『Acropolis』読み切り短編小説

 アクロポリスの亡霊は、空軍特殊戦略科航空戦闘団のパイロット達の間でまことしやかに囁かれる都市伝説の一つだ。亡霊とは言え、彼らにとってはラッキーチャームのような存在で、姿を見た者は、その日の任務を必ず成功させて帰還すると言われている。
 地上が海の底に沈んで久しい今日、人工的な建造物の建設は環境保全を謳う法律で厳しく統制されている。地上だった場所を覆う広大な海原に転々とそびえるアクロポリスは、小高い丘の意味通り海面から突きだし、海風で梳られて本来の形が判然としない岩の塊のように見える。面積も大きさも異なる大小様々なそれらには、空軍の手により航空路に伴う数多のセクターごとに座標管理・航空誘導システム・監視レーダーといった管制テクノロジーが移植され、効率よい航空機運航を可能にした。
特に高度のあるアクロポリスは中身をくり抜かれ、無人の航空管制塔として再利用されている。パイロット達は、基地間の移動や哨戒といった通常任務においてのみ、航空管制塔のコンピューターに内蔵された人工知能の航空管制運航情報官が告げる、体温が感じられない分、精密なナビゲーションを、首に装着した骨伝導マイクとイヤホンを通して聞き取るが、離着陸時と、戦闘に突入した際には、航空管制は即座に基地の戦術航空管制部に切り替えられ、指示は生きた人間に委ねられる。
 アクロポリスα-3。正式名称、第3級国家指定水没危険区域。強い潮流と、海風が交錯するこの場所は、例えるならば、可食部分を失った林檎の芯のような形を為していた。飛行制限空域の真下に位置し、ひょろ長く、奇妙な形は、昼夜問わず人の目を引き、航空管制塔を築くにはおあつらえ向きの土地だった。無人の業務運行が目的だった為、年に何度かエンジニアがメンテナンスに訪れる以外は、完成当初から完全な無人化が為されていた。無人ということは、人がいないということだ。パイロットの耳に入るのは、人工知能を持った無機物が放つ声だけのはずだった。
 先んじて怪現象に遭遇したという他部隊のパイロットによれば、亡霊は、アクロポリスα-3を通過する航路に限り、確かに人の持つ特有の暖かさを滲ませた声で、ノイズ混じりの不鮮明な電波を通して語りかけてくるという。通常の人工音声と並列して聞こえる上、ぶつ切れで不明瞭な声は、要領を得ないものの、昨今使用されているものより若干古くさい交信方法がとられているように聞こえるらしい。そして、未知との交信が途切れると同時に、それまでなんの反応も見せなかったレーダー上に敵機が現れ、空中戦が始まるのだそうだ。
 アクロポリスの亡霊を見たパイロットは、それほど多くはない。というより、精神異常と診断され、せっかくのウイングマークを取り上げられるのが怖くて、他言出来ないのが本当の所だろう。おそらく直近で、イレギュラーな戦闘から帰還したパイロットのほとんどが、亡霊に遭遇しているはずだ。なぜなら、飛行戦闘空域は、民間航空機の運行が全面禁止された、敵機の飛来及び戦闘が最も多い軍事空域を指す。ここ数ヶ月でスクランブルと敵機との接近遭遇はゆうに100を越える。その8割はアクロポリスα-3上空、または航空路で発生していたからだ。

 かつて築かれた高度文明が沈んで、新たに生命が活動し始めるまで、一体どれほどの時間が流れたのだろう。明確な歴史は、この国には存在しない。したところで、国家機密ものであるのは確かだ。何もかも、眼下に広がる昏い海面が覆い隠してしまっている。数千メートル単位で水面の異常上昇が確認されても、人と月の距離は縮まらず、まだまだランデブーには程遠い。それでも、キャノピー越しに降り注ぐ月の光は仄暗い計器盤をこうこうと照らしている。地上に降ちるそれとは比べものにならないほどの光の強さは、海面のさらに上を駆るパイロットである自分と、月とのささやかな逢瀬を意識せずにはいられなかった。
 敵機確認の頻度が高い飛行戦闘空域も、今夜の戦闘空中哨戒では月に広がる静かの海ほどに沈黙を保っている。ヘルメットに付いたバイザーに表示されるセンサー情報と、航路真下の赤外線画像にも異常は見当たらず、ヘッドアップディスプレイが取り外されたコクピットからは、高度6,000メートルの澄み切った視界が広がっていた。
