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「自身の欲求」と「他者への愛」は両立するか


他を顧みず自分が幸せであれば、本当に何をしても良いのだろうか。

ではもし、自分1人だけ永遠の幸せを簡単に手に入れる方法があるのならば
それを選択するのだろうか。


意識高い系の"パワフル"な人

「挑戦することを楽しめばいい!
だって失敗に意味はないんだから!
あるとすれば成長できる糧である!」(A)

こう言う人を散見する。そして、

「挑戦や楽しむ中で不意に誰かを傷つけて、その人が離れていくことは仕方ない!
離れない人を大事にすれば良い!」
(B)

こう言う人も散見する。

AかつBの考え方を持つ人は、自身の価値観や意見をよく人に啓蒙する。まるで自身の考えがこの世の真理かのように吹聴する。頼んでもいない助言を得意げに披露する。
若くてもこういう奴、いや、こういう方は多々いると感じる。若くして老害のよう、いや、中々熟練されている。


こういう人が実際に多いのか少ないのか、そもそも”こういう人”と明確に定義できるのかといった、統計的かつ客観的事実はない。が、少なくとも私自身がそうだった(恥ずかしながら)。
そして、いまこういう人に絶賛困らされ中である。因果応報か。

これからする話に動機付けを求めるなら、「こういう人多いよね」と共感できるか、もしくは「実際に私がそうだった・そういう人に困らされている」という事実を信じてもらうしかない。

今の私はこれらの考えAとBは持ってはいないが、それはこれまでの環境の変化などで価値観が変わっただけで、AとBが間違っているという客観的根拠ではないし、これからする話はAとBを否定することを目的とするものでもない。
主観的には否定したいのだが。

兎にも角にも、
これからする話は、
この考え方Aと考え方Bが両立するのかどうか、
両立するのであればそこにはどのような理由や根拠があるのか、
もしくは根拠は全くないのか、
ということを考察した私怨、いや、私見である。

結論から言えば、
AやBは真理などではなく、
環境要因・遺伝的要因などから決まる偶然的産物、
つまり、ただの個性・何の根拠もない経験的事実だ

ということである。



考え方AとBの解剖〜無意味主義と快楽主義〜

さて、ここでは考え方AとBについて少し深掘りして、そこにはどのような本質があるのかを考察する。

考え方Aの中には「意味がない論法」と「快楽主義のようなもの」が見えてくると思う。
つまり、「基本的にこの世の中には意味がない。じゃあ、自分の好きなように生きよう」と、ある種、開き直る考え方である。正確な使い方ではないがここでは前者を「無意味主義」後者を「快楽主義」と呼称する。

同様にBにも無意味主義と快楽主義が見えてくると思う。
この世は無意味であるが故に、離れていく他者に絶対的な価値を見出していない。
一方で、他者を捨て切らない考えも見える。もし初めから他者を切り捨てるのであれば、他者との繋がりを想定すらしないか、利用材料としての価値を見出すだろう。もちろんそうである場合も考えられるが、ここでは「他者を切り捨ててはいない」ものとする。

考え方AとBに内在する二つの矛盾

しかし、この二つの考え方には矛盾が存在している。ここでは二つの矛盾について考察し、問題提起を行う。

二つの矛盾点とは

  • 欲求の存在と無意味性との矛盾:自分の欲求に素直になる事で人が離れるのを厭わないのは、「自分の欲求」に対して「離れていく他者」以上の価値を、つまり意味を見出しているということだ。これは無意味主義と相反するのではないだろうか?

  • 挑戦の選択と無意味性との矛盾:無意味主義かつ快楽主義であることは良いとして、なぜ「挑戦」を選択するのだろうか?そもそも、「挑戦」を選択している時点で「挑戦」に価値を見出しており、無意味主義と相反する。また、無意味主義かつ快楽主義であることを切り取って考えれば、もしドラッグや電磁波で脳を操作して死の恐怖や様々な苦しみから解放されるなら、それを選択をするのだろうか?これが最も効率的で簡単なはずだ。しかし、この方法とれば仕事はおろか、人と通常の生活を送ることはできない。

「挑戦」に価値を見出している時点で、快楽のためだけにドラッグや脳をイジる方法を選ぶとは思えない。
しかしなぜ、簡単かつ効率的な方法なのに選ばないのか?
そんな技術はないから?
近い技術はすでにある。
ではもし完全な技術があれば?
それなら選択するのだろうか?

もちろんこれは極論で、意地悪な思考実験だ。
とはいえ、もし選ばないのであれば、それはなぜか?

