ITムーブメントの契機が日本初じゃなかったのは何故かの思弁ー昇華ドライブ

ふと問いを思いついた。
「どうしてGAFAMのようなサービスを日本から生み出せなかったのか」と。

ーここからは仮説を重ねた単なる思弁

GAFAMとは、Google, Apple, Facebook(Meta), Amazon, Microsoftのこと。IT企業に限らなければTeslaも加えて良いかもしれない。
それらに似たような国産サービスはある。楽天やメルカリがそうだ。ただGAFAMを見ると、さすがに差を感じる。高度経済成長期の日本の経済力と技術力ならば、彼らに匹敵するものは作れたのではないか。

だがそうならなかった。それはなぜか。
日本人はITが弱いとか、ビジネスセンスがないとか、そういう点はすぐ思いつく。もちろんそれらが一因であるとは私も思うが、もっと別な視点を取ってみたい。

他者批判からの「私はそうじゃない」と特別感を意気込んで、出る杭になるようなメンタリティは私は持っていない。むしろそれらとは相容れなさを感じていた。
ベンチャーの気質はそれはそれで良いのだが、どこかに違和感を覚えていた。それはサロンのように、彼らのコミュニティーが閉鎖的にならざるを得ないことにある。

「やる気のある人物が世の中を変え、先導してきた」と後続する人たちは言うだろう。本当だろうか?
インフルエンサーの煌めきのように、あるいは映え狙いの写真のように、意識の高いビジネスマンは生存者バイアスで切り取る。いや、多くの人もそう見るところはあるだろう。

だが、見えている結果がすべてではないだろうし、外から見える結果から逆算して見たときの過程が本人等の内面を映し出しているとは限らない。人はみたいものだけ見るのだ。

Facebook創業者を描いた『ソーシャル・ネットワーク』という映画がある。
見たことがない人にはネタバレとなるが、物語はザッカーバーグの失恋に始まる。まあいろいろあったのだが、最後には孤独になった主人公が、自身等で生み出したサービスで失った女性を探し続けるという物悲しい幕引きだ。
もちろん恋愛要素を絡めるという大衆向けの側面が大きいとは思う。だからどこまでが事実か分からない。私はみたいものだけ見ているのかもしれない。大衆性に寄るものと、意識の高い少数派とのギャップ。

あくまで私の知り合った範囲で言えることがある。バブル期を生きていた上位層には見えないものがある。
なぜGAFAMは上手くいったのか。Appleの製品が良かったからか?Amazonには先見性があったからか?

日本の上位層にはなぜ見えないか。それは成功したからだ。
もっと踏み込んでこう言ってもいい。彼らは良き生活を、幸せを知ってしまったからだ。

『ソーシャル・ネットワーク』のザッカーバーグは幸せだったろうか。スティーブ・ジョブズは意識の高い人物だっただろうか。
なぜ彼らの切り取り方に違和感があったのか、その理由はその違和感にこそあった。答えは大衆性の側面と、ビジネス的な側面の差だ。

日本国内のソーシャル・ネットワークを見てみよう。有名なものは「2ちゃんねる」や(メインはコミュニケーションツールとしてではないが)「ニコニコ動画」がある。
その中身までは触れない。ポイントは「日本の上層がその中身を見ようとするか」ということ。

もっと多くの人にとって身近なサービスなら、「Twitter」がある。
ビジネスマンはそのSNS内で行われているやり取りを、広告を打ち出すマーケットして見る。消費者として見ている。
その視点は相手に寄り添っていない。

なぜ人は「いいね」を求めるのだろう。承認欲求があるからだ。そこは簡単な話だ。
ではどのように「いいね」を得るのだろう。「何かを発信して」だ。決して何かを消費することによってではない。消費がいいねに繋がることがあるとすれば、何かを体験して、何を思ったかで共感を得ることによってだ。

高度経済成長期に利益を得た人は、何かを所有することに価値を感じやすいのだろう。だから、車やらブランドモノを消費させることに視点が向いてしまう。
しかし、「いいね」を得ることに高額な商品は必ずしも要されない。発信は、何かを所有したり地位を得たりすることで、自分の価値を高めるようになされるのでもない。自慢話とは異なる。
発信するコトは、自分で生み出せばいい。

一度金や幸せを覚えてしまうと、最初の頃の気持ちを忘れてしまうものだ。感情は記憶できず、記憶した事柄を今思い出して今感情が再生されるのだ。
だから成功者は、なぜ当時自分が頑張りたいと思ったのか今から思い返すと、今の視点で意味を与えてしまう。「あの時こうしていたから上手くいった」と理由付けを組して再生してしまう。生存者バイアスで見てしまう。

もっとその当時の感情を掘り起こす。あるいは、別の視点を与えてみればいい。
「成功していないのに、何かを発信し続ける人の内に何があるのか」と。

成功から逆算して有益さを求める発想は、既存の社会の枠組みで稼ぐためには活用できる。それは「幸せを得るため」の一つの手段に過ぎない。
そしてそれは社会を変えるための駆動ではない。今の社会の中に幸せの形が描ける人は、そのレールに則っていれば幸せになれる見込みが立つ。だから社会を変える必要がない。

GAFAMのサービスを作った者、そしてそのサービスで自分の居場所を見つけた人々は、それまでの成功者が作った社会で幸せを得られただろうか?