 明るい闇夜だ、と思う。こんな夜では、例え幽霊に遭ってもそうだとは気付かないだろう、足下さえ見なければ。それも今更、鳥も飛ばないような高度を高速で飛んでいる自分には関係のない話だ。
 バイザーに映し出される画像が切り替わった。空中戦突入に備えて戦術航空管制基地からの迅速なナビゲーションが入ってくるのだと耳を凝らしたが、一向にその気配は無かった。注意して見れば、バイザーの左側に表示されたレーダー画面には、二機編隊の自機と斜め後方を飛行する僚機の二つの機影しか映っていない。途端にイヤホンを通して愉快そうな笑い声が聞こえてきて、ようやくからかわれたのだと気付く。
「ぼーっとしてるからですよ」
「月に見とれてたのよ」
「そうですかそうですか」
「それよりもやぁねこれ。目がチカチカするわ」
右側に現在の位置を知らすレーダー画面。左側には、同じ形式の画面でも、日時と機影の数が微妙に違う戦術状況が、数秒刻みで映り変わっていく。
「お気に召しました?データリンクで他の隊機から引っ張って来ました。アクロポリスの亡霊が残した輝かしい功績の一部ですよ」
「やだ、あんたも信じてるの?」
「オフレコですが、結構見たって輩は多いんですよ。私は、そうですね、まだ経験がないんで、お目にかかれるなら願いたいとこですが」
「あんたも大概俗物ねぇ」
ため息をつき、無理矢理挿入されたデータを消して元の画面に戻そうとした。その手が止まる。
『α-3コントロールインフォメーション、世界標準時23時24分現在。飛行制限空域航空路、飛行許可機数2機、ヴァルチウス王立空軍特殊戦略科戦闘航空団所属VF-02“RAVEN”、方位北北西に115°を飛行中、目的地到達距離は200キロメートル、トラフィックはありません。高度6,000メートルを保って運航を続けてください』
戦術航空管制基地で入力された運航情報はTACAN(戦術航法装置)を通じて航空管制塔で受信される。運航情報は、あらかじめ用意されたテキストシートのブランクに入力され、航空運航管制情報官の人工知能が入ったコンピューターから直接パイロットに伝達されるシステムになっている。
「“トリックスター”了解」
「“ディンブラ”了解」
『管制承認しました』
バイザーに映らない画面は、複数のウィンドウに分かれて計器盤の液晶ディスプレイに表示される。赤外線画像は夜でもハッキリと海面の凹凸を映す。ほぼ灰色な平面に見えるのは凪いでいる証拠だ。画面前方の端に、インクの染みのような影が現れる。やがて染みは立体を為し、不安定な末広がりの石柱になった。アクロポリスα-3航空管制塔、VORTAC方式の無人化無線航法援助施設。忘れ去られ老いさらばえた陸の孤島。
『α-3コントロール、飛行制限空域航空路の飛行を許可します。風は150°方向から7ノット、乱気流は確認されていません。現在の高度は6,000メートル、トラフィックはなし、パイロットの判断によって高度18,000メートルまで上昇可能です・・・』
血も涙もない機械相手だと、ワン・ウェイ通信ほど実に合理的でありがたいものはない。聞いているだけでことが済む。ごく当たり前の決まった状況報告を、定められた時間をかけて読み上げるまで、口を開く必要はない。管制承認さえもらえれば、民間機向けのナビゲーションは退屈なBGM程度に聞き流していればいいのだ。視界の戦術状況画面に変化はない。赤外線画像は、相変わらず航空管制塔の真上を移動していく。見れば見るほど食いかすの林檎そのものだ。キャノピーをそっくり覆ってしまう大輪の月が、太陽光の照射よりもきつくその光であけすけに世界を照らした。バイザー越しではまともに光を感じることもない、それでも自然と眩しく感じ、目を細めた。
始まりの突端がどこにあったのかわからない。人工音声に聞き入っていれば、おそらく察知することもないような、ジャミングや盗聴ですら、わずかなノイズが回線に混じって開始されるものだが、何も感じられなかった。経験上、「何も」なく「何か」が始まることは恐れに似た不安を抱かせる。人間の本来鈍感な感覚を、研ぎ澄まさせる。ナビゲーションに耳を傾ける。頭の中が下手に得た情報の錯綜でうるさいくらいだ。アクロポリスの亡霊・・酸素マスクの下、唇だけの動きで呟く。

