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幼いころ母にもらった言葉たち。

「横断歩道で車に停まってもらったらね、急いで渡る素振りを見せなさい。図々しいのはいけません。」

「おみくじ?大人になって恋でもしたらひきなさい。」

「もしデートで相手の人に食事をごちそうになったら、お茶代はあなたが持ちなさい。出してもらって当たり前、はいけません。」

「心と口を一緒にしなさい。そのふたつが裏腹ではいけない。」

「(文鳥を)愛おしいって気持ちは、ほら、なんて言うんだろうね、お湯を含んだスポンジをじゅって絞るような感じだね。」

どうしたことか、こどもの頃、母に言われた言葉たちが頻繁に蘇る。
そして噛みしめると、幼い時には感じなかった味わいのようなものを得る。
私は昔から母のことが好きで、その時よくわからなかったとしても、無意識に言葉の標本のようなものをこしらえていたのかもしれない。未来の自分のために。

「山椒ってのは好きじゃないね。昔のトイレの芳香剤を思い出す。」

「源氏物語より枕草子がいいね。ありゃエロ文学だよ。」

「お菓子作りってのは手間と時間がかかるのに飯にならない。だからケーキは買うものだと思ってるよ。」

同時にこういう、思いっきり母の趣向に偏った発言の数々も頭に刻まれている。
そのせいか、私は結婚するまでうなぎに山椒など振るもんじゃないと思っていたし、女流文学的なものはどこかイケナイものだと思っていたし、お菓子なんか家で作るものじゃないと思っていた(笑)。(ここに恨みは全く無く、ただただ面白いもんだなと思う。)

人生の糧になっている言葉の数々もあれば、思い込みに繋がっている言葉もあって、やはりこどもにとっての母親の存在の大きさというものを改めて思う。

つまり、子育て中の私としては、明日は我が身(明日というか今日!この瞬間!)、なのだ。

そして多分、私は母からもらった“糧”ワードは娘にそのまま語っていくと思う。
“偏り”ワードは、どうしたって、私らしいものが娘に渡ってしまうのだろう。

そんな感じで、親から子への言葉というのは、歴代練り練りされていくのだろうな。

「戦争の怖さのひとつは、それぞれの家庭で積み上げてきた繊細な文化のようなものが、簡単に破壊されてしまうことだ。」

そう言ったのは父だった。
これも、今ならよくわかるような気がする。こどもに数々の言葉と愛情をかけて育ててきた母親が空襲にあう、母親とはまた違った愛情で家族を包んできた父親が戦地に送られる。運が悪ければ・・・こどもは、両親の中で練られた言葉や愛情や文化をある日突然受け取れなくなる。ブツリと。こんなに悲しいことはない。

・・・今月はどうしてこんなに親の言葉が心に浮かぶのかなあと思いつつ・・・

昨日より今日、今日より明日、じゃないけれど、親から受け継いだバトンをいい感じにアップデートして、娘に渡していきたいなあと感じる秋の夜長なのでした。

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