そろそろ見えてくるはずだ、彼らの内にあったものが。

彼らはここではない世界へ行きたい。それはこの世界で生きるのが合わないから。

なぜ生み出し続けるのか。それは見向きされない自分を知ってほしいから。
換言するなら、自分の愛する世界で愛されたいから。

成功者の「ここは良いところだから、ここまで登っておいで」という声は届かない。それは自分の視点を相手に押し付けることで、相手の視点に寄り添っていないから。
成功していない人々、いや成功など望んでいない人々は、努力して何かを掴みたいのではない。「ありのままの自分でいたい、そのための世界」を望んでいるのだ。

だから自らを成功者と呼ぶ者は次のムーブメントを起こせず空回りする。ギャップに気づかず、自分のサロンに引きこもってしまう。出る杭の舐めあい。
「正解はこの世界にはない」。違う世界のあり方は、もっと良い世界ではない。「自分の居られる世界」だ。

モーツァルトやゲーテの制作頻度を調べてみると、多産だった時期の前に悲痛な手紙のやりとりが多く見受けられたそうだ。
その正否は分からないが、昨今のTwitterなどを見ていて何となく分かる。不満や苦しみが制作に繋がる人は確かに居る。そしてそれはビジネス的な駆動ではない。

よく意識の高い人に向けた図書からは「0→1を生み出す」という言葉を見かける。輝かしい成功を生み出した人の追随に奮えて。

私にはむしろ人の輝きはこう見える。
『-1を0に戻すために足掻いた』のだと。

私はこうしたフの感情から生まれるセイへの駆動を、防衛機制の昇華から取って『昇華駆動(ドライブ)』と名づけた。

もちろんこれは、不満を他者にぶつける者たちにはない。苦しみを自らに引き受け、別の形で外に押し出す働きだ。

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GAFAMが開拓した市場は、それまでの産業製品の品質担保の世界、あるいは資本主義的、マッチョ思考らしき世界から外れた人々も拾い上げた。
最初に述べたようにこれは仮説を重ねた思弁に過ぎず、どれだけ現実に即した空想になっているかは分からない。あくまで下から上を眺めたときに考えついた発想だ。

もしこの市場で完成しているのなら、次のステージは生み出されず、測定誤差の産物が生まれては消える程度となる。
まだGAFAMが取り切れてない市場があるか、もしくは彼らのサービスのアンチとなるものが生み出されるだろうか。

そう考えたとき、ITではない企業は宇宙を視野に入れている。宇宙には夢もあるし、軍事的な経済圏も期待できる。
しかし大衆性からは離れている。構図はBtoBに近い。非実体経済のゲームは金こそ動くが、大衆の認識を変えない(変えることがビジネスの目的ではないのだから、稼げれば十分であるが)。
形としては電車のように交通の利便性によって人の流動が激しくなるか、テーマパークのように訪れることがコンテンツになるかが宇宙ビジネスの受容され方だろう。

GAFAMのサービスが生み出したものが、発信者を大衆から個人へと変えたことであり、それが昇華駆動を加速させたというのが私の見解だ。
しかし、昇華駆動が働くのはあくまで制作に活動が結びつく作り手だけである。もし既存のサービスが補え切れていないものがあるとすれば、非制作的な人々である。

その補足として話題になりつつあるのが、「画像自動生成AI」だ。
これは指示を与えることで画像制作を生業としている人並みの作品を簡単に作れてしまう。こうしたサービスが流行る背景を考えてみればよい。

世の中には未だに新興宗教にはまる人がいる。その原因となる背景を不安な時代に帰すことはできない。今より生活が困窮している時代は幾らでもあったからだ。
そういったものに頼る人間が弱いのではなく、弱さを抱えた人間は誰しもそういったものを必要とするのだ。怪しいサロンや投げ銭で成り立つ配信者がビジネスとして成立する背景も重ねて考えれば良い。

私はこう見る。「人は責任を委託したい、かんがえたくない」のだと。
自分の代わりに苦労してくれて、自分の代わりに何でも決定して、利益だけを得たいと思っている。最終的には家畜になろうとも。

つまり最終的な市場は『神の代替』だ。これは戒律を定める父のような神ではなく、何でもしてくれる母のような神である。
ディストピアのSF作品でよく描かれる「政治家AI」や「お手伝いAI」がまさにそうだ。非制作的な人間はそこで完成し、終わる。

暇が増えればかつてのアテナイのように学問を始める者が増えるかもしれない。しかし、学問を興した人間は、最初からある程度の素養を持っていたと思うのだ。
利益だけを享受する人々を生き延びさせるような社会になるかは微妙なところだ。経済が生産の駆動となる資本主義なら、リターンを生み出さない人に何かを与えることはしないだろう。

もしそういう人々を無理やり経済に参加させるとすれば、『非意識的な肉体の貸し出し』はどうだろう?AIに労働時間中の思考を委託し、肉体を預けて仕事させるのだ。つまりghost in the shellの逆だ。hallelujah in the bodyとでも言おうか。
果たして人の嫌悪感は徐々に軽減されていくだろうか。

よろしければ、フォローかサポートお願い致します。 https://www.instagram.com/?hl=ja 夜勤シフトかつ経験値が積めない仕事に準じているため、生活の余裕と自己研鑚が必要だと認識しています。