 聞こえた。正確には“聴こえた”。それは声ではない、音だ。とろりと眠気すら誘うようなつたない音色だ。知らず知らずの内に人工音声はフェードアウトされ、時折強く聴こえてくる、耳慣れない鍵盤の音に安穏な狂気を感じる。戦術状況になんら変化はない。二機の戦闘機以外の運航を許可していない軍事空域に紛れ込む物好きな民間機がいるわけもなく、やはり影一つない。喉がひりつくのをこらえて、左コンソールに設置された管制交信スイッチを自動から手動に切り替える。戦術航空管制基地にチャンネルを合わせ、ワン・ウェイで一方的にまくし立てる。
「こちら“トリックスター”、回線に異常音が混じっている。レーダー反応はないが、電子戦機が潜んでる可能性もある。戦術航空管制基地、応答願う」
反応はこない。かわりに状況にそぐわない優雅な音楽が流れるだけだ。
「戦術航空管制基地、こちら“ディンブラ”、聞こえないのか!?」 「“ディンブラ”、かまうな。計器を信じろ。異常がないなら問題ない」
双方向通信の回線を繋げたが、後続の僚機も状況は同じようだ。回線を切って操縦に集中する、計器に異常は見当たらない。このまま飛び続ければ間もなく折り返しだ。飛行に支障がなければ、原因追及は後回しにしてもいいだろうと判断して、機体を方向転換させる。わずかなバランスの変化を感じ取って、動作にふさわしい形状へと翼を変えていく。安定した推力を生み出す構造の機体は、翼が変化中もバランスを崩すことはない。機体前方に取り付けられたカナード翼が小回りを補助する役割をもって、方向転換を助ける。空中に透明な半円を描くと、Gというほどもない柔らかな負荷が身体にかかり、座席に上半身が押しつけられる。やや間隔をとって僚機も後ろについた。 『・・・6ノットに減少。乱気流の発生は確認されていません。高度は・・・』
人工音声が甦り、α-3の回線が回復した。音は身を潜めてしまった。キャノピーからの照り返しがない。月まで身を潜めてしまっていた。いつのまにか雲が出て、空の障害物が増えていた。所々、雲の切れ間から一筋一筋と月の光が漏れ出て、地上を目指す。
 空気が震えた。感応型ではない操縦桿を右に切って転回する。機体の間を機銃の弾道が抜けていった。反対側に転回した僚機を確認しながら、バイザーの表示画面をレーダー画面に切り替える。今度こそ明らかに反応が出ていた。赤外線画像上には敵機が一機、レーダーの円周上、同心円の輪の中では、二機。
『“トリックスター”、こちら“マスクラット”。ワタリガラスはジャコウネズミの指揮下に入った。これより貴機への戦術管制を開始する』
他航空路を運航中だった空中警戒管制機から無線が入る。
「「了解」」
遅い、と胸の内で悪態をつきながらも、データリンクを通して空中警戒管制機“マスクラット”が送ってきた敵機のデータに素早く視線を走らす。
『敵機は光学迷彩ステルス戦闘機、二機。ブラボー1は低空、ブラボー2は高空を高速で侵攻中。トリックスター、ディンブラ、両機は平行線を描いて上下から挟まれている状態』
「撃墜する」
『撃墜を許可する』
アフターバーナー点火。敵機射程を振りきり迎撃体勢を整える。光学迷彩ステルスは可視光線をねじ曲げる特殊塗装で、レーダーに反応しない。しかし、光学迷彩が効力を発揮している間は攻撃が仕掛けられない弱点もある。今レーダーに映っていないなら、攻撃はしばらく止むだろう。機動性、兵装ならこちらが上だ。かくれんぼの鬼を交代する。与えられた役割は、非情な鬼。
加速に伴うGが半端なく肉体にのしかかってくる。体中の骨がぎしぎしと悲鳴を上げた。機首を上げて急速上昇、敵機を鳥瞰出来るように。互いに左右にバンク、旋回する、見えない敵に予想を付けて、挑発するように機首と機首を接近させた後、さらに水平上昇をかける。トリックスターの高度は18,000メートル、やや下にブラボー11,000メートルにディンブラ、それに見下ろされてブラボー2が飛ぶ形になる。これで、各々の役割が明確になった。撃墜許可に伴い火器制御ロックを解除。途端に光学迷彩が解かれ、敵機が姿を現した。相対した状態でバルカン砲が砲弾を吐き出し火花が散る。旋回してこれを回避。