矛盾を解決し得る二つの前提

「人を完全に切り捨て」ずに「挑戦」を選ぶ結果を得るには、単なる無意味主義者かつ快楽主義者では足りない。何か別の要素、前提条件が必要である。

そこで私はまずは以下の二つの前提が必要だと考えた。それは

  1. 挑戦によって好奇心や向上心などを満たせるのが楽しいことだと知っている。

  2. 人との繋がりが自分の幸せに関与していると知っている。

別の前提条件を持つ可能性もあるが、少なくとも今の所これらは非常に妥当見えるシンプルなものである。
そこで以下では、この前提が正しいと仮定する。

前提に対する疑問と新たな前提

しかし、これらの前提条件にもまだ疑問が残される。ここではその疑問点を提示して、そこから新たな前提条件3を考案する。この3が、考え方AかつBの本質的な性質を表す。

前節で述べた前提条件に対する疑問点は、

  • もし、人との繋がりが自分の幸せだと信じているのであれば、なぜ自身の言動が原因となって人が離れることを危惧しないのか?

である。この疑問に関して考えられる理由は

  • 自分の言動を制御しないのにも一応限度がある。その限度以下であれば自身の幸せのバランスが保たれるが、その限度を越えると自由を阻害されるため、その人と関わっていても幸せは感じない。

しかしこの場合、
その限度はどのよう決めているのか?そこに客観的な定義はあるのか?それは一般的に「空気を読む」こととはどう違うのか?それは結局、人に気を遣っている、つまり他者を顧みることなのではないか?
という疑問が残る。

以上ことからこれが理由とは考えにくい。もしこれが理由なのであれば他者を顧みないこと矛盾するからである。
そこで次に考えられる理由は、

  • 自身の考えが正確に伝われば、相手が傷つくことは絶対にないと知っている。つまり、傷つくのは受け取り手の問題であり、自分は全く関係ない。(3)

この場合もかなり奇妙である。なぜなら、自身の考えがすべての人にとって「ニュートラルなこと」and/or「ポジティブなこと」である、つまり非負である必要があるからだ。
では、なぜそう思えるのか?それもまた信じているだけでないのか?それを信じてるのは自分自身の個性に過ぎないのではないのか?

疑問は残されるが、今の所矛盾点は見当たらないのでこれを前提条件3として追加する。
これによって、他者を顧みない事と人を大切にする事を両立させることができた。

最終的に残った疑問

以上までで、
「考え方AとBの解剖」→「矛盾点および疑問点」→「矛盾を解決する前提条件」→「前提に対する新たな疑問点」→「新たな疑問を解決する新たな前提条件」
と行ってきた。
これらをまとめると、考え方AとBを持つための前提条件は

  1. 挑戦によって好奇心や向上心などを満たせるのが楽しいことだと知っている。

  2. 人との繋がりが自分の幸せに関与していると知っている。

  3. 正確に伝達した場合は、自身の言動は絶対に他者を傷つけないと知っている。

の三つであるとした。

そして、おそらく多くの人がすでに勘づかれているように、これら3つの前提条件に対する疑問は、たった一つに集約される。
それは、

なぜこれらの前提を信じられるのか?

である。ここでやっと、散々暗に避けてきた無意味主義との矛盾が関係してくる。
これもおそらく多くの人がすでに勘づかれているように、
無意味主義を掲げている時点で、これらの前提を信じる客観的根拠は全くない立場になってしまっているのである。
つまり、これらの前提は個人の経験や遺伝的特徴が作用して偶然選択された産物、それ即ちただの個性である。

これは、無意味主義と矛盾して何かに意味を見出しているが、実はそれは問題ではない。
なぜなら、何かを論ずるにはまず必ず何かを信じなければならないからだ(これは別記事を参照されたい)。

般若心経の色即是空・空即是色にも似たような考えがあると私は考える。

この世界は個々の意味(色)の集合体ではなく、それ全体としてただの一つ(空)であり、意味があると思っているこの世のあらゆる変動はその世界の一部分の揺らぎに過ぎない(色即是空)。
その揺らぎに、我々の暮らしは影響を受け感情や行動を誘起され、意味が見出されるのである。(空即是色)

これはあくまで私の解釈で、勉強不足で間違っていたら申し訳ない。
とにかく、ここで言いたいことは、

「無意味だ無意味だとは言いつつも、我々がこの世界を生きていくことには変わりなく、我々は意味を見出すことでこの社会を生きていることにも変わりはない。」

ということである。つまり、無意味の中から創発した意味の中で我々は生きている。
お坊さんのように俗世から離れない限り、意味の中でしか生きることはできないだろう。

そして、意味を作るには根本となる何かをただ信じるしかない。神話を信じれば宗教になり、統計を信じれば科学となる。

私の考え方とありきたりな悩み(と恨みつらみ)

最後にこの節では次の疑問、

「考え方AやBを持つ人は他者を顧みない(と言い張っている)が、
ではなぜ一般的な人々は他者を顧みるのか、
もしくは、
なぜ一般的な人々は他者を気遣わなければならないと思っているのか」

