき、全人類が絶対に、できることなら常に使用すべき思考方法である」としましょう。

そんなわけないってのは多分全世界の人が知っていますが、なぜこれをわざわざ粒立てたいのかと言いますと、論理をまるで聖剣のように振りかざす人がいると思うからです。

正直なことを言えば、私はそういう人がとても苦手で、疲れてしまうので言いたいだけです。

数学と普通の言語の冗長性

物理学

物理学、正確には物理学理論は、自然と人間に最も身近な論理体系の一つです。そして、最も整理された論理体系です。

なぜこのように言えるのかというと、物理学は、多くの現象を数学という言語を使って説明する学問だからです。

数学は言語!」ってのがかっこいい文言だから使ったのではなく、実際に数学は言語の一つです。

言語では、文字に意味を定義して(というより、使うために便宜上文字を定義して)、文字同士の関係性を定義して(というより、関係性を記述するために便宜上文字同士を定義して)、物語を描きます。

普通の言語では、「文字の使い方」というのに多様性があり、状況に依っていたり人に依っていたりするものがほぼ全てです。当然、それで記述される物語にも冗長性があります

数学においては、文字に意味を厳密に定義して(というより、使うために便宜上文字を厳密に定義して)、文字同士の関係性を厳密に定義して(というより、関係性を記述するために便宜上文字同士を厳密に定義して)、厳密な物語を描きます。

このため、記述される物語に冗長性が生まれることは、ないことはないですが、極めて小さくなります。また、もし冗長性があったとしても、その冗長性も含めてコントロール可能なものになっていたりします(ゲージ理論とか)。

そこまですごい言語である数学を使うことで、物理学は多くの現象を説明していきました。
この世の中にあるほぼ全ての科学技術は物理学を基盤としており、この世の中にあるほぼ全ての科学は物理学から発展しています。

数学と論理の適用限界

しかし、発展した先では、現象そのものに数学を適用しているものは、少なくなります。(統計学は別です。データ処理のための数学で、現象を記述するものではないので、別の話です。正確には違うと思いますが。。。)

この理由は、数学が難しすぎるからです。

シンプルですね。
おそらくですが、とんでもなく頭のいい人であれば、ほぼ全ての現象に数学を適用できるかもしれません。

しかし、そうなった場合、数学から導かれる解の数がとてつもない量になったり、そもそも、使用される文字の数と関係性の数が恐ろしい量になり、たとえ説明できたとしても、「その現象を理解した」と言えないような状況になるでしょう。それを理解できるのは、とんでもない広さのワーキングメモリの拡張脳みそを持った新人類じゃないでしょうか。

つまり、我々の世界は、我々が御しきれない量の要素が絡み合う、とても複雑な現象で溢れているのです。

物理学が心理学に進出できない最大の理由の一つはこれだと思います。観測の問題もあるでしょうが、一体どのように関係性を定義するのか、そもそも文字をどのように厳密に定義するのかもわからないでしょう。

物理をやっていると時々、
物理ってなんの学問なの?
と聞かれます。
なかなか難しい話で、私は、
物理学は数学を適用できる現象の研究です
と言っています。

は?具体的に言ってよ、
そういう答え求めてないよ、
と言われそうですが、でも、本当にそうなんだもん。

数学が難しすぎる原因は、厳密に定義する必要があるところです。
論理体系が難しいとかではありません。それは結果的にそう見えるだけで、文字の定義さえ認識していれば、数学の論理は、プログラムのように当たり前の話になります。(プラグラムも数学ですが笑。例え話になっていませんね。水の流れのように当然の帰結という感じです。)

実は、物理学では数学を比較的ラフに扱っています。割と曖昧なところがあったりします。そんな物理学的マインドを持ってしても、適用できる現象というのは限られているのです。

今までの話をまとめると、
究極の論理的な言語である数学、それをあらゆるものに適用できない理由は、適用したところで人間が理解できるものにはならないから、というものです。

数学が適用できるのは、厳密に定義する文字の数とそれらの関係性の数が、人間が扱い切れる量で収まる現象に限られます。

では、これに当てはまらない場合はどうすれば説明できるのでしょうか?

それは、現象を簡単化することで解決されます。
現象を簡単化する、とは、現象に関わってくる要素と関係性を重要そうなものに厳選することです。定義すればいいものの量が減るので数学を適用できる場合があります。実は物理学でもこれをとても頻繁に行なっています。

しかし、また別の困難に直面します。
「重要そうな要素」ってどう決めるの?というものです。これはセンスというのもあるでしょうが、普通は試行錯誤するポイントになります。試行錯誤の仕方は人によるでしょうが、
たとえば「直感的にいくつか要素を選んで、そこから抜いたり足したりする」「一個から始めて、徐々に足していく」「一気にたくさん選んで一個づつ抜いていく」とかがあると思います。普通はこれらの組み合わせで行われるのではないでしょうか。

(私は1番目をしがちです。最初に上手くいけばこの中に重要なものがある可能性があるし、上手くいかなければ今選んでいるものに見込みはないし、とか、方向性が分かると思うからです。でも、最初が肝心ですがセンスが問われます。何分、センスがないので、ダメだな、と痛感しています。)

数学ではこれらを厳密に行うことが求められますが、しかし、ここに論理的思考の本質があります。

つまり、
論理が適用できる状況というのは、もともと考慮すべき要素数が少ないか、考慮すべき要素数を減らすことができる状況のみ
ということです。

論理自体はいつでも適用できるかもしれませんが、論理的思考、人間の中に収まるもの、機能的なものとすれば、その本質は上記のようになると考えます。

会話における論理展開

じゃあ、皆さんは普段の会話でこれをやっているでしょうか?

普通の会話じゃなくてもいいです。学校や会社での議論、仲間内での議論でも、なんだったら喧嘩でもいいです。やっていますか?

「よし、今の問題は要素AとBと…YとZがある。これは多すぎるからBとDと…を選んでみよう。うん、上手くいかないな。じゃあ、今度はAとCと…」
なんて事、やっているでしょうか?

やっていません。こんな話の組み立て方する人は鬱陶しがられますし(経験有り)、やったとしても生産性がありません(経験有り)。なぜなら、前述した通り、そもそも要素の定義には多分な冗長性があり、そこからきちんと話さなければならなくなりますし、さらに、要素選びにも冗長性は生まれるからです。

これをしたところで、議論の真の終わりは見えませんし、そもそも、そこまでして決定論的な話をする意味もありません

個人的には、話の持って行き方で、ある程度簡単化していくことはできると思っています。それには互いにかなりの譲歩が必要です。相手の話を自分本位ではない形で要約していけば、問題の骨子と、順序が見えてくる場合があります。それを1〜3度繰り返して、その末にも納得いかなければ「なんか難しいね」で終わればいいと、私は思っています(丸くなりました)。

「決定論的な話をする意味がない」とか「納得いかなくても終わればいい」と思う理由は、私の中に量子力学的なマインドがあるからです。これも論理チックではあるのですが、やや異質です。


話したいですが、疲れたのでこの辺で。




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