螺旋を描いてやや下方に後退し、距離をとって体勢を持ち直した。すかさずロックオン、敵機が放った近距離ミサイルを集中砲火で撃ち落とす。 機体がぶれた。爆風の影響だけではない、高度を上げたせいで、低空では感じなかった乱気流が生まれたのか。爆散した硝煙とミサイルの金属片が、勢いを付けて敵機の正面に降りかかる。その恩恵を被らないように、射程距離ぎりぎりまで後退する。同じく交戦中の下方の機影との距離を確認してから、前方に照準を合わせる。 姿を見せている内に、計器に表示された赤外線の照射データを火器を統制する戦術コンピューターに転送する。確実性を上げる為に射程距離を縮める。迎撃目標照準確定、ロックオン。“トリックスター”赤外線誘導ミサイル発射。ブラボー1、被弾まで5.4.3.2.1。いくつかの小さな爆発を経て、一際大きな爆発が起こる。レーダーから敵機を表す赤い機影が一つ、姿を消す。動体視力がそこまで光景を古い映写機のように細切れにして捉える。目前に広がった爆煙の壁を突破し、有視界域まで一気に駆け抜ける。
「“トリックスター”から“マスクラット”、ブラボー1は撃墜。“ディンブラ”の援護に入る」
『“マスクラット”から“トリックスター”、了解。“ディンブラ”は2,000メートル後方に五時方向、高度6,000メートルでブラボー2と交戦中。ブラボー2は被弾して高度5、500メートルまで降下、なおも失速中』
 時計回りにバンク。高度を下げながら、間隔に余裕を持って後方に近づいていく。赤外線の映像に、エンジンの排気口が放つ朧気な白い炎が見えた。被弾したブラボー2だ。身軽さを取ったのか、すでに増槽が切り離されていた。残存燃料もわずかなはずが、エンジンの出力にまで異常をきたしては、墜落も時間の内だった。幸い落ちても、真下は連綿と続く海、人的被害は被らない。はずが、計器盤の赤外線画像に影が映り、思わずうめく。バイザー側に表示させる。アクロポリスα-3だ。ブラボー2に失速状態から持ち直す気力は残されていない。現時点で操縦不能となって墜落の道を辿っている。着陸に不向きな速度のままで高度だけが落ちていけば、α-3の管制塔がブラボー2のエンジン部に接触する。そうなれば、爆発炎上の機体もろとも管制塔が吹き飛ぶ。新規の人工建造物の建設が禁じられている今、飛行戦闘空域での幅広い範囲をカバー出来る航空管制塔の損失は痛い。機影とα-3の距離、レーダーの座標から、墜落までの予想時間を弾き出す。接触した時点で燃料に引火、爆発すると考えれば、残り130秒、一刻の猶予もない。
「ブラボー2をα-3の衝突コースから外す。“ディンブラ”、高度5,000メートルまで上昇、急旋回してブラボー2の斜め上に回り込め」
「了解」
ブラボー2のエンジンは、片方が完全に沈黙、残る一つもわずかな咆哮を見せるだけとなっていた。出力が制御出来ず、明らかに機体がバランスを崩し、傾いで飛んでいる。正面にα-3の衝突防止灯を捉えた。直径2メートルの目映い点は、まだ小さい。直線距離で約4キロ、ラダーペダルを踏み込み、ラダーを左に傾ける。空中ドリフトとも言うべきか、急激な方向転換で、ブラボー2の横腹を斜めにとらえた。羅針盤の針のように対向線上空にディンブラが待機している。
 操縦桿のトリガーに指をかける。ほとんど自由落下の機体に照準を合わせるのは、さほど難しいことではない。迷い無く引き金を引く。エンジンと燃料タンクには直接撃ち込まない。斜め後方から斉射される銃弾の勢いに押され、ブラボー2の機体が進行方向を変えていく。すぐさま射撃を中止して、状況を見守る。レーダーの円、α-3を表す障害物に櫛形を描くように赤い機影がわずかに逸れる。海面までの距離は1,900メートル、墜落までの時間が稼げたことは、これで確実になった。
「“トリックスター”から“ディンブラ”へ、短距離ミサイル用意。高度1,000メートルで発射。燃料タンクとエンジンの丁度中心を狙え」
「誘爆させる気ですか」
「着水と同時にな。燃料はもうないはず、爆発しても規模は小さい。爆発の衝撃は水面で吸収させる」
「了解」