ということについて考察をして、この記事を締めくくる。
そのために私自身を例にとることにする。

まず私自身、実は無意味主義者であり、そして、前節で出した最終的な前提条件1と2には同調する人間である。

つまり、

  1. 適度な困難は好奇心を刺激してくれる。

  2. 人との楽しい繋がりが日々の活力になる。

という前提を(ほぼ)根拠なしに信じている、と自覚している(考え方AとBではないことに注意)。
しかし私の場合は、これらに加えて重要な経験的前提もある。それは

  • 他者の介入によって、自身の欲求を追求しきれないことも多々ある。

というものである。この経験的前提によって上記二つの前提はトレードオフの様相を呈する。つまり、思うままに好奇心を満たしたい一方で他者との関係も重要であり、どちらもが完全に両立するとは限らないということである。
そしてこの経験的前提は発展して、次の

  • 自身の考えが万人にとって良いものとは限らないし、たとえそうだとしても自身の言動が誤解を招く可能性は大いにある。というより、自身の考えが万人にとって良いものと仮定する理由も、自身の言動が誤解を招かないと仮定する理由も(現状持ち合わせてい)ない。(3')

と同値である。
これは、
自身の欲求と相反する欲求を持つ他者の存在を認めた時、その逆もまた真であるということである。つまり、自身にとっての他者と他者にとっての自身を区別する客観的理由がないのである。
(言わずもがなだが、無意味主義でありながら他者の存在は仮定している。ラフには、実在論的に考えていると思う。間違ってたらごめんなさい。)

そして事実として、私は親しい人間の数が少ない。より正確には、自分と親しくしてくれる他者と出会う確率が非常に小さい。概算だが大体2.5%の確率である。有難いと同時に悲しい。

であれば、前提1と2のトレードオフの関係性から、他者に気を遣って生きる必要性が出てくるのは必然である。
たった2.5%のとんでもなく奇特な人たち(優しい人たち)を大切にしなければ、いつ0%になってもおかしくない危機的状況なのだから。

ここで私の悩みとは、
「1と2の両立のために、どのように人に気を遣えばいいのだろう」
という、至極定番なものになる。

言語化しているかどうかは別として、何故多くの人が私と同様に人に気を使うことに関して悩むのかの主要な理由はここにあると考える。つまり、上述した経験的前提3'が前提条件1,2に追加されているのである。
考え方がAかつBの人の前提条件1,2,3と対比的に、我々のような(通常の)人の前提条件は1,2,3'となるという事である。

…奴らの条件にこそ毛('プライム)をつけてやりたいがこの記事では先に出てきてしまったので仕方ない。というより、出来るだけ客観的に話したいので仕方ない。


蛇足であるが、「人を気遣う理由」には上記のようなネガティブな理由でない場合もあるだろう。
私の場合は人と親しくなる確率が2.5%という常に危機的状況にあるためネガティブな面に注目したが、前提2自体に着目すれば「親しい人を増やせば増やすほど日々の楽しみが増える」という考え方もあるだろう。この場合も前提条件3'から、より人に気遣う必要性があることが分かる。

また、ややネガティブな動機ではあるが、仕事などにおいても同様の必要性が発生する。今更わざわざ言わなくても良いと思うが、仕事において人間関係の悪化が仕事の効率を下げ得ることは容易に想像できるだろう。
例えば、「関係が悪化する→中間に人を挟む必要がある」や「関係が悪化する→情報の伝え方にさらに気を使う必要がある」などの可能性がある。
つまり、余計な仕事が増える。余計な仕事が増えれば時間もかかる。ミスが発生する可能性も高まる。つまり、労力、時間、お金が余計にかかる可能性、リスクが高まるのだ。
仕事においても自身の欲求を満たすという目的があるならば、前提条件3'より、人に気を遣わなければならなくなる。

以上をまとめると、

「自身の言動が他者を傷つける可能性は100%ない(前提条件3)、と信じられない限りは、人に気遣うことは極めて重要である」

という、とても当たり前のことが分かった。

そしてそれは、

「たとえ無意味主義者かつ、ある程度の快楽主義者であっても、
この社会で生きる限りは同様である。」

ということである。

私は前提3「自身の言動が他者を傷つける可能性は100%ない」を到底信じられないので、悩む必要があるのだ。
そして前提3を信じられることには何の根拠もなく、環境的要因・遺伝的要因で獲得した個性なので、真理でも何でもない。
なので、信じても信じなくてもどっちでも良い。
これは前提3'でも同様である。



つまり、私が言いたいことは、

人に気ぃ遣わんでええって言ってるアホは
もっとちゃんと考えてから行動した方がええで
普通にみんなから嫌われて
そのうち周りから人居なくなるで
え?じゃあお前がどっか行けばいいって?
言われるまでもないわ
何を偉そうに人を値踏みしとんねん
こっちから願い下げじゃぼけ

って事。

あれ、違う。
別にいいんだよ、何考えてても。










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