照準を合わせる機械音が耳に走る。レーダー上の機影を、大きな赤い円と、三角形の枠が捉える。機械音が一際鳴り響き、一瞬で止まった。スロットルを押し上げ、電波高度計を睨み付けながら海面すれすれをめがけてダイブ。一拍おいて、巨大な水柱が眼前を覆った。「“マスクラット”、“ディンブラ”がブラボー2を撃墜。α-3からの管制に問題がないか呼びかけろ。“トリックスター”は外観の損傷を調べる」
「OK、“トリックスター”、アクロポリスα-3の航空管制に支障は確認されない。いい仕事をしたな」
迷い無く高速で水の壁を突っ切る、風防、キャノピーと、機体全体にスコールのように海水が叩きつけられる。視界を塞がれても、計器を信じて、ぶれる機体を押さえ込んだ。高度を示す数値がどんどん減っていく。叩きつける飛礫が小さくなった、壁を抜けるのだ。スロットルを元に戻してその時を待つ。膨大な水の抑止力を振りきると、ただの空は無重力空間に等しいほど開放感に満ちていた。騒音に慣れた耳は、途切れた瞬間に、無音で放り出されたかのように静まった。そしてまた、音色が流れ込み、敏感になった鼓膜を震わす。機械音も、エンジンの轟音も、耳には届かない。遮られていた赤外線画像に建物の影が映る。画像を拡大して、自分の視野だけでなく、機械で建物の全体像を確認する。
モノクロームのそれに、ほんのわずか、はっきりとした白い二つの光が揺らいだ。管制システムが発する、鮮やかな光ではない。操縦桿を握る手に汗が滲むのがわかる。わずかに生じた可能性に身震いした。拓けた視界から、精一杯首を傾け、横様に下を見る。
アクロポリスα-3の全長は70メートル。超低空飛行で進入、最接近で管制塔を視認。暗闇に浮かぶ、並んだ二つの光。点々と、つま弾かれる音をBGMにして、コマ送りのように、カメラのシャッターが切られるように、ほんの一瞬一瞬の出来事を切り取った。管制室をぐるりと囲む強化ガラスの内側、白い光が少しずつ大きく、それを囲む外枠がはっきりと映りこみ、よく知っているものの形を伝えた。
 目が合う。赤外線が瞳孔を捉えた反射光。時間が止まったように、また、音色も止まる。何故、と思う間もなく、機体が管制塔から弾かれるように遠ざかり、やがて雲に遮られて見えなくなるほどになって、高度は安全域に達した。エンジンの排気音が、耳障りなほど大きく響いて、はっと意識を戻す。一息つき、無線のノイズがイヤホンを通して伝わるのを待つ。
「“トリックスター”どうした。呼びかけたが応答がなかったぞ。異常か」
「いや・・・こちらも問題はない。ドッグファイトで無駄に燃料を食った。哨戒をとりやめて直接基地に戻る」
「心配するな。すでに基地から許可は出ている。帰り道で敵に見つからないようにな。グッドラック」
「祈っていてちょうだい」
 確かにこれは、言えるわけがない。根も葉もない噂で止まるわけだ。ラッキーチャームだって、馬鹿げてる。狐につままれた気分だ。フライトレポートに一行でもそれらしいことを書いて見ろ。正気を疑われる。
もう彼方後方に置いて行かれて、計器盤のどれからも、アクロポリスα-3の姿は消えてしまった。まるで静かな海は、二人の命が散ったとは思えないほどに目下に広がる。墜落を示す炎の一片までもすっかり包み込んで、人の覚え知らない場所に隠滅してしまっているように見えた。海は生きている。意思を持って、都合を以て、人を翻弄している、そんな気がした。遠い出来事みたいに。
定点を浮遊する月以外、輪郭を押し隠された暗闇を、月とは違う、人工的な一点の光が移動していくのは、なんとも幻想的な光景だろう。地上に生きる全ての者は、今このとき眠りに着いている。彼らが信じるのは、眠りから覚めた後、昇りきった太陽の下で公明正大に執り行われる日常だけだ。月の秘め事など、誰も信じない。
あぁでも、見ていた者がいるじゃないか。と、秘密の共有者の存在を思い出す。交わした視線の持ち主に、例え足が無かったとしても、きっと自分は驚いたりしないだろう。自然と口元が緩んだ。
「これより、帰投する」
了解、の声が耳に帰ってくる。夜明けには、まだ遠い。真実がいつか暴かれるとしても、暇つぶしに都合のいい空想を練るには余裕がある。
 月を仰いだ。何も言わない。当たり前だと、鼻で笑ってやった。

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